ひかげさんの読むリアリティーショー
日向日影
「ジョーカー」ネタバレレビュー:安い言葉だけど、これは自分の映画だ
注意
このレビューには映画「ジョーカー」のほぼ全般的なネタバレが含まれています。また、レビュー後半には映画「ライフ・オブ・パイ」のネタバレが含まれています。そちらを了承した上でお読みください。
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とにかく、何もうまくいかない。
仕事では失敗が続き毎日のように誰かから怒られ、家に帰れば何もできず時間が過ぎる。文芸イベントの選考にも落ち、新作のアイデアは出てこない。数か月前から久々に飲むようになった酒の量だけが増える。言葉を使うことにはそこそこの自信があったはずなのに、うまく言葉が出てこなくて、あらゆる状況を悪化させる。
うつ状態のチェックをすればきっとそれなりの診断が出るだろうけど、それをする意欲さえも出ない。買ったばかりのNintendo Switchをいじることをギリギリ楽しめる、あるいは楽しむふりぐらいはできている、そんな状態だった。
映画「ジョーカー」の評判を聞いた。
曰く、「アメリカでは警察や州兵が警戒をしているらしい」
曰く、「精神的な不安定な人が見ると危険」
曰く、「上映中止になるかもしれないから早めに見に行こう」
いくらなんでもそれは盛りすぎだろう。
そう思いながらも、自分は「ジョーカー」のことが気になった。
翌日は休みだった。
本当に何もする気が出なかった自分が、不思議と映画の時間を調べ、向かうことには抵抗がなかった。
翌日、モーニングショーの予告編を見ながら、いつもの理由なき不安に胸を詰まらせる自分に、その映画は、映画館では必ず買うことにしているキャラメルポップコーンの甘さとともにやってきた。
最初のシーン、ピエロの姿をして閉店セールの宣伝をする主人公アーサーが、セールの看板を少年たちに奪われたうえ集団暴行されるところで、もう涙が流れていた。そのアーサーの惨めな姿が、自分にしか見えなかった。もうその姿がつらくて、仕方なかった。
アーサーはコメディアンになりたい。しかし、彼にはおせじにも才能があるとはいえない。道化として子どもには喜んでもらえるが、彼がなりたいのであろう小粋な「ジョーク」を言うスタンダップ・コメディアンにはなれそうにもない。まさにライムスター「Once Again」の「夢別名呪い」だ。小説をみんなに読んでもらいたいという夢に呪われている自分が、そのアーサーの姿を見ていた。精神疾患持ちの自分にはもちろんアーサーのつい笑いが出てしまうという疾患とそれをめぐるカウンセラーや周囲の人間の目も覚えがあるものばかりだった。というか、この映画見てから二回ぐらい変な所で笑いが出てひんしゅく買ったんだけど大丈夫かな自分。
そしてアーサーが家に帰ると、そこには老いて弱った母がベッドに横たわっていて、彼はその母と粗末な夕食を食べ、テレビバラエティを二人で見る。モーニングショーを見に行ってよかった。周りに誰もいなくてよかった、きっと、隣に誰かいたら「えっここで」と思われただろう、自分は嗚咽した。自分も、老いた要介護の母と二人暮らしだ。ベッドに横たわる母とバラエティやスポーツ中継を見るなんてよくあることだ。
もうここでダメだった。そのあとはアーサーと自分が重なってどうしようもなかった。初めて人を殺して、トイレに逃げ込んでカギをかけた後その閉じた部屋の優しさ、そして自分と世界の変化を祝う儀式かのように踊りだすアーサー、エレベーターで一度会話しただけの女性に情欲を抱き、それが叶い、恋人同士として過ごしていると思ったらその全てが幻覚だったことを告げるフラッシュバック。そのフラッシュバックが映像的にはださければださいほど、まさに一番見たくないもの、一番きついものを見せられているという実感がすごくて、多分「あぁ」って声が出ていたと思う。
母親を殺すシーンは見られなかった。正直、最初の親子シーンの段階で「母親を殺すんだろうなぁ」とはわかっていた。でも、もうアーサーが自分だったので、見られなかった。今だから言うが、カクヨムにあげている小説「Oyasumi」は、「自分が母親を殺してしまうかもしれない」という恐怖をベースに描いた作品だ。だから、その時のことを思い出して、見られなかった。
