ババアの食卓
和泉茉樹
ババアの食卓
僕は祖母と母と生活している。事情があって父はいない。
で、食事は全て祖母の法子が用意している。
つまりここから続く文章は、おおよそ実話である。
◆
一日の仕事を終えて、帰宅。さあ、夕飯だ。
服を着替えたり支度をして、居間へ行くとすでに祖母が作った料理が並んでいる。
食卓に視線をやって、瞬間、僕は食欲が消えた。
野菜炒めだ。味付けは不明だが、キャベツと肉がメイン。しかし、シンプル・イズ・ベストなどと褒めるのは、明らかな間違いである。
自分で白米を茶わんに盛りつけ、席に着く。祖母はまだ台所で何かやっている。
箸を手に、恐る恐る、野菜炒めを取り、口に入れる。
ひと噛みして、味が口いっぱいに広がる。
この味だ。もうウンザリするほど、味わってきた、この味。
何を使って味付けをしているんだろう? まずそれがわからない。生姜が入っているのは確実で、これはすりおろした生姜というような控えめな味ではない。強烈な、ガンガン来る生姜の味が、全てを塗りつぶす。
この野菜炒めは生姜に全てが支配された、終末世界の野菜炒めだ。
その世界には塩も胡椒も醤油も、何も存在しない。生姜の大攻勢により、絶滅しているのだから。
僕はとりあえず、口の中のキャベツと豚肉を飲み込もうとした。
飲み込めない。むしろ吐き出したい。
ほとんどの人は経験しないだろうけど、人間は同じものを頻繁に食べ続けると、それを受け付けなくなる。本当の話だ。もし僕だけなら、僕はこの件で論文を書いてもいい。
頻繁と表現したが、具体的な頻度は一週間に三回だ。
僕はもう数え切れないほど、この生姜に支配された野菜炒めを食べてきた。
もうやめて欲しい。
口に白米を大量に放り込み、お茶で流し込む。それでも口の中から生姜の味は消え去らなかった。
口の中は大戦争に巻き込まれた。どうにかして生姜勢力を押し返さないと。
結局、それから野菜炒めは食べられないままです。
◆
「玄太! ご飯!」
祖母は耳が遠い。それとの関連は不明だが、とにかく、声が大きい。休みの日、二階の私室でくつろいでいると、一階からの怒鳴り声で、昼食が告げられる。
まるで隣の家に呼びかけるような大声なので、どうにかしたいが、どう言っても受け入れられそうもない。
一階に降りて、居間の食卓を見て、目を疑った。
ブロッコリーを茹でたもの。これはいい。トマトを切ったもの。これもいい。
しかし、皿に乗っているテカテカ光っているウインナーはなんだ?
ウインナー……?
何の飾りもない、正真正銘の、ウインナー……?
どうやらそれが今日の昼食の全てらしい。
何が起こったか、説明しようと思えば、つまり買い物に行けなかった、となるが、祖母の料理はとにかく無計画だ。無計画で、極端なのだ。
僕は例のごとく、白米を用意して席に着き、まずはブロッコリーとトマトを食べた。
そしてウインナーに箸を伸ばす。
それにしても、ものすごく光っている。炒めたらしいが、これではほとんど油漬けだ。
健康に気を使わない人間でも、躊躇すること確実の、油の濃度。
他に食べるものがないので、手をつけたが、やはり油だ。どこまで行っても油、という感じ。
さすがにこんなものばかりは食べられないので、祖母にウインナーは茹でて出してくれ、と言ってみた。
「栄養が流れるじゃん」
……すごい返事だ。
反論として、肉や野菜を煮た時の煮物はどうなるか訊ねてみたが、吸収される、というようなことをごにょごにょと返された。
吸収される? わけがわからない。
それ以降、我が家ではウインナーは茹でて出されることになったが、そのウインナーには切れ込みが入っている。
栄養が流れると言ったその人が、なぜ、ウインナーに切れ込みを入れるのかは、僕には説明不可能としか言えない。
余計に流れるんじゃないか……?
