1時間め:食育のススメ
声に驚いたのか、うつ伏せになっていたベビードラゴンが弱々しく顔を上げる。
透き通るような黄金色にも見える瞳がマリアを貫き、白い艶やかな毛が逆立つ。ドラゴンには間違いなさそうだが、見たことのない色の瞳だ。
「リュゥゥゥ」
威嚇するように口を開ける。まだ歯は生えていない。赤く小さな舌がちろりと見えた。
「少し弱っているわね」
ゆっくりと、ベビードラゴンの下から右手を差し伸べる。
「――っ!」
ベビードラゴンが目にも留まらぬ速さでマリアの指に噛み付いた。
「マリアさん!」
「大丈夫」
手の動きで、ヨシュアに気を落ち着かせるように伝える。
歯がないはずなのに、顎の力が強いのか、危機的状況に火事場の力が出ているのか、食いちぎられると錯覚しそうなほどだ。自身に持続性の回復魔法をかけて、なんとか痛みを和らげる。回復魔法とは言っても、自己組織の修復能力を大幅に上げているだけなので、瞬時に治るわけでも、痛みがなくなるわけでもない。痛む時間をごく短くすることと、血を早く巡らせることで、痛みを感じにくくさせているだけだ。
マリアは心臓を抑え、呼吸を落ち着かせる。すでに心臓は、痛みの部分へ血液を送ろうと早鐘を打っている。基礎体力が低いので、興奮しすぎると、怪我の部分は治っても貧血になってしまう。
「大丈夫、大丈夫よ。あなたを傷つけたりしないわ」
なでると驚いてしまう可能性が高いので、左手も手のひらを上にしてベビードラゴンの前にだす。顎もあげて、喉をさらす。これで、敵意がないと示すモンスターは多いが、ドラゴンにも有効なのだろうか。
ベビードラゴンは、うなり声を上げながらもちらりと左手を見て、マリアの喉を見て、自分の咥えている手を見た。黄金色の瞳が薄暗い洞穴の中で底光りする。ゆっくりと一つ瞬きすると、ベビードラゴンはゆっくりとマリアの手を口から離した。瞳が黄金色から黄色へと変化する。
うなり声が止み、ドラゴンの尻尾が力なく干草の上に伸びる。と同時に、パタリと頭から干草に突っ込んだ。
「マリアさん! 大丈夫ですか?」
「この子の方が大丈夫じゃないみたい」
敵意がないことを感じ取ってくれたわけではなく、単純に限界だったようだ。小刻みに身体が震えている。マリアはベビードラゴンの背中にゆっくりと手を置いた。ドクドクと鼓動が脈打っているのがわかる。ゆっくりと耳を近づけると息が荒い。
「マリアさん!」
「シッ! 静かにして」
ベビードラゴンから遠ざけようと、肩を引いたヨシュアを振り返る。
「何をする気ですか!?」
「やれるだけのことをやってみるだけよ」
「マリアさん!」
ヨシュアが厳しい顔をする。眼帯がどんなにふざけていても、ヨシュアの鋭い眼光が透けて見えるようだ。
「マリアさんがいつも言ってるじゃないですか。モンスターの世界に人間が介入するのは間違いなんだって」
「そうよ。だけど、目の前で弱っている赤ん坊を見捨てるなんて一人の母親としてできないわ」
「それがこの子の寿命だったんです。それに、元気にさせて人間を襲いでもしたらどうするんですか? そうなった時に、俺はあなたをかばうことはできませんよ」
「それこそ、ここで死んでいるこの子を、母親のドラゴンが見つけたらこの森を怒りに任せて消滅させるでしょうね。もちろん、この森に近い私たちの村も尋常じゃない被害をうけるわ。探そうとしてめちゃくちゃにするかもしれない。だから、元気にして早く親の元に返してあげるのがいいはずよ」
ヨシュアはおそらくドラゴンの被害を受けた場所を見たことがあるのだろう。息をのんで黙っている。普段、雲よりも高い山の上で暮らしているはずのドラゴンの、しかも赤ん坊が、なぜこんなところに来てしまったのかはわからない。それほどにドラゴンは人間たちと接点がないはずだ。それゆえ、ドラゴンの体は部分的なものでさえかなりの高値で取引される。
金額と同じくらいに語られるのが、ドラゴンの恐ろしさだ。御伽噺のような伝説だが、ある天才ハンターがお金ほしさに、ドラゴンの目をひっそりとくり抜いて持って帰って来たせいで消滅した村もあると伝えられている。この話は有名だが、ドラゴンにとってはアリのような存在の人間をいちいち気にかけてるわけでもない。マリアたちを襲うなんてことは普通は起こり得ない。
「私が絶対に人間を襲わせないわ。リリアがいるもの。そんなこと絶対にさせない。約束する」
