主人公、次の国へと移動する 1
――これはまた、凄まじいの一言に尽きるな。
目の前に広がる酷い光景と、それを作り出した女とのこれまでのやり取りを思い返して、
「……いやはやまったく、これまでよく無事でいられたもんだよなぁ」
彼はくつくつと笑いながらそう呟いた。
●
――不意に響いた控えめなノックの音が耳に届いて、意識が覚醒した。
そして、一息の間を置いて言葉が続き。
「……お客様。お休みのところ大変申し訳ないのですが、そろそろ退出時間になります。
準備をお願いします」
聞こえた言葉にほぼ反射で肯定を返すと、扉の前から気配が立ち去ったことを確認した後で、ここがどこなのか、これまでに何をしていたのかを思い出した。
だから、
……いくらなんでも気を抜きすぎだ。
どうやら思索をしている最中に少しだけ意識を落としてしまっていたらしい、という事実を認識することになって、思わずため息が口から漏れた。
――ここが安全性の高い場所であることに疑いの余地はないが。
その安全性とやらも絶対ではない。
自分以外の誰かと誰かの利害関係が一致しさえすれば、あっけなく覆る程度の代物だ。
――一人で全てを行うつもりでいるならば、山場を越えるまでは気を抜くべきではない。
それがいったいどこにあるのかとか、いつになればそこを越えるのかとか――そんな考えも同時に頭を過ぎったけれど。
少なくとも、自分自身で設定したものに届くまでは、気合を入れて耐えなければならないだろうと、強く思う。
「……かったるいことこの上ないがな」
結果だけを言えば、眠っている間に殺されることも身動きを封じられることもなかったのだから、あれこれと無駄に思考を広げる必要はなかった。
次があるのなら、次から気をつければいい。これはそれだけの話だった。
――吐息をひとつ吐いて、気持ちを切り替える。
時刻を確認すれば、これまでであれば同行者である彼女とそろそろ合流していただろう時間が近かった。
「……少し出遅れたかもしれないな。間に合えばいいが」
ここに留まる理由ももう無い。
忘れ物がないかだけを確認した後で部屋を引き払い、目的の場所へと急ぐことにした。
●
一夜を過ごした建物を出てから足を向けた先は、彼女といつも落ち合っていた酒場ではなく、その道中にある路地のひとつだった。
そこは彼女が取っている宿と集合場所に指定した酒場を結ぶ経路のうち、この街に滞在している間において、使う頻度が最も高かった場所だった。
なぜここに向かったのかと言えば、その理由は単純明快だった。
どこぞの不埒者が彼女を狙って襲撃をかけるなら、ここを置いて他にないからだった。
彼女が使う経路のうち、最も人気のない場所がここなのだから、仕掛けるにはうってつけの場所だと言えただろう。
もっとも、真っ当な思考ができる人間であれば、女一人で旅をしているような人間が最も人気のない道をよく使っている、という時点で間違いなく罠を疑い、実際の行動に移すことを躊躇うに違いない状況でもあった。
――ただ、それはあくまで、正常な判断ができる状態にある場合に限った話でしかない。
この世界には魔術というズルが存在し、自分は他者の認識を弄ることに長けたそれを習得しているのだ。
それをかける相手に驕りや油断があれば、存外あっさりと思考を誘導することができるのは経験として知っていた。
……だから、そうした。
とは言え、自分に出来ることはあくまで判断や思考の誘導だけだ。
個々人の実力までは誤魔化せない。
だから、襲撃対象である彼女には、事前に襲撃がある可能性に思い至らせた上で準備をするように促したわけだが――結局は多勢に無勢であることに変わりはなかったから。
最悪の場合を考えるのならば、いざとなったらその場に介入できるように向かっておくのが最良の判断だろうと考え、その通りに行動をしてみたわけだけれど。
……どうやら余計な心配だったようだ。
目の前に展開されたその光景は、思わず笑ってしまうくらいに一方的なものだった。
なにせ、襲撃者たちは彼女一人に対して二桁に近い人数を用意していたと言うのに、開幕の一撃でその半数が使い物にならなくなっていたのだ。
これを笑わずして何を笑えと言うのだろうか。
襲撃者たちは数の有利を恃んで、彼女に対して居丈高に降伏を促したけれど。
彼女はその言葉を宣戦布告と見なして戦闘を開始したのだ。
最初の一撃で、おそらくはこの場に居た襲撃者たちの中で最も上の位にあった者の首が飛んだ。
多勢に無勢の状況に怯むことなく動いた彼女と上役の死を目の前にして、残る襲撃者たちは次の動作に移るまでに時間がかかった。
――結果として、驕りという名の油断を抱えた集団は、あっさりと瓦解して壊滅した。
判断と行動の早さだけで、彼女は数の不利をあっさりと覆したというわけである。
……まさか、ここまで強かったとはなぁ。
彼女が強いだろうことは予想できていたことだし、侮っていたつもりもなかったが。実際にその凄さを目にすればやはり驚きの方が強かった。
まさか、彼女の動きをはっきりと捉えることさえできないほどに力の差があるとは思っていなかった、というのが正直な感想だったのだから仕方がない。
現実にそんな動きが出来る人間がいるとも思っていなかったから、なおのこと驚きは強くなろうというものだった。
……しかしまぁ、あんなの相手に軽口叩いてたかと思うと今更ながらに肝が冷えるなぁおい。
よく無事だったな自分、とそんなことを考えながらため息をひとつ吐いた。
「…………」
まぁ多少の誤算はあったものの、状況は都合のいい形で進んでいるのだ。
ならばそれでよしとしておこうと、そう思っていると、
「――仕事は迅速にすることね。見つかったら面倒よ?」
件の彼女はそう言って、こちらに気付かないまま横を通り過ぎると、この場から離れていった。
そしてそのまま、彼女の背中が人混みに紛れて消えるまで見送った後で、彼女が向かった方向――いつも使っていた酒場とは違う場所へと足を動かした。
彼女は成果を出した。
ならば今度は自分の番だった。
「……どう転ぶかはわからんがな」
できることは全てやるとしようと、そう自分に言い聞かせるように呟いてから、目的地へと向かう足を速めた。
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