◆
祖母の料理の無計画さは、メニューを見ると如実にわかる。
まず買い物に行った日は、とんでもないことになる。
マグロの刺身と餃子、とか。
焼き鳥とシュウマイ、とか。
つまり惣菜を買ってきてそれを出すわけだけど、こんなことが週に二度三度とあり、僕は必死に食べていた。
その時は体を鍛えていて、ちょっと筋トレとかもしていたので、タンパク質を取ろうと考えていた。だから、この豪勢すぎるメニューも良いかな、などと受け入れていた。
この極端な食事は際限なく続いていく。
焼き魚とモツ煮、とか。
カツオの刺身と豚の角煮、とか。
これをひたすら食べて数年が経ち、たまたま病院で血液検査と尿検査をすることになった。
尿酸値が高いと言われる。まぁ、誤差かもしれませんしね、という先生のお言葉があったけど、僕としても特別な食事を食べている自覚がなかったので、つまりは誤差だと判断していた。
時間が過ぎ、一年後。やはり血液検査と尿検査をする。
結果、尿酸値はやはり高い。
ここでやっと気づいたけど、僕、肉とか魚とか食べすぎだ。
これをきっかけに食事を見直す気になったけど、祖母は全く理解しない。
祖母の理屈では、腹が減ったら困る、ということになる。
とんでもない理屈だけど、妄想するところ、貧しい時代の記憶が強いのではないか、と思われる。
今の時代はすぐそばにコンビニがあって、本当に腹が減ったらなんでも買いにいけるけど、祖母の時代には店もないし、あるいは食べ物がなかったかもしれない。
現代人こそ食べ物を無駄にする、みたいなイメージが僕の中にあったけど、これはどうやら勘違いだと気づけたのは収穫かもしれない。
食べ物がなかった時代に生きると、もう二度と食べ物がない苦痛を感じたくない、感じさせたくない、と思うらしい。
空腹を感じるくらいなら、食べ物を捨ててもいい、というおかしな理屈だけど。
結局、僕は勝手に食べる量を自分で管理し、祖母が食べ残したものは、母が食べている。
母もだいぶ巨大になってきたけど、いつか、祖母が真実に気付くと思いたい。
最大の贅沢って、大量に食べるとかじゃなくて、大量に捨てる事かもしれない……。
◆
コンビニに祖母が出入りするようになって、驚愕したことは、賞味期限というものの認識が挙げられる。
ちょっと何を言っているか、理解されないかもしれないけど、賞味期限が記載されていないものは、いつまでも保つ、というような主張だけど、わかるかな。
象徴的なのは、祖母が買ってきた袋入りのキャベツの千切りだ。
冷蔵庫に放り込まれていて、食卓に並ばないので、賞味期限を見ると、まさに今日だった。
そのことを指摘すると、
「そんなもんに賞味期限があるだか?」
という返事が返ってきた。
どうにかこうにか、必死に理解すると、普通にスーパーなどで売られているひと玉や半分にカットされて売られているキャベツに、賞味期限の表示がない、ということが念頭にあるらしい。
いや、うまく伝わるかな、この事態は。
普通に考えれば、スーパーで売っているキャベツも時間が過ぎれば悪くなるし、腐っていく。それがなぜか、祖母には理解できないようだ。
普通に料理をしていれば、そんな事態になる前に食べきっているから、キャベツが悪くなるというイメージがないのかもしれない。
僕がキャベツの袋の賞味期限を見る理由はなんだろう? と考えると、それは新鮮なキャベツを使っているかを疑う、という発想かもしれなかった。
キャベツをわざわざ千切りにして、袋に入れて、しかも全部が売れるかわからないものを、いちいち、新鮮なキャベツでやる理由はないな、と僕は勝手に解釈していた。
祖母が何を考えているかはわからないけど、少なくとも、野菜には賞味期限はない、と思っているのは確定した。
いや、確定しちゃ困るんだけど。
我が家の冷蔵庫は主に祖母が管理しているが、これがとんでもない伏魔殿に早変わりする。
ある時は野菜を入れるところに、人参がゴロンと入っていて、手に取ってみると、ブヨっとした手応えがする。長い時間、冷蔵庫に放り込まれていたことは確実だ。
で、祖母に尋ねると、
「玲子が買ったんじゃねぇか?」
という返事だった。玲子というのは僕の母だ。
母が料理をするのは日曜日だけで、その時は母は自分が使う食材を自分で買う。
それにしても、祖母は母が買ったものなら腐っていっても放置するという、謎の行動を取っている。
こんな具合で、誰も管理できない冷蔵庫の一角に、長い時間、きゅうりの漬物の袋があった。
これの賞味期限が切れるのだから、我が家では賞味期限という概念は、まったく通じない。
ちなみにその賞味期限切れの漬物は、祖母が一口食べた後、捨てられました。
◆
そうめんがお中元で送られてくると、恐ろしい事態になる。
とにかく、大量に茹でられるのだ。一人で食べられる量ではない。
ここで祖母の不自然な行動が、事態に拍車をかける。
それは「私はメシがあるから」という発言とともに、食卓に自分の茶碗に白米を盛って持ってくるのだ。
いやいや、この目の前の大量のそうめんを、僕と母で食べろと?
この「私はメシがあるから」という主張は、例えば親戚が来るときにも発揮される。
親戚と祖母が一緒に食べ物を買いに行って、例えば人数分のパックの寿司を買ってきても、祖母は、「私にはメシがあるから」と自分の茶碗に白米を盛ってやってくる。
どう言っても、これが治らない。
他にも、トマトを切る時も、自分だけ別の皿に盛ったりする。そして僕と母の前には、その祖母の皿にあるトマトの四倍くらいのトマトが現れる。
どうしろと?
頻繁に、これは玲子が食べるから、などと母一人が食べるおかずを別に用意することもある。僕と祖母が食べた後に十分におかずが残っていても、そこにさらに追加でだ。
この、私にはあるからという発想が、そうめんになると、一層悲惨である。
僕は自分が食べたいだけしか食べないので、母が食べきっているんだろうけど、僕から見ても、そして母自身も健康が不安になると思う。
この、量がわからない、というのは、僕もたまに料理をするので、わからなくはない。
わからなくはないが、どういうわけか、学習することがない。
ここにも食糧不足の世代のちぐはぐさが見える気もする。
その一方で、不思議なのは、魚肉ソーセージやちくわのパッケージを見て、
「昔はもっと大きかったのに、今は小さくなった。袋がこんなに余っている」
などと、平然と口にしたりする。
最初はそんなものかもしれない、と僕も思っていたけど、よく考えれば、そんなことを気にする前に、食べきってくれ、となる。
我が家でちくわが中途半端に使われ、どれだけゴミ箱へ放り込まれたことか。
食べ物を買うのにも困っている人には非常に申し訳ないが、こういう場面を見るたびに、僕は、我が家へ来てくれ、と思わなくもない。
満ち足りていることは、実は悲惨かもしれない。
いや、実際に悲惨な状態になったことがないので、僕の感じている悲惨とは別の悲惨さの可能性もある。
悲惨で思い出した。
まさにそのそうめんが食卓に出た日、僕はめんつゆを用意するべく、お椀にまず薬味代わりの生姜のチューブの中身を入れた。
だが、その生姜のすりおろしが、やけに黒い。黒すぎる。
怖くなって賞味期限を見ると、数ヶ月前が記されている。
その時は回避できたが、その日の数日前、何かの料理に生姜と醤油を混ぜた調味料がかかった、思い出せない何かを食べた気がした。もう怖くなって、そこで思い出すのをやめた。
◆
とんでもない料理法として、レトルトのパウチを使う手法が一時期、祖母の中で横行した。
スーパーで売っている、酢豚や八宝菜などの味付け用のパウチと材料のほとんどすべての野菜が真空パックでセットになった商品が、この事態の引き金になった。
最初に異常に気付いたのは、酢豚の味の玉ねぎが出た時だった。
これは嘘や脚色ではなく、本当に玉ねぎだった。玉ねぎだけ。
しかし味は酢豚の味、酢豚のタレをまとっている。
どうなっているのか、わからないまま、台所へ行って真実がわかった。
祖母は酢豚の味付けパウチの中身の半分と、自前の玉ねぎを炒めて、それを作っていた。
開封されたパウチは半分の中身とともに、冷蔵庫に入っている。もちろん、手付かずの野菜の真空パックも一緒に入っている。
さすがに揉めたが、僕には開封されたパウチが怖すぎた。
このパウチに関する奇妙な事態は連続した。
ある時は麻婆もやしが食卓に出たが、祖母が「パッケージには肉が入っているように写真が載っているが、実際には肉が入っていない」みたいなことを言い出した。
またも嫌な予感だ。
台所へ行くと、麻婆もやしの味付け用のパウチがあり、中身が半分、残っている。
挽肉が入っていないのは当たり前で、ほとんどそのパウチの中に残っている。
びっくりする事態は、他にもある。
これは麻婆茄子が出た時だったが、やけに皿に乗っている量が少ない。
またも台所へ直行した。答えあわせは簡単だ。
麻婆茄子の味付け用のパウチは半分が残され、つまり、パッケージに表示されている分量の半分のナスに、パウチの中身の半分を使って、麻婆茄子を作ったのだった。
なんでそんな半端なことをしたのか?
