第312話一条玲奈の日常その15
――バンッ
勢いよく本邸の食堂へと通じる扉を開けば、その中に居た人物達の視線が一人を除いて一斉にコチラへと向きます。
「お、お義姉様?!」
驚愕の表情で席を立つ少女の呼び掛けを無視して、そのまま我が物顔で食堂内を歩く。
壁際に並ぶ使用人達や、給仕の者たちから放たれるピリついた緊張感が少しだけ煩わしい。
私の家族を気取る女と双子から無遠慮に向けられる視線に至っては反吐が出る。
しかしながら私が何よりも一番気に入らないのは、私の事など眼中にないとでも言うかの様に食事の手を止めないこの男――
「――パパ、私お願いがあるの」
仕方がありませんので、母から『いい? 直志さ――お父さんにお強請りする時はこう言うのよ!』と教わった通りに、合わせた両手を頬に添えたまま首を傾げるという仕草と共に決めゼリフを放ちます。
このセリフと仕草にいったいどんな意味があるのかはよく分かりませんが、この男に対して私が嘘でもお願いをするという構図が耐え難く、どう頑張っても表情が作れません。
「……なんの真似だ?」
私が絶対に自分にしないであろう言動を行った為か、目の前の男も思わず食事の手を止めてコチラへとやっと意識を向けました。
先程まで詰まらなさそうに無表情で居ましたのに、眉間に皺を寄せて嫌悪感を隠そうともせずに表に出す様には滑稽と言う他ありません。
この男のこんな表情が見れるのであれば定期的にやってみますかね……母に感謝です。
「……そうですね、なんの真似かと言われると母ですね」
「……玲子か」
私に対して言いたい文句は山ほどあったのでしょうに、母の名前を出された途端にまた黙り込む。
何を考え込んでいるのか、それとも母の事を思い出しているのか……いずれにせよ、今会話している相手はこの私です。
「まぁ、いい……貴様の下らん気紛れに付き合うほど暇ではない」
意識が現実に戻って来たかと思えばこれですか。
「お前の様な出来損ないを外に出すのは業腹だがな、月一の社交界には出さなければならない……その準備だけは怠るな」
そして私の要件は聞かないまま、自分の話だけを一方的に行う様にはイラつきが募る。
「以上だ、去れ」
「私の用件がまだです」
「関係ない、聞く必要もない」
……あぁ、これはもう仕方がないですね。
まぁ、そもそもこの男とマトモに会話する必要もありませんでした。
ただまぁ、この男の意識が私に向いてから行った方が良いと思った……それだけの理由ですから。
「では勝手に終わらせますね」
「なにを――ッ?!」
訝しげにする男が私の方へと再度視線を向けるよりも先に、その腹立たしい面を思いっ切りぶん殴る。
椅子を引き倒しながら、テーブルとは正反対の方向へと倒れ込むその男。
嫌いな女とその双子の悲鳴、使用人達の息を吞む音、駆け寄る側近の心配の声……それらが何処か遠くに感じる程に私は少しだけ興奮してしまっている様です。
「旦那様! ご無事ですか?!」
「……私を殴るとは、随分と吹っ切れた様だな」
側近の手を振り払い、立て掛けてあった杖に縋りながら立ち上がる男に対して私は正樹さんの顔を思い浮かべながら――
「――〝うるせぇ、クソジジイ〟」
――彼の様に、ふてぶてしい態度で舌を出しながら中指を突き立ててやる。
「……母を泣かせた罰です、最期にあれだけ会いたがっていたのに」
私のその言葉で、何かを言おうと口を開きかけた男が今まで見た事もない程に顔を歪める。
「……、…………っ……」
何かを言おうとして、けれど何も言えずに口を閉ざして……自らを支える杖を持つ手とは逆の手で口元を抑えて私を凝視する。
その様子に、心做しか泣きそうにも老けた様に見える男の変化にいっそ哀れみさえ覚え、もう用はないとばかりに背を向け歩き出す。
私がこの男に向けて初めて哀れみという感情を抱いた事に免じて、写真を撮って脅す事は止めておいてあげましょう。
「傷の手当はよろしいのですか?」
「……」
ただ一人、この状況にも動じずに声を掛けて来た山本さんの言葉によって初めて私の右手が痛みを発している事に気付く。
どうやら嫌いな相手を殴り飛ばした時に少しばかり痛めてしまったらしいですね。
「……友人が待っていますので」
「左様ですか、それは急いだ方が宜しいでしょう」
そういった山本さんは柔和な笑みを浮かべ、優しい眼差しで何処からか取り出した湿布薬とテーピングを素早く施してから食堂の扉を開いてくれる。
「……お前に、友人だと……?」
山本さんにお礼を伝えつつ、衝撃から立ち直ったらしい男からの声に一瞥だけくれてこう言ってやる――
「――〝やり返せるもんならやり返してみろ〟」
言い忘れていたそれだけを吐き捨て、私は家の玄関へと向かう――
「――終わったか?」
聞き慣れた声に顔を上げると、正門のすぐ横に立っていた正樹さんの顔がありました。
私としては別に先に登校していても良かったのですが、自らが唆したからと律儀に待っていたらしいです。
「えぇ、意外とスカッとするものですね」
「そりゃ良かった……お前があの後ログアウトして直ぐに行こうとした時は焦ったけどよ」
