留守の間に

 ある日、コンラッドはガリア国内の紡績工場へ視察へ出かけた。

 ミズカは一人ガリア城内の書斎で、植物についての貴重な専門書を読みあさっている。ガリア城の書庫には、占領した国々から集めた書物が揃っている。リューデン王国ではありえない蔵書の規模に、ミズカはガリア帝国の大国振りを思い知るのだった。

 突然、後ろからミズカを呼ぶ声がした。凍るようにつめたく、針のように鋭利な声だ。

「妃殿下」と声の主は言った。

 ミズカが振り返ると、そこにはエルザが立っていた。

「エルザ様! お体の調子はいかがですか?」

 久々にエルザが顔を出したのでミズカは驚く。

「問題ございません妃殿下。私、今日は妃殿下に相談があって出向きましたの。」

「エルザ様が話しかけてくださるなんて、なんて嬉しいことなのかしら。」

 ミズカは微笑む。

「ハア?」エルザは嫌悪感たっぷりだ。

 だがミズカには全く通用しない。「私、エルザ様に嫌われていると思っていたの。コンラッドと“とても仲の良い”従兄妹同士だったのでしょう。私みたいな余所者が急に現れて迷惑しているんじゃないかって。」

 エルザは黙って話を聞いている。仲の良い従兄妹? 苛立ちで悶えそうだ。ミズカはそんなエルザの様子には気付かない。

「でもこのままじゃいけないって思ったわ。エルザ様と一緒にコンラッドを支えて、ガリアもリューデンも、争いのない豊かな国にしたいの。」ミズカは澄んだ目で語る。エルザの表情が見えないのだから無理もない。ましてや、エルザにどす黒い感情がうずまく様子など分かるはずもなかった。

 ミズカは、ガリアとリューデンのこれからのことや、ゲルグ人のこと。満面の笑みでこれからの展望を語っている。

 エルザは聞くに堪えず「妃殿下、お話し中申し訳ございませんが」そう言ってミズカの話を遮った。「私も妃殿下とお話がしたいと考えておりましたの。」

「まあ!」ミズカは嬉しさのあまり涙ぐんだ。「とても嬉しいわエルザ様。」

 エルザが歩み寄ってくれたと思い込み、心から感激しいている。

「その前にひとつ、お付き合いして頂いてよろしいでしょうか。」

 そう言ってエルザは、棚からチェス盤を取り出す。「妃殿下はルールをご存じですか。」と尋ねる。ミズカは頷き、そんなに沢山やったことはないけれど、と付け足す。

「一局お願いしますわ。」エルザはテーブルに置き、駒を並べ始める。


「あっ! いけない! 間違えてしまったわ!」

 それはミズカの、あまりにも酷いミスだった。エルザは全身がドクンドクンと脈打つのを感じる。エルザは中盤から劣勢。ミズカがミス無く続ければ確実に負けていたはずだ。ミズカのミスからは順当に進み、エルザはチェックメイトした。

「とてもお上手なんですね、エルザ様」ミズカはにっこりと笑って褒め称える。

 彼女の笑顔はますますエルザを苛立たせた。明らかにエルザが負けの試合だ。先ほどのミスは、あるいは意図して行われた可能性すらある。左程経験が無いと言っていたのが信じられない。だがそれは事実だとエルザには分かっている。序盤は定石通りに進んだが、それなりに時間を掛けて考えているようだった。あまりにも悔しい。ミズカの読みは正確で、頭脳の出来には歴然の差があるように思えた。

「・・・ところで、お話の件ですが」エルザは試合の挨拶をしなかった。「移動しませんか。良い場所がありますの。秘密の話をするのにうってつけの場所が。」

「まあ! とても面白そうですわね!」

 チェスをしたり秘密の場所を紹介したり、エルザはなんと遊び心のある女性だろうとミズカは思う。エルザはミズカに付いてくるよう言った。ミズカはチェス盤を片付け、丁寧に棚にしまい、エルザの後姿を追う。

 長い廊下を渡り、階段を降り、また廊下を渡る。城の中は複雑だ。ミズカはいつも決まった場所にしか行かない。迷って迷惑を掛けるかもしれないと思っていた。

「ずいぶん歩くんですねエルザ様。」

 エルザは返事をせずに階段を降りている。ミズカにとってはエルザの足音と自分の感覚だけが頼りだ。

「エルザ様、ごめんなさい。暗くて殆ど見えなくなってしまいました。これ以上進むのは・・・」

 エルザはぐいとミズカの手を引っ張る。エルザの手は凍り付いたように冷たい。ミズカはヒャッと小さく声を上げた。

「妃殿下、もう少しですわ。秘密の話をしましょうね。」

「ええ・・・。」楽天家のミズカだが、さすがに不安になって来た。

 カビ臭いにおいが漂う。空気は湿って重く圧し掛かるようだ。

 ミズカにはもう周囲の様子は何一つ見えない。少しの光も無く、目を閉じているのか、開けているのかすら分からなくなる程だ。

「着きました。どうぞ中へ。」エルザは鉄扉を開ける。

「エルザ様、ここは一体・・・なんだか変な臭いがするわ。動物の死骸のような・・・」

 戸惑うミズカの背中を、エルザは力強く押した。背中に衝撃を感じ、ミズカは転びながら扉の中で両手と膝をつく。思わず振り返ると、その時はっきりと見えた。

 エルザは先程まで消灯していたランプを灯し、ミズカを見下ろしている。何の感情も無い、とても冷ややかな目だ。

「また女をくださるのですか、エルザさまぁ~」

 ミズカが今まで耳にしたことないような、しゃがれた下品な男の声がした。複数だ。驚きのあまりミズカは声を出すことが出来ない。

「喜べ! そいつはリューデン王国の姫だぞ!」エルザは大声で言った。

 奥の方から十人~二十人ばかりの男たちがぞろぞろと這って来る。腐臭が一層強くなる。

「なあに~? またまた御冗談を。どこの誰でも構わねえ、女は女だ!」

「エルザ様・・・どうして・・・?」ミズカは声を絞り出す。状況を理解したミズカの唇は震えていた。

「あなたがガリア皇后になんて認めないわ! コンラッドを誘惑した田舎者の売春婦め!私はコンラッドを愛していたわ!」

「そう・・・だったの・・・」

「囚人たちよ! こいつは使い終わったら殺せ! この女は貴様らと同様、盗みを働いた者だ!」エルザの声からは憎しみしか感じられない。

「盗みの罰則が死刑に変わったなんて聞いてねえぜ、エルザさまあ~」

「こいつを始末すれば減刑も考えておくぞ!」

 ミズカは震えながら言った。

「エルザ様、私、あなたを傷つけてしまったのね・・・。本当にごめんなさい。」

「ふん、命乞いなど無駄よ。私ももうガリアにはいられなくなる。上等よ。こんな国もコンラッドも捨ててやるわ。さようなら!」

 そう言ってエルザはミズカを一瞥して鉄扉を閉めた。階段を上り始めたエルザは、ミズカの叫び声を聞きながら上を目指した。

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