第10話 【十】


「遠慮いたすな」


 次之間から大野がうながすと、

 

「「「……んだども」」」」


 もじもじと顔を見あわせる百姓たち。


 あれから、三人はまず井戸端に連れて行かれ、手足を洗い、衣服の埃を落とすよう命じられた。

 門前に座りこんでいたため、そのままでは屋敷に上げることができなかったからだ。

 可能なかぎりの身づくろいをすませたあと、百姓たちはようやく大書院に案内された。


 大書院は、表御殿中央南端にあり、襖を開け放つと、東西南三方に庭をのぞむことができる。

 座敷は、板廊下と入側によって二重に囲まれ、百姓たちは上座正面、次之間に接する南の入側にすわらされた。

 そこには、すでに火鉢が置かれ、三人が通されるとすぐ、梅の花をかたどった煉切ねりきりと、湯気のたつ大ぶりな茶碗が運ばれてきた。


 ところが、百姓たちは、なぜかなかなか手を出そうとしない。


「甘いものは嫌いか?」


 なぜか取り次ぎ役になってしまった大野は、やさしく問いかけた。

 

「お侍さま……」


 ひとりがためらいがちに話しかけてきた。


「これさても、ようがんしょが?」

(これを持ち帰っても、よろしいでしょうか?)


 若い取次役で安心したのか、さきほどより庄内訛りが強い。

 奥州内陸部の会津と、出羽沿岸部の庄内の言葉はかなりちがうのだが、だいたい理解できた。


れねが?」

(食べられないのか?)


 相手の気持ちをほぐすため、会津の国言葉を使ってみる。


「やや、持て帰て、仲間ながばさ、らすで」

(いえ、持って帰って、仲間にも食べさせてやりたいのです)


「んだか」


「なんじゃと?」


 いつのまにか真横に若君が。


 交わされる言葉も、奥羽特有の不明瞭な発音も、江戸生まれ江戸育ちの金之助にとっては、はじめて聞くものばかり。よく聞き取れず、上座を降りてきたのだろう。


「菓子を持ち帰り、仲間のものに分けてやりたいそうにございます」


「なかま?」


「おそらく、駕籠訴をおこなった、ほかの百姓どものことでございましょう」


 見ると、山川まで次之間に。


「かごそ、の?」


「駕籠訴があった場合、訴人は行列の供侍に拘束され、訴状を受けた各藩邸に連行されます。

 そこで簡単な聴取を受けた後、連絡を受けた所属藩のものが身柄を引き取りにくるのです。

 駕籠訴の百姓たちは、いまは彦根藩邸や浜松藩邸などにおりましょうが、いずれ庄内藩邸に引き取られるはず。

 当家からも、さきほど事情を知らせましたゆえ、のちほど神田橋から引取人がまいりましょう」


 神田橋とは、神田橋御門脇にある庄内藩上屋敷のこと。


「ほかにも、ぎみんが、おるのか?」


 金之助は大野の肩に手をおき、しばし思案顔。


「ならば、じゅうごと、つかわそう!」

 

 ふたたびとんでもないことを言いだす若君。 


「バカなことをおっしゃいますな!」


「ならぬのか?」


 お決まりのやりとりが、また始まる。


「この重は、奥方さまがお輿入れの際にお持ちになられた御道具。それを勝手に下賜するなど!」


 語気荒く反対する傅役。


 奥から渡された重箱は、会津葵紋と加賀梅鉢紋が散りばめられた逸品で、いまは金之助の褥ちかくに置かれている。 


「ははうえには、わしからいう」


「なりませぬ!」


 取りつく島もない剣幕に、困りはてた若君は、


「とうま~」


 いつものように、大野に全面委託。


(またか)


「では、折箱おりばこにでも詰め替えて、持たせましょう」


 折箱とは、経木きょうぎ(スギ・ヒノキ製の薄い板)を竹釘でとめて作った浅い木箱で、簡易な食品用の容器のこと。


「うむ、そうせい」


 若君の笑顔つき承認を得、


「なれば、台所に」と、立ち上がりかけたとき、



「酒井摂津守さま、お越しにございますっ!」


 室外から、上ずった声があがった。




(((摂津守?)))

