第4話
朝会が始まったのか校長の朗々とした声が響いている。
頭蓋骨の右上辺りを揺さぶる声に目の奥が熱い、気がした。
目の前の事象は見えすぎるくらいなのに、脊髄を通る間に何かをどこかに落っことしてきたみたいに脳の中で繋がらない。電気信号が反乱を起こしてる、多分。そうだ。このままじゃだめだ。おかしくなる思考を切り離したくて視線を窓の外に向けた。
とりあえず、思考を放棄しなければならない。
昨日の夕方鳩が激突した白い後が残る窓。その向こうに青が広がっている。事象だけを捉えれば、ぐらぐらしていた頭が凪いでいく。とりあえずの成功に息をはく。青が視界の全てになる。池みたいだ。ぼんやりと眺めていた視界の中に丸い物体が移りこんだ。窓の向こうに見える積乱雲と青い空の中に浮かぶぎょろ目。
水中からのぞく蛙みたいだ、と思った。ぼんやりとあれって両生類だっけ、動き出した思考が突っ込む前に、ぎょろ目の蛙が咳払いをした。
蛙が咳払い?
頭に浮かんだ疑問は声に出ていたらしい。
「せんせい、高井先生」
ぎょろ目の蛙!
一気に覚醒した意識とともに、条件反射でのけぞるところを、理性で踏ん張った。ぎょろ目の蛙もとい、山本先生が憮然として立っていた。
朝会はとっくに終わっていた。担任のある先生たちが教室へと向かうところだった。隣を見れば学年主任の田丸先生が気まずそうに目をそらした。ああ、やっぱり蛙は声に出していたのかと確信する。
とはいえ、不意打ちで見る爬虫類顔は心臓に悪い。さっきとは別の意味で早くなる鼓動に息をはく。山本先生は五十に足をかけた男性教諭だ。同じ理科が専門だからこそ、何かとお世話になっている。ということになっている。大変不本意だが。おそらく向こうもこちらの世話をするのは大変不本意なのだろう。眉間のしわが三本になっていた。
「聞いていましたか」
「ああ、蚕の件でしたよね。地元のことを子供たちに知ってもらおうという。蚕を分けてもらえるところが見つかったんですか」
養蚕で発展した町だから、毎年四年生に夏から秋にかけて育てさせるのがこの学校の伝統だ。とはいえ、忙しい時期に、虫、というと女の先生は嫌がることも多く、蚕の飼育が上手くいく年とそうでない年の落差はあるらしい。
「いえ、おうちの事情でもう養蚕はやらないとのことでした」
「じゃあ」
養蚕を営んでいた最後の一軒がおじいさんの死をきっかけにやめたというのはこの町では有名な話だった。
「ですので、蚕の種を買いました今日からでも始めてください」
「は?」
「毎年親御さんから、夏休みの一研究にさせたいという要望もあったのです」
「つまり、これから授業で扱っていくんですか?あと終業式まであと二週間ほどしかないですけど」
このくそ忙しく暑い時期にさらに仕事を増やすのか、この男は。収まってきた心が波立つ。
「まさか育て方をご存じないとか」
言外にこれだから若い女はという声が聞こえてきそうなほど露骨に、定年まであと五年だという彼はこっちを見た。研究畑を目指していたと聞いたが今ではどっぷりと「先生」をしている。ここで否定するのも馬鹿らしい。いつもならにへらと笑い、そうなんですよとやってみせるのだが、どうも今日は神経がおかしいらしい。
「蚕は孵化してから糸を吐くまで大体一ヶ月弱ですから、二週間もあればそこそこの大きさにはなりますよ。まだ下調べもしてありませんでしたか。それとも虫が苦手ですか。女の先生には無理だったかな。これから忙しいしね。無理なら予定通り秋口にでも」
聞こえよがしなそのせりふはいつもなら笑って済ませられるものだった。どれだけ挑発されたって論理だてて考えて答える。そのはずだった。それなのに昨日の夜の電話が大事なねじを外したみたいで、いつもの自分がわからない。なぜか今日はやけに勘に触る。
黄土色の広い額にマジックで落書きしてやろうか。
「山本先生」
「はい」
「卵ください。やりますので」
「卵じゃなく種です。気を付けてください」
渡されたのは少し大きめのピルケースだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます