第376話 愛娘たちの成長度

 毎日毎日が忙しく過ぎゆく中で目の当たりにする我が子の成長は、葉月ならずとも親という人種を喜ばせる。


 いつ頃、歩くようになるのか。


 いつ頃、喋るようになるのか。


 そんな心配をしていたのが遠い昔のように、今日もムーンリーフで過ごす葉月の愛娘は元気一杯だった。


 実希子宅にお邪魔した際に、意外にも穂月も興味を示した絵本を、休憩室と化している好美の部屋の床に二人の子供が広げている。


 実希子に煽られて追い回し始めない限りはさほどの苦手意識もないらしく、希も穂月から極端に距離を取ろうとはしない。


 不穏な気配を察知すると、すぐに逃走しようとするので気にはなっているみたいだが、幼心にもトラウマになっていないあたり、やはり希のメンタルはあの年齢にしてかなり強いと思われる。


「やっぱり子供って絵本が好きなんだな」


 配送から戻り、機器の清掃も終えた実希子が、

 ソファで一休みしながら目を細める。


「お姫様に憧れたりするのは鉄板かもね。

 ウチも――って、帰ってきたみたいね」


 送迎バスの排気音を鼓膜に捉え、実希子同様に休んでいた尚が腰を上げる。

 手を引かれて戻ってきた朱華はすっかり幼稚園にも慣れたみたいで、特にトラブルもなく園生活を楽しんでいるみたいだった。


 母親の尚に言われて手洗いうがいを済ませると、絵本に夢中の二人に歩み寄る。


「穂月だけじゃなく、希まで歓迎してるっぽいな」


 普段はこの時間、わりと母校の南高校のソフトボール部のコーチをしている実希子だけに、目にした光景が珍しかったのだろう。


「もうすぐ三歳とはいっても、二人ともまだ満足に字は読めないからね」


 大人には簡単な文章でも、子供にとっては難解な暗号に等しい。

 それでも絵だけである程度は楽しめるが、そこに完全ではなくとも、文字が読めるお姉さんが登場すれば、救世主も同然に映る。


 相変わらずお姉ちゃんぶりたい朱華が二人の間に入り、女の子座りをしながら本を読み始める。


 たどたどしいながらも一生懸命な様子は、母親でなくとも胸がキュンとなる。


 穂月も希も左右から絵本を覗き込みながら、

 朱華の話す言葉に目をキラキラさせる。


「平和な光景ね……ホッとするわ。

 ……と思うんだけど、なんで実希子ちゃんは不満そうなの?」


 椅子の上で腿に肘をついて子供たちを眺めていた尚が、隣から漂う不穏な気配に気づいて顔を上げた。


「アタシがあのくらいの時は、外で走り回ってたもんだけどな」


「実希子ちゃんと一緒にしては駄目よ。元々の性格もあるかもしれないけど、実希子ちゃんの場合はお兄さんがいたでしょ」


 好美に言われ、そうかと実希子が手を叩く。


「気が付けば外で遊んでたのは、兄貴たちの影響が強かったんだな」


 手を引かれて外で遊ぶことを繰り返せば、

 自然とそちらに興味が向くのかもしれない。


 もっとも実希子の場合は生来の運動神経が抜群で、

 順応性が高かったのもあるだろうが。


 しかし葉月がそう言うと、小学校からの親友は難しそうに顔をしかめた。


「親の贔屓目かもしれないけど、希も運動神経はいいと思うんだよな。それに可能な限り穂月たちと一緒に出掛けて、外で遊ばせたりもしてるし」


 高木家庭でのプール遊びや公園、さらにはキャンプなど、アウトドアな遊びも三人には教えている。


 穂月と朱華は狙い通りにはしゃいでくれるが、最後の一人がとんだ曲者ぶりを発揮する。


「まず車から降りようとしないしな」


 寝るか本を読むかしかしたがらない希は、食事ですらも与えられなければ構わないと言いたげに興味を示さない。


 本を取り上げる真似で運動を促そうとしても、ならばとさっさと睡眠モードに入る。寝せないように心を鬼にして体を揺すっても、強靭なメンタルぶりを発揮して動じない。


 それどころか揺らされる中でも、着実に夢の世界へ突き進む。


 だからこそ母親の実希子は唯一の天敵にもなりつつある穂月に、自分が全責任を負うからと希を追い回すように懇願するのだ。


「でも、無理やり動かすのもよくないと思うよ?」


「それはな、葉月。ある程度、運動してくれる子を持つ親の意見だ」


 ため息混じりの実希子が、ジト目で愛娘を見る。

 我関せずの希は、朱華の声を聴きながら絵本を凝視している。


「実希子ちゃんの言いたいこともわかるけど……」


 言葉を途中で止めた葉月の視界で、急に愛する我が子が立ち上がった。

 トイレにでも行きたいのかと思いきや、その場でくるくると回りだす。


「……穂月の奴、どうしたんだ?」


「さあ……」


 実希子ともども茫然とする葉月とは対照的に、穂月は満面の笑みだ。


「あはは、おひめさまのまねしてるんだね」


 楽しそうに朱華が拍手する。


 気になった葉月がこっそり様子を窺う。

 子供たちが読んでいたのはシンデレラで、場面は丁度王子様と城で踊っているシーンだった。


「やっぱり女の子はお姫様に憧れるわよね」


「……アタシの子も一応女なんだけどな」


 どこかうっとりと呟いた尚の隣で、実希子が頬をヒクつかせる。

 楽しそうに絵本の真似をする穂月の傍で、希は微動だにせずに絵本へ視線を注ぎ続けている。


「希、せっかくだから、王子様役をやってみたらどうだ。一緒に穂月と踊るんだ。さあ、さあ」


 とにかく少しでも娘を自発的に動かせたい母親が頑張るも、やはり僅かな反応すら返ってこない。


 その間にも、穂月は朱華から教えられたお姫様の台詞を頑張って言おうとする。

 舌足らずな感じがまた可愛くて、親バカの自覚がある葉月はたまらずにんまりしてしまう。


「くそう、てこでも動こうとしやがらねえ。母ちゃんはお前の将来が心配で泣きそうだよ」


 本当に涙目になりかけの実希子を、慌てて好美が慰める。


「成長すれば色々なことに興味を示してくれるわよ」


「だがなあ……小さい頃のなっちーの方が愛嬌があったっていうのは問題だぞ」


「なっちーに密告しとくね」


「葉月、それはしない約束だろお!」


   *


 母親たちの大騒ぎを後目に、子供たちは次の絵本を読み始める。


 外で遊ぶのも好きそうな朱華だが、絵本を読みたがる二人に付き合ってくれるのはありがたかった。ここらはお姉ちゃんになりたがる世話焼きな性格が影響しているのだろう。


「次は赤ずきんか」


 呟く実希子が顎に手をやる前で、にこにこの穂月が赤ずきんの真似をしてその場で足踏みをする。


 カーペットが敷いてあるとはいえ、ドスドスと音が響くので慌てて止めようとするも、苦笑する好美がいいわよと制した。


「親はまだ帰ってきてないし、マンションとかと違って下に誰か住んでいるわけでもないしね」


 真下に誰かが住んでいるのといないのとでは、

 子育てするに当たってはだいぶ違う。


 それでもうるさくしすぎると近所から苦情が届くだろうが、幸いにして葉月の周囲には逆に子育てを応援してくれるような人が多かった。


 特に子供の頃から知っているご近所さんであればなおさらである。


「好美の許可も出たし、希も遠慮なく暴れていいんだぞ。狼になりきって、穂月に逆襲するのはどうだ」


「実希子ちゃん!」


「だって希の奴、表情筋がピクリとも動かないんだぞ! 無表情でひたすら絵本を読む二歳児ってありかよ!」


 もはや実希子は半泣きである。

 母親にとって子育ては最優先事項でもっとも大変なのだと、同じ立場の葉月は改めて自覚する。


「……もしかして希ちゃん、少しだけど字が読めるようになってない?」


 静かに子供たちを見守っていた好美が、唐突にそんなことを言い出した。


「幾らなんでもそこまでは――」


 笑い飛ばそうとして、実希子が硬直する。

 母親一同の視線が集まる中、希は自らの手でページをめくった。


 これまでお姉ちゃんぶりを発揮して絵本を読んでくれていた朱華が、登場人物になりきって遊ぶ穂月の相手をしている間の一コマだった。


「絵だけ見てる……って感じじゃないわね……」


 途中で視線の動きが一旦止まるものの、そこに書かれているのは簡単な漢字。

 だが先ほど朱華に読んでもらったのか、すぐに読書が再開される。


「……あれはすでに平仮名がほぼ完璧に読めるわね」


「朱華ちゃんに読んでほしがったのは、漢字を教えてもらいたかったってこと? それじゃあ、ますますなっちーみたい……」


 尚や好美に続き、葉月までもが愕然とする。


「その情熱を……ほんの少しでいいから体を動かす方に向けてくれないのか……」


 歯軋りしかねない声で絞り出した実希子が、ガックリと膝をつく。


「だ、大丈夫だよ、実希子ちゃん。本を読んでいくうちにスポーツものとかにも行きあたるだろうし。そうすれば運動にも興味を持ってくれるよ」


「それか実希子ちゃんがソフトボールをやってるのを見せるとかね。菜月ちゃんも葉月ちゃんの応援をするうちにソフトボールに興味を持ったって話だし」


 葉月に続いて尚が励ますように提案すると、

 実希子は「それだ!」と指を鳴らした。


「希、今度母ちゃんが南高校に連れてってやるからな」


「……うわ、完全無視だ」


「実希子ちゃん、また泣いちゃうかも」


 葉月たちがハラハラするのもお構いなしに希は絵本を読み耽り、穂月は登場人物になりきって遊ぶ。


 まだ三歳にもなっていないが、絵本への反応一つとってもそれぞれの違いが顕著になってきた。


 こうして娘たちは成長していくのだろうと思えば、葉月の口元は自然と緩んだ。

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