母親を殺す前、アーサーは自分の本当の父親だと母に教えられたトーマス・ウェインに会いに行く。そしてここで父親からの承認を求める姿を見て、アーサーがコメディアンになりたいのも、コメディアンそのものになりたいというよりも、それでみんなから認められたいんだろうと、まさにそれは小説を描く自分の姿と重なるようだった。だからこそ、最後、アーサーの殺人を勝手に勘違いして勝手に英雄視する暴徒の歓声を浴びながら、キリストの復活を彷彿とさせるように起き上がる彼の姿を見て「よかったね、よかったね」と言いながら涙することしかできなかった。僕は、昔から「自己実現をもっとしないといけない」と言われてきた。あんな悲しい自己実現の瞬間を見せられたら、泣くしかなかった。
最後、精神病院の病棟にシーンが移り、この映画自体がジョーカーの作り話、つまりジョークであるということを強く示唆してこの映画は終わる。見た時は素直に言うとこのあたりでトイレに行きたくて大変だったのだが、あとで思い起こしたときに「ライフ・オブ・パイ」のことを思い出した。(ここから映画「ライフ・オブ・パイ」のネタバレがあります)「ライフ・オブ・パイ」は主人公のパイがトラを含む動物たちと漂流し助かるまでを描いた映画だが、実はそれはパイによる創作で、本当はパイが4人で漂流して、その舟でパイと、パイの母親を含む4人が殺し合いや食人をしながら一人だけ生き延びたのではないかということが強く示唆されて終わる。そのあと思い返したり、映画を見返せば、誰がどの動物のたとえで、どの行為が何をたとえているかなんとなくわかってくるという仕掛けだ。当時この映画を劇場で見て、「なるほど、こんなたとえ話の使い方があるのか」と思ったものだった。パイの物語は創作ではあるが、現実を伝えるたとえ話であった。ジョーカーの場合、もしこれがアーサーによる創作であったとしても、そこには真実が埋もれているのだろう、だから映画で描かれた彼の悲しみや苦しみは、たとえそれが創作でも実際のアーサーの思いにつながっているのだろうと、自分はそう考えている。
最後にこの映画は色んな論点を生んでいる。暴力を肯定しているのではないかとか、楽曲が小児性犯罪で服役している歌手のものを使っているのは許されるのかとか、今までのジョーカーのイメージと比べてどうなのかとかあるのだが、正直自分はこれについてうまく言葉を紡げない。もう自分はこの映画に危険なほど距離を近づけてしまったのだ。なんとか一つだけ言うなら「この映画は反ポリティカル・コレクトネスで、それゆえに成功した」というのは違うのではないかということだ。監督が「metooなどのムーブメントによりコメディが撮れなくなったからコメディ以外の映画で不謹慎なことをやった」と発言したこと、また一見するとインセル(主に男性の『非自発的独身者』要はパートナーに恵まれない人の中の過激派)的な願望が肯定されてるのではなどの映画自体のトーンからそう取られるのだろうが、個人的にはポリティカル・コレクトネスを逆に利用した作品というのが正しいのかなと思っている。コメディやお笑いというものが難しくなったのは本当にそうだと思うし、そうだとしても守るべきものがあるというのがポリティカル・コレクトネスだろう。ある種のデフォルメとか誇張といったコメディで使われうるものがポリティカル・コレクトネスと相性が決定的に悪いのは事実だと思う。ただ、本気でアンチポリティカル・コレクトネスならそれこそそういうコメディを撮るだろうなあ、とも。
こういう表現と社会的な影響という観点からいくらでも語れる映画ではあるが、自分にとってはとにかく特別な一本になった。それで十分だ。そして、この映画を見て、自分がどうにかなってしまうような感覚を覚えて、コンビニで普通に買い物ができたことにほんの少し安心しながら帰った自分が最初にしたことは、トイレの床にへたりこんで起き上がれなくなってた母親を起こすことだったことを最後に付記しておく。
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