それはむしろ僕が聞きたい。なんで? ねぇ? なんで?
このパウチを半端に使う件は、さすがにやりすぎなので、僕も口すっぱく祖母に指摘した。
老人はみんなそうなのかもしれないが、パッケージの注意書きをほとんど読まない。
まぁ、その注意書きも曖昧ではある。開封後はお早めにお使いください、とか、開封後はすぐにお使いください、とか、そんな具合で、やや日本語の問題、日本語力に帰結する表現になる。
なんにせよ、我が家ではもうパウチを半端に使うのは厳禁にした。
それまでに数え切れないほど、パウチの中身が捨てられたけど。
◆
祖母はとにかく、誰かが作った料理を真似ることが多い。
母がピーマンにマヨネーズを和えるようなものを作った後には、もやしにマヨネーズを和えたものが出た。僕が食べたか? はっきり言おう。食べなかった。箸を伸ばしさえせず、全力で見ないふりをした。美味そうな外見ではない。水とマヨネーズが混ざっている辺り。
これも母がシシトウを炒めるようなものを出すと、似たものが出た。やはり僕は手をつけなかった。
驚くべきアレンジがあったのは、車麩を煮たものや、高野豆腐の煮物が出た時だ。
祖母が作ったそれは、外見こそ母が作ったものとそれほど差がない。やや味付けが濃く見えるかな、という程度だ。
それで口にすると、最初はまだいい。
しかし、咀嚼すると、舌がピリピリして、そこから舌がビリビリ痺れ始める。
最初、何か変な調味料を使っているのではないか、と疑った。塩気が強すぎることからくる痺れじゃないな、と思いつつ、かなり恐々、食べていた。
それからしばらく時間が過ぎ、正体が判明した。
それは高野豆腐の表面に赤い点がついているのを見た時だった。
そう、この高野豆腐の煮物には、唐辛子の粉末が入れられている。舌の痺れは、辛さからくるものだったと、やっとわかった。
考えてみれば単純だが、いったい、どこの何を参考にしたのか、さっぱりわからない。
奇妙なコピー料理としては、母がハンバーグを作った直後に出てきたものが、興味深い。
その料理を見た時、何かに失敗したのかと思った。
挽肉とキャベツの刻んだものを混ぜてあるのは、わかる。それが焼かれているのもわかる。
しかし、どう見てもメンチカツのタネを焼いたような外見をしている。
何より、箸で持ち上げようとすると、ボロボロに崩れる。
デミグラスソースとかがかかっているわけではなく、祖母は「ソースか醤油をかけるか?」などと平然と言っていた。
このハンバーグとメンチカツの合いの子というか、いわばキメラはちゃんと食べたけど、味は肉だった。
何がどう作用しているのか、さっぱりわからないけど、祖母はたまにテレビで料理番組は見ている。そのレシピがメモされた紙も、僕は何度か見ている。
しかし、我が家の食卓に、テレビでやっていそうなものは出たことがない。
おそらく、部分的にはテレビの真似をしているんだろうけど、徹頭徹尾、という具合には再現できないらしい。
◆
祖母は長い間、ひとところで暮らしているため、近所に知り合いが多い。
別に交友関係には口出ししたくないが、とんでもない事態も起こる。
それは全くの偶然で判明した。
ある時、祖母の友人が来て、祖母と何やら話していた。別に聞く必要もないし、放っておいた。その友人が帰って行き、少し経ち、玄関のそばに一本のコーヒー牛乳のボトルが置かれていた。
飲みきりサイズの小さい奴だ。
祖母の友人が置いて行ったんだな、と放っておく気になった。放っておく気になったが、さすがに常温で置いておきたくない、と気を利かせて、冷蔵庫へ持っていく気持ちに、心変わりした。本当にとっさの心変わりだ。
ボトルを手に取った時、ボトルに茶色いシミがあるのが目に入った。
中身のコーヒーの要素が凝固しているのかな、などと思ったが、刹那、ひらめいた。
このコーヒー牛乳の賞味期限を調べろ。
こんなに怖いことはなかったが、ひらめいてしまったことは、ひらめいてしまったのだ。
で、ボトルのキャップに印字されている賞味期限を見る。
三ヶ月近く前だった。
信じられなかった。信じられなくて、何度か繰り返し、確認し、印字を何度も視線でなぞっていた。