約束できることではないけれど、ヨシュアを納得させるためにあえて言う。赤ん坊のドラゴンの鼓動が弱くなってきている。このままでは危ない。
マリアの決意を込めた顔を見てか、ヨシュアが頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「負けました! わかりましたよ。で、何すればいいんですか?」
「手伝ってくれるの?」
「ここで手伝わなかったらジンさんに笑顔で殺されそうですもん」
おどけたヨシュアの口調に肩から力が抜ける。
「私の夫はそんなに怖くないわよ」
マリアも軽口で答えながら、顔をベビードラゴンに戻す。ヨシュアと話している間にも、手から伝わってくる鼓動は少しずつ早くなっていた。ベビードラゴンの背中に右手をかざして、回復魔法と回復能力を上げる魔法をかける。
「まずは、ここの中を温めたいわね。回復魔法がどれほど効くかわからないし、回復魔法プラス普通の対処療法で処置するわ」
普段は村の人々の怪我や、軽いものなら病気も診ている。治療に対しての学があったわけではないが、コントラクターでの経験がマリアを怪我や病気に詳しくさせていた。
「回復魔法効かないんですか?」
「ドラゴンは基礎能力が人間をはるかに上回っているのよ。おそらく治癒能力も高いから、人間に効くレベルの回復魔法だと意味がないかもしれないの。一番良いのは、この子の治癒能力を最大限高めてあげられる環境を作ることね」
「わかりました!」
ヨシュアがライトの呪文を唱える。剣の方が得意だと聞いていたが、ずいぶん様になっている。光の玉のようなものが3つほど部屋の中を照らした。
「ウォームの魔法もかけたのね。明るくて暖かくてとっても良いわ」
「俺は器用じゃないんで、魔法使うと動けなくなるのがデメリットなんですけどね」
確かにライトを浮かび上がらせる時の手の動きのまま、天井に手をかざしている。魔法が得意な人間ならば、一度浮かべれば持続的に効果を発生させられるし、違う魔法をかけることも可能だ。
「今は戦いじゃないもの。ライトにウォームを重ねがけできる器用さの方が重要だわ」
へへへと嬉しそうにヨシュアが笑う。マリアもつられて笑うと、ベビードラゴンがピクリと動いた。回復魔法をかけていた右手に背中を擦りつけながら、ヨシュアの出したライトの方へ這うように移動する。目は瞑ったままだが、しかめられた眉が辛さを物語っている。抱いて動かしてあげたいが、それも逆効果になるかもしれないと思うと、なかなか手を出せない。右手も一緒に移動させ、ライトの真下まで来ると、ベビードラゴンの目元が幾分か和らいだ。
暖かさか回復魔法のおかげか、ベビードラゴンの顔色が良くなったように見える。マリアは触れるかどうかくらいの優しさで、ゆっくりと左手の人差し指をベビードラゴンの頭に添わせた。滑らかな毛が指の先をすべっていく。
少し長めの詠唱をして、左手をベビードラゴンから離した。息に乱れはない。大丈夫そうだ。
「キュア、やめちゃうんですか?」
ヨシュアの額に汗が浮いている。洞穴は保温効果が高いようだ。
「リジェネに変えたわ。継続的に体力を回復する魔法よ」
マリアはベビードラゴンのそばを離れると、カバンからお椀を取り出し、そばに置いていたカゴから赤い実を10個ほどその中に入れる。あたりを見回すと、ヨシュアの腰に目を止めた。
「ねえ、ヨシュア。お願いがあるんだけど」
「大体予想がついたんですが、俺の剣を使おうとしています?」
「話が早いわ。すこーし、貸してくれる? ちょっと赤くなるかもしれないけど」
「剣の柄が、ですよね。ちょっと聞いてほしいんですが、この剣は俺のおじいちゃんが……って言ってる間に取ってますよね!」
ライトの玉に向かってあげている手を下ろせないヨシュアは、カチャカチャと剣を外すマリアに声をあげる。
「おじいちゃんも人助けに使ってもらえていると知ったら喜ぶわ」
「そういう使い方は望んでないかと思いますけど! 人じゃなくてドラゴンだしぃ!」
ヨシュアの悲痛な声をバックコーラスに、マリアは剣の柄を握って、底の部分で赤い実をゆっくりと潰す。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。
「あ、ああ。俺のギヌアース……」