焦ったとは言いますが、私に殴りに行こうと言ったのは正樹さんではないですか。
その後の必死な顔をした貴方の『さすがに夜遅せぇよ! せめて俺も出歩ける朝にしてくれ!』という要望にも従ったのですからもう良いでしょう。
「……それよりも、その顔の怪我はどうしたのですか?」
「あー、これはだな……」
どちらともなく、学校への道を二人で歩き出しながら気になっていた事を問えば正樹さんは言いづらそうに顔を逸らしてしまいます。
「言えない理由ですか?」
「そういう訳でもねぇけどよ……」
「ではなんですか?」
「……なんか今日のお前グイグイ来るな」
「……憎い相手を殴って少し興奮しているのかも知れません」
「怖ぇよ」
確かに今までの私でしたら直ぐに興味を無くしてしまうか、そもそも彼の怪我の有無に言及などしなかったかも知れません。
ですがまぁ、何故か気になってしまったのですから仕方がないでしょう。
「それで? どうしたのですか?」
「あー、なんだ、俺も親に反抗してみたってだけだ」
そう言って正樹さんは私から顔を逸らし、少しばかり恥ずかしそうに理由を説明し始める。
「お前に親に反抗する様に言っておいて、自分だけ何もしないっていうのもちょっとどうかと思ってよ……前々から意見が対立していた事で、その……親父と殴り合いの喧嘩をした」
「……あら」
彼の場合は律儀というよりも馬鹿正直と言った方が良いのかも知れませんね……まさか私を焚き付けたからと、自分まで親と喧嘩をしてしまうとは。
「その目やめろ、お前だって右手痛めてんじゃねぇか」
「……そうですね、ここはお互い様という事で」
「何がお互い様だっ……」
言いかけた途中で傷が痛んだのから、顔を顰めながら頬に手を添える正樹さんを見上げてそういえばと一つ思い出す。
「そういえば正樹さん、ご褒美の頬へのキスがまだでしたね」
「ハッ?!」
ダンジョンへと赴く前の、最前線に到達するべく急いだ道中で確か彼が死者ゼロにして勝った筈です。
そしてその時に私は『もしも死者ゼロに出来たら頬にキスをしてあげましょうか?』といったことを言っていました。
「ほら、少しだけで良いのでしゃがんで下さい……正樹さん、私よりも背が高いのですから」
「お前マジで言ってんの?! 俺の気持ち知ってるよな?!」
俺の気持ちというのは正樹さんが私へと恋心を抱いてる事を指しているのでしょうか?
確かに知っていますが、私は恋心という物が未だにピンと来ていませんので理解しているとはまた別ですね。
「煩わしいですね、ほらしゃがみなさい」
「おまっ?! ふざけ――」
抵抗する正樹さんの胸倉を掴んで引っ張り、そのまま彼の顔へと自らの顔を近付け――
「――本当にされると思いました? 残念、欧州式の挨拶です……チークキスと言うらしいですよ?」
「――」
お互いの頬と頬をくっ付けるだけのそれ……地域や場合によってはリップ音を鳴らしたり、両側の頬で複数回を行うらしいですが今回は片側に一回だけです。
そんな挨拶をされた正樹さんの、すぐ近くにある顔を見てみれば真っ赤にしてプルプルと震えているのが分かりました。
「一条てめぇ……」
「違いますよ」
「あぁ?! いいから早くこの手を離せ――」
せっかくのご褒美ですのに何故か憤慨している様子の正樹さんに首を傾げつつも、すぐ側にあった彼の耳へと口を寄せて本当の要件を声に出す。
「――私の名前は玲奈ですよ」
「――」
それだけ言ってお望み通り胸倉を掴んでいた手を離して一歩距離を取れば、彼は面白いくらいに変な顔をして固まっていました。
「正樹さん?」
「一条てめぇなァ……」
その様子に首を傾げるつつも名前を呼び掛ければ気が付いたのか、額に青筋を浮かべながら彼がコチラへと振り向く。
ですがせっかく教えてあげたというのに一条呼びは頂けませんね。
「ですから、私の名前は玲奈ですよ」
「……」
「……一条って呼ばれるの好きじゃないんです」
「……そーかい」
理由まで話すと彼は盛大に溜め息を吐き、もう仕方がないとばかりに怒りの表情を引っ込めました。
別に結城さんや舞さんだって私の事を玲奈と呼ぶのですから、友人同士では何も問題は無いはずです。
私だって正樹さんの事を正樹さんと呼んでいるのですから。
「で、玲奈さんよ」
「はいなんでしょう」
正樹さんが名前で呼んでくれました、私の勝ちです。
「心臓に悪いから、さっきみたいなのはもう止してくれ」
「そうですか? ……あら、正樹さん耳が赤いですよ」
「うるせっ!」
血流が上昇しているのでしょうか……まさかとは思いますが、心臓に悪いというのは本当の事なのかも知れませんね。
「無自覚テロまじで怖ぇーわ」
「……テロ?」
「……何でもねぇ、始業式に間に合わねぇから早く行くぞ」
「はぁ、そうですね」
まぁ、彼のよく分からない言動は今に始まった事ではありませんね。
「……気持ち伝えたはず、だよな?」
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