第369話 柳井家の母娘喧嘩

 この日のムーンリーフは、肌がピリリとするような緊張感に包まれていた。


 原因は店の奥、事務所としても使わせてもらっている好美の部屋で仁王立ちする柳井尚だ。


 正面には腰に手を当てて、鋭く唇を尖らせている柳井朱華。


 幼稚園服がとても可愛らしいが、現状で葉月がそんな感想を口にしても、張りつめた空気を弛緩させてはくれないだろう。


 実希子や好美も仕事の手を止めている中、尚が細長い目を吊り上げる。


「ママは正座しなさいって言ったんだけど?」


 凄まじいまでの威圧感に、一瞬ビクっと朱華が肩を震わせる。

 しかし気の強さは母親譲りなのか、すぐに唇を噛み締めて、四歳児らしく可愛い顔をグイと上げる。


「いやっ」


 明確な拒絶を口にしても、やはり母親は怖いらしく、その顔は若干蒼褪めている。


「座りなさい」


 普段はわりと優しい母親の尚だが、今日ばかりはその面影すらない。


 葉月たちでも怯えそうな睨みと、ドスの利いた低音ボイスに、哀れにも小さな天使はガタガタと震え出す。

 目端には涙も溜まっているが、それでも朱華は首を左右に振り続ける。


 手を上げようとしないことだけは救いだが、周囲にも緊張感を強いる空気はなかなかにキツい。


 払拭すべく動いたのは、普段から尚と軽口を叩き合う中の実希子だった。


「おいおい、そんな頭ごなしの態度じゃ、朱華だって意固地になって当然だろ。何があったか知らないが、少しは冷静になれって」


「十分、落ち着いてるわよ。それにこれは柳井家の問題よ」


 暗に口を出すなと睨まれれば普通は引き下がるが、生憎と実希子はそこに当てはまらない人間だった。


「四歳の子供に凄みをきかせてる時点で落ち着いてねえだろ。あと、ここはムーンリーフだ。社員のアタシが口を挟むのは当然の権利だ!」


「……正確には私の部屋なんだけど……」


 抗議にはほど遠い口調だったのもあるが、苦笑交じりの好美の呟きは二人に届かない。確かに中央には大きなテーブルがあり、そこで好美は仕事をしているし、部屋の隅には葉月もよく利用するソファも設置されたままだ。