ズリッと剣の柄が椀の底を滑る。思わずヨシュアの顔を見ると、さっと顔を背けられた。耳が赤い。マリアはヨシュアに生暖かく微笑むと、聞かなかったことにして、作業の続きを進める。
丹念に実を潰しながら、皮だけとなった実を除いていく。実から出た薄い紅色の汁が、少しずつ椀の底に溜まっていく。大人で一口ほどの汁が溜まると、マリアは自分の髪を束ねていたゴムを抜き取った。はらりと湖の水よりも碧い色の髪が舞う。
思い出はあるけれど、未練はない。
ゴムについた紋章を一度だけなでると、寝床の一部の干草を自身の髪ゴムで束ね、迷いなく赤い汁を吸わせた。白金の髪ゴムの一部が赤色に染まる。
「マリアさん、それ、コントラクターの証の――」
「もう、コントラクターじゃないわ」
干草をゆっくりとベビードラゴンの前に持っていく。甘酸っぱい香りが鼻を刺激したのか、ヒクヒクと顔を動かすと、ベビードラゴンはゆっくりと干草を口に含んだ。草露を舐める猫のように舌をだしたり、歯のない顎で噛んだりして、汁を吸っている。
「ちょっと待ってね。もっとあげるから」
汁気がなくなったのか、口からだらりと干草がはき出された。萎れた干草にさらに椀の汁を吸わせて、再びベビードラゴンの口元へ持っていく。今度は迷いなく、ベビードラゴンの口が開き、噛むだけではなく干草を舌でしごき始めた。吸うようにして口をすぼめ、口の中でぎゅっと押しつぶすようにして、汁を喉に流し込んでいる。
「そうよ。とっても上手」
力強くなる口の動きを励ますように、マリアが声をかける。
2回ほどお代わりをして、満足したベビードラゴンはゆっくりと目を瞑った。お椀の汁はほんの少しだけ残っている。
「ヨシュア、もういいわよ。ありがとう」
ライトの魔法を解いたヨシュアが、どさりとその場に座り込む。思っていたよりもヨシュアにとっては重労働だったようだ。
ベビードラゴンの背中をゆっくりと撫でる。やがて寝息らしき鳴き声が聞こえ始めると、マリアは背中に干草をかけた。
「ありがとう、ヨシュア。あなたのおかげで、この子、とっても気持ち良さそう」
「俺は汗だくですけどね。ドラゴンてのは寒いのが好きだと思ってましたよ」
ヨシュアは、ガードの制服を脱いでシャツ1枚になると、大きく息をついた。相当我慢していたようだ。
「ドラゴンは寒い地域に住んでいるけど、子どものドラゴンは、大きくなるまでお母さんドラゴンの背中の上で大きくなるのよ。お母さんドラゴンの背中はとても長い毛で覆われていて、布団の中にいるようにとても暖かいんだって」
ヨシュアがベビードラゴンの顔を見る。手のひらに乗るほどにしかない背丈に、消え入りそうな寝息。
「いつも一緒にいるから、お母さんドラゴンとベビードラゴンはとても絆が強いの。お母さんドラゴンは子ども想いで、食べ物の多くを子どもに分け与えるわ。子どものドラゴンも大きくなると年老いたお母さんを守って戦うの」
マリアはヨシュアの顔を見る。ヨシュアの眼帯が汗で濡れて、チューリップの絵柄にも泣いたように汗のあとがついていた。
「さっき、ここを襲われるって言った話はこの子を助けたいからだけじゃないわ。母親のドラゴンは必ずこの子を探しにくる。そして、母親はこの子にしか説得できない」
しばし、マリアの顔を見ていたヨシュアは一つ首を振ると大きくため息をついた。
「わかりました。わかりましたよ。知ってました。わかってました。そうくると思ってました!」
ヨシュアは剣の柄の底についた紅色の汁を丹念に拭き取ると、剣をかかげた。
「東の森の最強ガードであるこの俺と、俺の愛剣ギヌアースの手にかかれば――」
「ありがとう! ヨシュア。さすがだわ。手伝ってくれるのね! この子がこの森で暮らせるようにしてあげないと! ドラゴンは大昔は草食だったのよ。肉食獣のいないこの森でも他のモンスターや動物と一緒に暮らしていけるはずだわ」
「え、いや。あの、俺、母親ドラゴンを探すんだと……」
「なに言ってるの。迷子は動かないのが基本でしょう。私たちが動いちゃったら、母親ドラゴンがこの子の手がかりをなくしちゃうじゃない! お母さんドラゴンが来るまで、しっかりと食育しましょうね!」
がっくりとヨシュアの剣がおろされる。ギヌアースが本来の用途で活躍するのはもっと先の話になりそうだ。
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