  

 みなが記憶をまさぐっていると、


 すっと襖が開いた。



 そこには見覚えのない中背の男が。


 歳は三十くらい。


 青墨色の上質な羽織と銀糸の織りこまれた袴。


 そして、疲労の色がにじむ、彫りの深い貌。


「…………」


 男は無言のまま室内を一瞥し、百姓たちの姿を認めた瞬間、


「かよう所で、なにをしておるっ!」


 とどろく大音声。


「ふぇっ」


 突然の怒号に、泣きだす金之助。



 刹那――――理性が飛んだ。


 

「無礼なっ!」

 

 反射的に跳びだし、金之助を後ろにかばう。

 

「控えよ! 若さまの御前である!」


「な、なんだと!?」


 青白かった顔が、みるみる朱にそまる。


「そなた……わたしがだれか、わかっておるのか!?」


「だれでもかまわぬ! いきなり大声を出し、若さまを泣かせるような不届き者の名のりなど無用!」


「お、おのれ、下郎の分際でっ!」


 憤怒の表情でにらむ闖入者。


「ひっく、ひっく」


 金之助の泣き声を耳にするたび、ドクドク脈うつ血流。


(おれの、おれの大事な御主君をっ!)


 全身を駆けめぐる不可解な激情。

 

 冴え冴えと研ぎすまされていく五感。

 


 ――許せん――

 


 知覚のすべてが『殺意』に収束していく。




「お、お待ちください!」


 男の背後からあらわれた侍が、大野の前に立ちふさがる。


「それがしは、庄内藩留守居役・大山庄太夫安直と申します。

 こちらは、酒井左衛門尉さまご世子・摂津守忠発ただあきさまでございます!」


「だからなんだ?」


 われながら、驚愕する言葉がすべり出る。


「だれであろうと、わが主への非礼、看過できぬ!」

 