何度見ても、数字が変わることはない。
祖母の友人は、いったい、どこでこの商品を手に入れたのか、それをまず考えた。いや、考えたところで何がどうなるわけでもないのだが。
まさか店で売っているとも思えないので、家にあったのだろうけど、それでもそんな、ワインじゃあるまいし、保存してどうするつもりだったんだろう? まとめ買いでもしたのかもしれないが。
詳細はわからないながら、コーヒー牛乳を備蓄するとは、恐れ入った。
ちなみにその時はそのボトルは未開封で、祖母は一口も飲んでいなかった。
それ以来、その祖母の友人が持ってきたものは、自然と賞味期限を調べるようになった。だって、怖いし。僕がまったく手をつけないとしても、祖母の身が危ない。
そんなことがある一方、我が家の冷蔵庫には常にとある乳製品の飲み物があり、祖母が配達を頼んで買っているのだが、賞味期限切れのものが頻繁に冷蔵庫に出現する。
扉の裏にある棚に、どうやら祖母自身が賞味期限の管理のためにそこに置いているようだけど、しかし、一日とか二日とか、平然と賞味期限を超えてそこに残っている。
やはり我が家では、賞味期限は重要視されないんだな、と強く感じる瞬間ではある。
もし健康に害がないなら、賞味期限を三ヶ月過ぎたコーヒー牛乳が、新鮮のそれとどれほど味に差があるか、気になったりもするけど。
◆
祖母の脅威的な衛生観念に触れた瞬間は、忘れられない。
その日は祖母が買い物に行った日で、それ自体はなんでもない。全く警戒することはないし、日常の一場面だ。
事態は突然に眼の前で起こった。
何かの都合で台所へ行くと、祖母が買ってきた焼き鳥を皿に移したところだった。電子レンジで温めるのは、見ればわかる。
わかるが、祖母の手には空になったトレーがあり、そこを指でなぞっている。
そう、トレーについている焼き鳥のタレを、指でこそげ取っているのだ。
その指についたタレをどうするのかは、瞬間的に理解できたけど、あまりのことに認められなかった。
果たして、僕が見ている目の前で、祖母の指が、焼き鳥に、直に、タレをこすりつけた。
さすがに僕は声をあげた。だって、こんなこと、ある?
僕も何年か一人暮らしをしたから、焼き鳥なんて数え切れないほど買って食べた。でもトレーについているタレを指でこすりつけるなんて、やったことがない。
やろうと思ったことさえない。
それが眼の前で起こって、我を忘れた。
祖母は手を洗ったから綺麗だなどと言っていたけど、僕の意識には決定的に、一つのことが刻みつけられた。
祖母が用意した焼き鳥は、食べてはいけない。
それ以来、僕はもう焼き鳥を食べる時、恐怖を感じている。
これも頭から消え去らない光景だが、ある夏の日、台所へやはりふらっと入った時、祖母が手を拭うタオルで額の汗を拭っていた。
手を洗った後にその手を拭うタオルで。
焼き鳥にタレをつけた手も、洗った後に拭ったタオルは、果たして清潔なのか。
脅威的な衛生観念が、こうして我が家では平然と、まったく自然に横行している。
そんな僕ですが、焼き鳥を食べる時は祖母の手が入っていない時に限定していて、もはや、祖母の用意した焼き鳥は拒絶するよりありません。
焼き鳥がこんな恐怖、拭い去れないほど強力な、深刻な恐怖を、僕の中に植え付けるとは予想もしていなかった。そもそもこんなに食べ物を口にするのが怖くなるとも、全く思わなかった。
何せ、焼き鳥は食べる以前に、それを見ただけでもう、ぞわぞわします、背筋が。
恐ろしい。
◆
これが僕の食卓とその周囲で起こる、食の事情なわけだけど、最後に祖母の料理の良い点を挙げておこう。
うーん、何があるかな……。
いや、うーん……。
えーっと……。
ああ、そうか。
もしもの時、食べられるものが溢れている。放置されている、とも言うけど。
こうして我が家の食事、祖母の奇抜さを紹介できることを感謝しつつ、僕は今日も、極端な食卓を前にしている。
さて、今日の食事はなんだろう?
(了)
ババアの食卓 和泉茉樹 @idumimaki
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