主人公、暗躍する 2


 ――後悔とは文字通り、後になって悔やむことであるが。


 その軽重は時によって違うものだ。


 ちょっとした失敗の後で来るそれは、とても軽く。

 反省をした上で次に気をつければいいと前向きになれて、後に活かされることもあるだろう。


 しかし、世の中には取り返しのつかない事態というものも当然のように存在するし――そのような失敗には必ずと言っていいほど伴うものがある。


 それは何か。

 答えは単純である。


 ――恐怖だ。


 その失敗によって引き起こされた悪い結果、あるいは過程で起こった出来事に恐れ戦き、その恐怖は記憶に深く刻まれることになる。


 二度と起こって欲しくないという思いが、その人の行動を縛ることさえあるほどにだ。


 ただ、誰しもに言えることであると思うのだが、人間という生物はそれが自分に決して訪れることはないだろうと思っているフシがある。


 まぁ、そうしなければ誰も何もできなくなるのだから、当然といえば当然備わっている性質ではあるのだろうと強く思う。


 なにせ、その場に留まる、という単純なことでさえ他人の存在がある以上危険が伴うのだから、ある程度の出来事は最初から無いものとして認識しない方が生きる上では都合がいい。


 けれど。

 だからこそ、人は必ず失敗するのだ。


 その失敗が致命的なものであるかは全くの運によるものだろうけども――今回のこれは命があるだけマシな類のものだった。


 世の中には、失敗と同時に命を落とす例も少なくは無いのだから。



                  ●



 それが現れたのは、全くと言っていいほどに突然のことだった。


 夜。本来なら通常の事務処理を終えて帰宅している時間帯だったが、特別な用件があって仕事場にまだ残っていたときのことだった。


 その特別な用件とは、ギルドを通さずに仕事をしている愚か者を処断するというものだった。


 ――世の中の仕事の殆どは、ギルドを介して行われる。


 流通路の確保を行っているのは我々なのだから、そこを使いたいと言うのであれば筋を通せという、それだけの話なのだが――時折、そこを弁えない馬鹿が現れるのだ。


 ギルドは大きな組織であるし、たかだか数件の仕事を奪われたくらいで目くじらを立てるほど狭量でもない。


 ――ただ、そういったオイタを放置し過ぎると馬鹿が増えることになる。


 だから、我々が自ら動いて対応をしているのだ。


 全ては正常な秩序を保つために行われることであり、必要な仕事だった。


 もっとも、そんな馬鹿が滅多に現れることがないというだけで、極稀に発生する仕事だからこそ特別と表現しているに過ぎず、やっていることは大したことでもなかった。


 実際のところは、ギルドの長である自分が動くようなことはなく、部下に対応を任せてその報告を待つ形となっていた。


 ――仕事は迅速かつ確実に。そして、報告はその日の内に。


 基本中の基本。それを守っているというだけの話だった。


 余計な仕事を生み出してくれやがったその馬鹿には直接一言申したい気持ちもなくはなかったけども、今まさに処分されているだろうことを思えば、多少は溜飲も下がろうというものだった。


「今までなかなか尻尾を掴めなかったが、声を大にして喧伝する目印が現れてしまってはな」


 今回の相手は今までの馬鹿と比べれば格段に賢いようで、商売を行っていることはすぐにわかっても、それを行っている人物の特定が出来なかった。


 まるで幻でも追っているように安定しない人物像に、得体の知れなさから来る奇妙さを感じてか、特に互助会の長が関わることを非常に嫌がっていたが――別口で追っていたらしい誰かがその人物を見つけたらしいとの報告が今日上がってきて、緊急で対応することになったのである。