「これこれ、大野」


 後方から割って入るおだやかな制止。


「脇差から手を放せ。物騒なやつじゃのう」


 苦笑まじりの叱責に、はじめて自分が小刀に手をかけていることに気づく。


「うぐうぐ」


 背後にしがみつくいつもの気配。


 その感触が、高ぶる気持ちを徐々にいでいく。



「とんだご無礼を」


 深々と頭を下げる老臣。


「それがしは、会津藩江戸家老・山川兵衛にございます。そして……」


 傍らの少年を顧み、


「これなるは、若君付小姓、大野冬馬と申す者」


「大野と申すか、この無礼な小童こわっぱは?」


 血走った目で吐き捨てる男。


「会津は身分秩序がきびしく、礼儀作法にもうるさい家と聞いたが、どうやら違うようだな」


「この者は、出仕してまだふた月ほど。すべては家老であるそれがしの不行き届き。大野に成りかわり、お詫び申し上げますゆえ、なにとぞご容赦のほどを」


「山川さま!」


「ほれ、大野、おぬしも頭を下げぬか」


「なれど……」


 自分のせいで家老に頭を下げさせてしまった申しわけなさと、男への憎悪で、思考は錯綜。


「言いたいことはわかるが、こちらはすでに御目見おめみえもすまされ、従五位下摂津守に任じられておられる。

 かたや、若さまはいまだ御目見もすんでおらず、無位無官の御子。

 どちらが上位かは、申すまでもあるまい?」


「いまは従四位下だ!」


「おお、これは重ね重ね」


 武家社会は身分至上主義。

 すべては身分の上下によって決まる。

 たとえ同じ行為をしても、上の者と下の者のときでは、まったくちがう。

 酒井忠発がおこなった非礼は、無位無官の金之助はじめ会津側は甘受しなければならない。


 ――が、


「とは申せ、わしもおぬしとまったく同じ気持ちじゃがな」


 顔をあげた山川は、奇妙な笑みをたたえ、相手をねめつけた。


「なに!?」


「招きもせぬのに押しかけて来られ、当家の若さまとその客人に対し、あまりにも礼を失したおふるまい。はたして、礼儀を知らぬのはどちらでございましょうか?」


「なんだと!?」


 会津藩家老の思わぬ反撃に、絶句する庄内藩世子。


「ご家老……?」


 上役の豹変に、度肝をぬかれる少年。


「たしかに今は無位無官の身なれど、若さまもあと五年ほどで御目見。

 その折は、当家の慣例どおり、従四位下若狭守に任じられ、御登城時の殿席は黒書院溜間となります。

 なにしろ、わが会津松平家は、【常溜】の家にございますれば!」


「…………」


「そういえば、酒井さまの殿席はどちらでしたかな?」


 山川の口もとにさしのぼる不気味な冷笑。


「いまは、溜之間だ」


「いまは? おお、酒井さまは先年、日光廟改修費として多額の献金をした功により、【一代にかぎり】溜詰格となられたのでしたな?」


 温和な口調で、痛烈な皮肉。

 

 殿席とは、御城(千代田城)に登城した大名の控え室で、家格によってそれぞれの部屋が指定されている。


 黒書院溜間――別名・松溜――は、譜代席では最高格式の殿席。

『常溜』というのは、代々この席が約束されている名家で、三百諸侯中ただ三家のみ。

 譜代筆頭の彦根藩井伊家、水戸連枝の高松藩松平家、そして、二代将軍秀忠末裔の会津松平家だ。

 

「溜詰格は一代かぎり……となると、摂津守さまが襲封されたあかつきには、また帝鑑之間詰に戻られるのですなぁ」


「おのれ!」


「ふふふ、若さまは初登城から終身溜詰。多額の献金をせずとも、当家は未来永劫溜詰――【常溜】にございますればっ!」


(山川さまが……ケンカを売っている!)


 それは大野にとって、天地が逆さまになった以上の衝撃だった。


 そして、老人の暴走は止まらない。よほど腹にすえかねたようだ。


「摂津守さま、あの重をご覧ください」


「じ、重?」


 大藩の重臣からの猛攻に、男は完全に戦意喪失したらしく、すっかりおとなしくなっている。


「今朝方、奥よりことづかったの重は、奥方さまの御輿入れ道具にございます」


「それがなんだというのだ」


「家紋にございます」


「家紋?」


「重には、ふたつの家紋が描かれております。

 ひとつは嫁ぎ先の会津葵紋。

 そして、もうひとつはご実家の加賀梅鉢紋。

 伯父君にあたる加賀守さまは、妹姫似の金之助君を、わが子同然に可愛がっておられます」


「それがどうした?」


「おわかりになりませぬか? いま庄内は一藩でも多く、お味方がほしいはず。

 そのようなときに、国内最大の領国を持たれる加賀守さまのご不興を買うようなマネをしてもよろしいのでしょうか?」


「……っ……!」


「金之助君に対するこのふるまいが、万が一、伯父君の御耳に入らば、庄内にとってあまり良い結果にはならぬのではないか、と【他人事】ながら案じておるのです」


「山川さま……」


 大野は老人の迫力に圧倒された。


 そこにいるのは、いつものあの男ではなかった。


 いつもの――なにかとガミガミ口うるさい年寄で、若君のかわいい笑顔にコロッと丸めこまれる傅役――ではなく、いま目の前で礼儀正しく相手を恫喝しているのは、長きにわたり会津二十三万石の藩政を取り仕切ってきた老練な重臣。


(こういうやりかたが……)


 大野は、最前の自分をじた。


 血気にはやり、前後の見境もなく騒ぐなど、この成熟した泰平の世では下の下。

 子どもあつかいされても仕方がない軽挙妄動そのものだ。


 むしろ、謝罪したとみせかけ、慇懃無礼な態度を保ちつつ、相手をやりこめる。

 山川が見せたのは、まさに大人の戦い方。


(情けない)


 大野はまたもや己の未熟を思い知らされた。

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