 けれど好美自身が言った通り、ここが彼女の部屋であることに変わりはない。あくまでも善意で、葉月たちは休憩所としても使わせてもらっているのだ。


 当たり前の事実を実希子の指摘で思い出したのか、尚も少しだけバツが悪そうにする。


「確かに実希子ちゃんの言う通りね」


 大きくため息をつき、つい先ほど、朱華を迎えに出た時の事情を全員に教えた。


   *


「虐めぇ?」


 怪訝そうな実希子の声に、尚が重々しく頷いた。


 四歳になってから幼稚園に通い始めた朱華は、帰りの際はバスで尚が仕事中のムーンリーフに送ってもらっている。

 バスの排気音を聞いて尚が店の前まで出迎え、幼稚園の先生と少し話をしてからバスを見送るというのが一連の流れだ。


 元気盛りの朱華は母親と先生の会話が終わるのを待たずに、正面から堂々と店に入ってきては常連客にチヤホヤされる。

 今日も途中まで恒例の行程を辿っていたのだが、少し長めの会話を先生と終えた尚は戻ってくるなり朱華の襟首を引っ掴んで好美の部屋に連れ込んだ。


 そこから最初のやりとりに繋がり、今に至ったのである。


「先生が言うには、他の子に意地悪するらしいのよ」


 いまだ正面で腰に手を当てて立ち続ける朱華にチラリと視線を向けるが、悩ましげというものではなく、第三者の葉月が見てもゾッとするほどの怖さを秘めていた。

 普通の子供なら泣き叫んでもおかしくなさそうだが、涙目になっていても頬を膨らませて徹底抗戦の構えを朱華は見せている。


「わたし、いじわるなんてしてないもんっ」


 小さな背中を頑張って反らし、母親の言葉を真っ向から否定する。


「じゃあ、先生が嘘をついたっていうの?」


「そうだもんっ」


 頑なに主張を譲らない愛娘に、盛大なため息をついた尚が徐々に苛々を募らせていく。


「相手の子供を押して、床に倒したっていうのは?」


「それは……あのこがわるいんだもんっ」


「やっぱり暴力を振るったんじゃない!」


 キンと響く高い声に、ビクッと怯んだ朱華の両目からとうとう涙が零れる。


「相手が怪我しなかったからいいという問題じゃないのよ!

 すぐに先方に謝りに行くわよ!」


「やだっ!」


 握り締めた両手を振り下ろし、反動で首を勢いよく横に振りまくる。

 単なる駄々っ子みたいだが、葉月の印象では目立ちたがり屋ではあっても、朱華は率先して他人を虐めるような子供ではなかった。


 幼稚園では事情が異なるのかもしれないが、虐めたと聞かされても、単純には信じられない。


「いい加減にしなさい! 悪いことをしても認めない子に、ママは朱華を育てた覚えはないわよ!」


 だが娘が当事者になったせいか、尚はいつになく感情的だった。

 このままではマズイと誰もが理解する中、こういう場面では誰より頼りになる実希子が彼女の肩を押さえた。


「落ち着けよ! 朱華の言い分だってあるだろ! 本当に虐めたってんなら叱るのは当然だけど、そうじゃなかったらどうすんだよ!」


「実希子ちゃんは黙ってて! これは私と朱華の問題なの!」


 店に迷惑がかかるというなら、すぐに早退すると目を血走らせる尚の前に、今度は葉月が立つ。


「ねえ、尚ちゃん。そんな悲しいこと言わないで。私たちはママ友同盟だし、それに朱華ちゃんだって娘みたいに思ってる。希ちゃんのことだってそう。関係ないなんて言われたら辛いよ」


「葉月ちゃん……! でも……!」


「尚ちゃんの気持ちもわかるよ。私だって穂月が将来、誰かを虐めたなんて聞かされたら、きっと冷静じゃいられなくなる」


 そこで一度言葉を区切り、あえて葉月は微笑む。


「だからその時は尚ちゃんに助けてほしい。私が立派に親の役目がこなせるように。落ち着きを取り戻せるように」


「……」


 眉間に皺を刻んだ尚が視線を落とす。

 怒りよりも戸惑いや悲しみが大きくなったこのタイミングで、実希子が力任せに尚の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「誰だって自分の大切な子供が絡むと、冷静じゃいられなくなる。お前の旦那の母親だってそうだったろ。例え頭のどこかで自分の子供に非があるとわかっていても、味方をせずにはいられない。それが親ってもんだ。

 ま、そういうアタシも親になって初めてわかったんだけどな」


 真面目な顔を照れ臭そうに歪めた実希子を横目で見て、今度は先ほどまでとは種類の違うため息を尚は零した。


「……実希子ちゃんのせいで、せっかく整えていた髪が乱れてしまったじゃない」


「だったら直すついでに、感情も整えろよ」


   *


 直前までの鬼気迫るやりとりのせいか、話を聞ける状態になっても、しばらくは拗ね続けた朱華だったが、やがてポツリポツリと事情を教えてくれた。


「要するに、遊ぶという名目で逆に意地悪されてると思ったのか」


 実希子がなるほどなと手を打つ正面で、椅子に座って足をぶらぶらさせている朱華がコクンと頷いた。


 唇を尖らせたまま俯いているので、また今にも泣きだしそうにも見える。

 それでも、たどたどしくはあっても、きちんと事情と自分の感情を説明しきった四歳児に、葉月は拍手を送りたい気分だった。


 同じ気持ちかどうかは不明だが、尚も先ほどまでの態度を反省するように額に手を当てて、重々しい息を吐いた。


「朱華の言い分が正しいなら、虐めてたのは相手の子じゃない」


 朱華の説明を端的に纏めれば、いつも一緒に遊んでいる子たちがいるのだが、そのうちの一人が「こんなこともできないのか」と笑われる光景をよく目にしたという。そこで朱華はその子に一緒に遊ぼうと声をかけた。