 ……追っている側の人間は確保できた、という報告は既に受けている。


 ゆえに、あとは当人の処断が終わったという報告を待つだけだった。


 ――そして、どれだけの時間が過ぎたかはわからないが。


 不意に扉を叩く音が響いて、その時は遂にやってきた。


「……入れ」


 ただ待っているだけというのも能が無いと、明日やる予定だった書類を片付ける手を止めずに、訪問者に入室の許可を出した。


「失礼します」


 応える声に聞き覚えは無かったが、ギルドの抱える人員全てを把握しているわけでもないのだから当然かと、そう考えてしまって相手を見なかった。


 扉が開く音がして、足音が響き――近づいてきた気配が自分の前方、テーブルから少し離れた位置で止まった。


「……?」


 訪問者に疑問を持つことが出来たのは、テーブルの前に気配が止まってから時間を置いても報告の言葉が聞こえなかったからだった。


「厄介者の処断に関する報告に来たんだろう。どうなったんだ?」


 作業の手を止めずに、視線を書類に向けたままで声をかけた。


 しかし、それでも答えは返ってこず、苛立ちから視線を書類から目の前へと移して――ようやく気がついた。


 自分の迂闊さに、だ。


 視線をあげた先、前方には誰の姿も無かった。


 どういうことだと疑問と焦りを覚えて体を動かそうとして、首に当たっている冷たく鋭い感触に気がついて身動きを止めた。


 視線だけを動かしてその感覚が示す先を見れば、自分の真横、テーブルの天板に腰掛けて、こちらを見下ろす男の姿が見えた。


 彼はこちらが自分の存在に気がついたことを知ると、嘲笑うような笑みを浮かべながら口を開いた。


「やあこんばんは、ギルドのお偉いさん。

 随分と俺に会いたがっていたようだから、こっちから来てやったぜ」

「……おまえがそうなのか」

「信じる信じないは好きにすればいいさ。

 ……しかし、人の女を攫ってまで会いたがっていた割には、喜んでいるようには見えないな」


 そんな言葉と共に、首に当てられた冷たい感触が強くなった。


 明確な命の危機に、反射的に動きそうになった身体を意思の力でなんとか抑えていると、彼がそのまま言葉を続けてこう言った。


「まぁ話し合いをしたかったわけじゃないんだから、当然だよなぁ」


 そう言ってから、けらけらと笑ったかと思えば――次の瞬間には首に当たったものが徐々に食い込んでくるのがわかって、口を開かざるを得なくなった。


「……わ、わざわざ来たのは何が目的だ!?」


 叫ぶようなこちらの言葉に、彼は少し驚いたように眼を見開いて手を止めた後で、小さく笑ってから言った。


「何が目的だと思う?」


 質問を質問で返すな! と思ったが口には出来なかった。


 ――出来なかったが、表情や視線までは偽れなかったようだ。


 彼の顔から笑みが消えて、低い声でこう続けた。


「勘違いするなよ。今お前が口にするべき言葉は俺への質問じゃないだろう。

 お前は今、何をすれば生き残れるかを必死に考えて、自分から何かを差し出さなきゃいけない状況なんだぜ。

 そして、それを俺が気に入るかどうかが重要なわけだ。わかるか?」


 彼の言葉にこちらが反応するよりも早く、続けて言う。


「判断を後押しするために教えてやろう。

 ――お前は今、正しく状況を認識できていないぞ?」



 どういう意味だ、と問い質そうとした瞬間に、視界から彼の姿が掻き消えた。


「……っ!?」


 しかし、彼はこちらに驚いている暇さえ与えてくれなかった。


 彼は低く小さく、ははと笑った。


 その声は正面から聞こえてきて、視線をやればそこに彼が立っていた。


「――――」


 この時点で既に驚愕で頭が真っ白になりそうだったが、何よりも驚いたのはそんなところではなかった。


 彼が立っている位置は最初に気配を感じた通りの距離感で――それはつまり、そこからはどうやったってこちらの首には手が届かないということだった。


 ――では、今首に当てているものはいったい誰が持っているんだ?


 そう疑問に思って視線を下げれば、そこにあるのは自分の腕だった。


 今、自分は、自分で刃物を首に当てているのだ――そう気付いてから身体を動かそうとしても、意思に身体はついてこなかった。


 ――彼の気配が動くのを感じる。


 ただ、それが本当であるかどうかも疑わしく思う自分がいた。


 信じるに足る根拠が無い。自分にとって何が現実で、何が本当だ?

 今、ここで、いったい何が起こっている?


「とは言え、これでも俺は優しい男だと自負していてな。

 お前から何も提示できないというのなら、俺から選択肢を提示してやろう。

 まずは、そうだな――このまま何も信じられないまま狂って死ぬか。それとも、俺に出会う前の真っ当な現実に戻って生きるかだ。

 どちらがいい?」


 その言葉と共に、何かが頭を掴む感触がやってきて、視界が暗闇に閉ざされた。


「さぁ、どっちがいいんだ? 

 俺はどっちでも構わないんだ。

 お前が死んでいようと生きていようと、俺には何の関係もないんだから」


 その言葉に、私は頭に浮かんだ言葉を迷わず返した。



                  ●



 全てが終わった後――つまり彼がこちらから引き出したい条件を全て引き出し終わって去ってからしばらくの間、私は椅子に座ったまま動くことができなかった。


 彼が私から引き出した条件は非常に多く、それらの条件を満たすために、これから苦労することになることは理解できていた。


 しかし、それらが些細なことだと感じるほどに、彼と相対してしまった事実が恐ろしかった。


 その条件を破れば再び彼と相対しなければならないのであれば必死になれると確信できるほどにだ。


 ――彼が立ち去った今でさえ、見えているものが本当なのか疑う気持ちが拭えないのだ。


 もう一度同じ目に遭えと言われて、誰が頷くというのか。


 自分そのものが不明瞭になっていく感覚を味わいたい人間など、居るわけもない。


「……明日から忙しくなるな」


 彼がこちらを見逃す条件を頭の中で整理しながら、それらを果たすために明日から行う作業を思ってそう呟いた後で、ため息を吐いた。





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