主人公、次の国へと移動する 2


 ――ああ、結局は、あの報告書にあった内容が全て本当だったということか。


 目の前に立つ貌の無い男の姿を認めて、男はがちがちと震える奥歯を噛み締めていた。



                 ●



 何かしらの情報を得たときに。その内容を理解し、その情報が意味するところが何なのか――そこに実感が伴うまで時間がかかる場合というのはよくあることだった。


 ――しかし、それが致命的な失敗を招くこともある。


 それらは偏に、経験の無さによって引き起こされるものだった。


 たとえば――そう、たとえば。天災などによる被害を受けた現地の状況などは一度でもその場に行ったことのある人間であれば容易に想像できることであるが、一度もそれを経験したことのない者からしてみれば、ひどいのだろうとか、厳しいのだろうとか、そんな軽い一言で済ませられてしまうこともあるのと同じことだった。


 前者の人間であれば適切に判断し、処置あるいは対応ができるものであっても。


 後者の人間が同じ情報を得たときに、同様の――適当な判断ができるかは難しいところであるというのは、この部分については、誰でも想像することができる違いというものであるだろうことに、疑いの余地はないだろう。


 そして、この考えに賛同できる人間であれば。

 この類の勘違いは絶対に避けなければならないことである、ということにも同意してもらえることだろうと、強く思う。


 ――なぜならば、その思い込みこそが取り返しのつかない過ちを犯す場合があるからだ。


 その過ちによって引き起こされた事態が、その判断によって、全てが引き返せないところにまで行ってしまう場合さえあるからだった。


 ――結局何を言いたいのかと言えば。


 簡単な話だ。


 私の場合は今回がそれだったという、それだけの話でしかなかった。


 この判断が間違いだと気付く機会はあった。


 最初のそれは、今回の任務に就くにあたって提供されていた、誰かが作った報告書の写しだったのだろう。


 そこには、何度も何度も――それこそしつこ過ぎるくらいに、この案件からは手を引けという報告者の意見が書き連ねられていた。


 ……まぁ任務が私のところにまで下りて来ている時点で、その意見は多くの人間から無視されてしまっていたわけだが。


 それも無理からぬことではあった。


 たかが一人の人間が、大した力も持っていなさそうな人間が、脅威に成り得るという話など誰も真に受けやしないに決まっていた。


 なぜならば、件の男が無駄な犠牲を出すこともなければ大きな成果を奪い取るわけでもなく、静かに、穏便に、事態を解決していただけだったからだ。


 ……それがどれだけ難しいことかはわかっていてもだ。


 それを脅威として認識するには記載された調査結果がささやかに過ぎた。


 そのささやかさだけに着目して、彼がどういう意図でそこを落としどころにしていたのかを想像さえしなかった。


 この国に所属しているがゆえに。

 なんだかんだと平和な状況が長く続いていたがゆえに、忘れてしまっていたのだ。


 世の中には、一人で国を相手取る決断と行動ができる化物が存在し得るという事実を。


 ――そして、私たちが引き返すことのできた最後の瞬間はやはり、彼に出会ったときなのだろうと強く思う。


 彼は態度こそ軽薄かつ挑発的であったが、こちらに告げていた内容は、今思い返せばすべてがすべて制止の言葉であったと理解できた。


 ……彼はこちらが何を告げてもいないというのに、私がどこの誰かを把握していた。


 派遣されている部隊の人数も。

 誰に何が可能なのかも。

 私達が何を把握していて、何を把握できていないのかさえも。


 加えて言えば、次に何をしようとしているのかでさえ――全てが全て筒抜けだったのだから、彼がそう判断するのも当然のことだった。


 ……それでもどうにかなるはずだと、そう思ってしまったあの瞬間こそが最大の失敗だったのだ。


 あるいは、そうなるように彼が仕向けていたのだろうと思ってしまう部分もあるし、それも間違いではなかったのだろうが。


 驕ることなく、冷静に判断する頭さえあれば引き返せたのも間違いない事実だった。





 ――部屋の扉を叩く音が響いた。


 こちらの返事を待たずに、その扉が開く音が続いた。


 一縷の望みを抱いて視線を机の上から扉の方向へと移した。


「…………」


 そして部屋に入ってきた人影、その貌が見えない事実を認識して全てを悟った。


 ――私が判断を誤ったせいで、ここに派遣された者の大半が志半ばで散ってしまったのだと。


 私はすぐに彼から視線を外して顔を俯かせ、目を強く閉じた。


 このまま過ぎ去ってくれればいいと、有り得ない夢想をしていた。


 ――しかし、現実はそう甘くない。


「いくら目を背けてみたところで、起こってしまったことは覆らない」


 彼の声がすぐ近くから響いてきた。


 色の無い、冷たい声音は続けて言った。


「望み通り、俺が直々にお前達の国に出向いてやるとしよう。

 俺は、お前らのように無関係な人間を巻き込んでもいいと思うほど、人でなしじゃあないんだぜ。

 ――ただ、そこから続く展開が、お前達の望んだものには決してならないということを肝に銘じておけ」


 一息。呆れたようにも、ただ疲れただけのようにも取れる小さな吐息を挟み、


「なぜならば。お前達が何に喧嘩を売ったのか、それがいったいどういう結果を招くのか。それらを心底から理解できるように――俺が一切の手加減をしないからだ」


 告げられた言葉に、一切の反応を示せなかった。


 普段であれば、そんな企みがうまくいくはずもないと鼻で笑っているところだったが。

 彼であればやり遂げ得ると、そう思えるだけの材料が目の前に揃ってしまっていたからだった。


「――今日中にこの街を出ろ。

 その後はただただ真っ直ぐ、巣に帰れ。寄り道をせずにな」


 その言葉を最後に、この部屋から彼の気配が忽然と消えた。


 ――視線を部屋中に巡らせる。


 彼の姿が無いことを確認して、すぐに椅子から立ち上がり、部屋を出た。


 彼からの指示は既に出ていて。私には彼に抵抗する気力など残っていなかった。


 だから、やれることはひとつだけだった。

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