第15話

コーヒーを入れようとしていた手を止める。椅子の上で菓子箱の中を覗き込み、光の具合を気にしながらピントを絞る彼はこの部屋に、私の何もない空間にやけになじんでいた。角度を変えながらシャッターを切る彼。少し伸びた癖のある髪。ライカがいいといいながら最初に買ったものだからと使い続けているニコンのカメラ。被写体を見つめる眼鏡の奥の瞳。


彼とともに生きれたらどれほど楽に歩けるのだろう。ただそう思い切るだけのことができない。

兄を愛していながらだからこそ何もできず、壊れそうな心を護るために、彼と付き合う。普通であるために男に逃げる。こんな私が彼と結婚したらそれは幸せなのか、それとも不幸なことなのか。ぼんやりとループする思考の中、増えていく蒸気を眺めていた。


「おい、何ぼっとしてるんだ」


気づけば写真を取っていたはずの彼が隣にいた。沸騰してるぞ、そういうと手馴れた仕草でコーヒーを入れていく。私はただ、立っているだけ。砂糖一杯半、と牛乳半分。コーヒー牛乳というより、牛乳のコーヒー風味を私に差し出すと、自分の分のブラックを入れる。彼の入れたそれは私好みの味だった。二人、コーヒーを手にすると自然と蚕種の前に立った。


「そんなもの、撮って面白い?」

「うん?観察日記つけるなら写真のほうが楽かと思って」


理科の先生のわりに冷めてるなと言って、彼は傍らにおいていた蚕の本をめくった。


「へえ、蚕って飛べないのか」

「うん」

「うちわ、作るのか」

「まあ、そのつもり」


意外そうな口ぶりに、にんまりと笑った。子供たちからさせられるだけなんてつまらない。せっかくなら自分が楽しくてメリットがあった方がいい。

蚕の繭を煮て、絹糸をとるのが一般的だ。もしくは繭に穴を開け、繭人形を作る。その段階で、繭の中の蚕を殺すことになりそこで命の授業もするのだ、というのがこれまでだった。だけど、同じことを家でまでしたくない。第一、繭を煮た鍋でそのあと食べ物を煮たくはない。人形などゴミにしかならない。そう思って調べていたら、蚕が糸を吐き出した段階で、うちわの骨に乗せると、勝手に蚕がうちわを作るというのがあった。そのあと蛹になった蚕がどうなるのかは分からなかったが自分がやる分についてはうちわにすることに決めた。


「じゃあさ、色つきのにしろよ」

「色なんてせっかくの絹なのに」


絹の美しさは糸自体がもつ光沢だ。それを人為的に染めるなんて。


「ちがうよ、これだと十匹使うんだろ。そのうちの一匹だけ赤い色つけるんだよ」

「何で赤」

「赤い糸ってよくないか」


そういって章は私の左の薬指をそっとなでた。ゆっくりとしたその動作が何を誘っているのかに気づかないほど鈍くはない。指をそっと絡めると蚕のふたを閉めた。


「気が向いたらね」


その返事に章は、ああと笑って電気の紐に手を伸ばした。

小さな音がして部屋は豆電球のほのかな光に満ちていった。

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