 以来、朱華とその子はよく二人で過ごすようになったのだが、今日になって前のグループの子たちが朱華を仲間外れにしようとしたらしい。


 別段、朱華とすれば一人にされたところで問題なかったらしいが、その子が朱華と一緒に遊びたいと言ったので話が拗れた。


 穂月たちへの接し方から見ても姉御肌な四歳児は、それならばと問題の子を守るように複数の子供たちの前に立ち塞がった。

 最終的に話だけに収まらず、手を伸ばしてきたので払い除けたら、元グループのリーダー格が勝手に転んだ。


 それが一連の暴行事件の真相らしかった。


「……朱華」


 真剣な声で名前を呼ばれた朱華が、小さな肩を揺らした。子供ながらに葛藤があったのか、しばらく動かなかったが、尚は我慢強く待ち続けた。


 するとゆっくり朱華が顔を上げる。


「さっきの説明に嘘はないわね」


「うん」


 問われた愛娘の返事に、尚は「そう」と深く頷いた。

 そしてピシャリと両手で自分の頬を叩いた。


「それならさっきはママが悪かったわ。

 事情も聞こうとせずに怒ってごめんなさい」


 深く頭を下げると、叱られても泣くものかと堪えようと頑張っていた四歳児が、涙腺が決壊したようにボロボロ泣きだした。


「わたしもっ、わるいのっ、うぐっ、うえええ、ママ、ごめんなさい」


 わんわんと泣く愛娘を、席を立った母親がしっかり抱き締めた。


   *


「聞いたか、尚の話」


 早朝の仕込みを手伝ってくれている実希子が、そんな風に葉月へ切り出した。


「この前のこと?」


 小首を傾げる葉月に、楽しそうに実希子が肯定する。


「謝るどころか相手の家に怒鳴りこんだらしいぞ」


 数日前に、朱華が他の子を虐めたと知らされた際の尚の剣幕は凄まじかった。

 それを向けられる相手に、ほんの僅かであっても葉月は同情を覚えてしまう。


「最終的には園も巻き込んで大騒動にした挙句、朱華の言い分を全部認めさせたらしい」


 実希子が言うには、園児であっても一連の出来事を目撃していた人間が何名もいたので、事態を見逃していた先生たちも意見を改めざるを得なかったらしい。


「相手の親は最後まで朱華が他の子を巻き込んで仕組んだと喚き散らしたそうだが、テーブルに足を乗せそうな勢いで尚の奴が一喝したんだってよ。何かあったら困ると付き添った晋ちゃんが怯えるほどの剣幕だったらしい」


「アハハ、尚ちゃんらしい……でいいのかな」


「いいだろ。けど、何で最初に話を聞いた時、あんなに取り乱したんだろうな」


「尚ちゃんだからだよ」


「あン?」


 不思議そうな実希子に、クスリとしながら葉月は自分の見解を伝える。


「虐めてる時は楽しいのかもしれないけど、ふと立ち返って被害者の気持ちや行為の無意味さに気付いた時、自分がどんな気持ちになるのか、誰より知ってるのが尚ちゃんだもん」


「そっか……そうだな……」


 焼き上がるパンの香ばしい匂いが店内を満たしていく。


 窓の隙間から漂って昇っていく先には、ずいぶんと高くなりつつある雲。

 今年も色々とあった夏も、もう終わろうとしていた。

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