第358話 葉月の職場復帰

 まだ夜も開けない町をほっほと歩き、葉月は近所迷惑にならないように目の前に迫ったドアに手をかけた。


「おはよー」


 そこは葉月が夢を叶えた場所。

 不在の間、大切な仲間たちが懸命に守ってくれたパン屋のムーンリーフだった。


「おはようございますぅ」


 準備を整えて厨房に入った葉月を出迎えたのは、一年以上も店長代理として頑張ってくれた茉優だった。


「今日から本格的によろしくね」


 そう。

 葉月は今日から仕事復帰を果たしたのである。


 これまでもちらほらと店の様子を見に来てはいたが、早朝の仕込みから本格的に参加するのは初めてになる。


「色々とたいぶ鈍ってると思うから、しばらくは茉優ちゃんの補助に回るね」


 これも前々から話し合って決めていたことなので、快く茉優が頷く。


「じゃあ、茉優も頑張るよぉ」


 すぐに和也もやってきて、三人で仕込みを始める。

 日が昇って夏の太陽が大地に光を十分に届ける頃になって、一つまた一つとパンが焼き上がる。


「和也君、それじゃ、今日もお願いね」


「おう。葉月も張り切りすぎて無理をするなよ」


「大丈夫。後からママも来てくれることになってるし、茉優ちゃんもいるし」


 手を振って出発した和也も、心なしか表情が明るかった。

 それもそのはずで、あちらも今日からは仕事が少し減るのだ。


「店にパンを並べたぞ」


 厨房にひょっこり顔だけ出した実希子も、葉月と同じく復帰したからである。

 市外の配送を和也が、市内の配送を実希子が担当する。


 それ以外にも昼には市内の各高校で訪問販売をする。

 これまでは学校の事務員さんに頼んだりしていたが、いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。


 現在は売上が比較的高く、極端に店からも離れていない三校で販売させてもらっている。そのうちの南高校は実希子が、それ以外は好美と尚が担当してくれる。


 実希子の運転するミニバンで順番に各校で人員と商品を下ろし、最後にまた実希子が順番に回って回収する手筈になっていた。


「これでムーンリーフも、とりあえずは順調に営業できるね」


 愛娘の穂月は家で和葉が世話をしてくれている。

 ちなみに希と朱華は店――というか好美のところにいる。

 好美らが外に出る前には、尚と同じパート社員という形態になっている和葉が出勤して、まとめて面倒を見てくれる予定だ。


「やっぱり働いてると、生きてるって実感がするな」


 朗らかに笑う実希子を周囲がからかうも、まったく同じ気持ちの葉月は笑顔で聞いていた。


   *


「久しぶりね、葉月ちゃん」


「うんー、またよろしくねー」


 厨房ばかりであまり店に出ないとはいえ、顔見知りの常連客は何人もいる。

 パンの販売を手伝いながら挨拶というか世間話に興じていると、また以前の日常が戻ってきたのを強く実感する。


 子供の世話も楽しい――辛さもあるが――し、母親としての充実も得られるが、やはり社会に参加していると妙に心が晴れやかになる。

 もちろん生きている限り、仕事上の弱音なども存在するのだが。


「前にちょっとだけ見たけど、あの赤ちゃんは元気?」


「はい。もうすぐ一歳で、この前ついに伝い歩きもしたんですよ」


「あらあら、可愛い盛りね」


「とっても!」


 笑顔で応じる葉月の娘は、もうほとんど夜泣きもしなくなった。

 予想よりも早く終わったと喜んだが、お世話になっている医師によるとまた突然再開したりすることもあるので、そうした場合も慌てずに落ち着いて原因を探すなりするように教えられた。


 とにかく動き回るのが好きな子で、大概は疲れ果てて夜もぐっすりになってきたので、実のところあまり心配はしていなかった。

 ちなみに掴まり立ちや伝い歩きが順調なのも、たくさんハイハイで練習したおかげで、上手くなるのも早いのだろうというのが医師の見立てだった。


 その穂月を見るたび、心底羨ましそうにしていた実希子は、いまだろくに動こうとしない我が子に半泣きだったが。

 今日も好美のところでお気に入りの簡易ベビーベッドで丸まり、非常に大人しくしている。


 時折、暇を持て余した朱華がツンツンとちょっかいを出すも、まったく反応してくれないので、寂しそうにすぐにお絵かきに戻る。

 なにはともあれ、午前中のムーンリーフはとても平和である。


   *


 葉月と茉優が揃って仕込みや翌日の準備に力を使えると、その分だけ仕事も早く終わる。おかげでしばらく休みがちだった南高校野球部のコーチに、和也を送り出すことができた。


 一緒に穂月やムーンリーフの世話をと最後まで後ろ髪を引かれていたみたいだが、その分、夜に家で頑張ってもらうと言うと納得してくれた。


「アタシもそのうちソフト部に顔を出さないとな」


「美由紀先輩に裏切り者って、首でも絞められるんじゃないの?」


 尚がからかうと、実希子は小さく肩を竦め、


「それは結婚を報告した時点でやられた」


「そのうち呪術とか黒魔術に手を出しそうね」


「冗談で済まなくなりそうだから、言葉にしないでくれ」


 和葉がレジを担当してくれている間に、葉月は帰還していた実希子たちと奥で一緒に昼食を取る。


 今日は午前中のうちに、和葉が穂月をあやしながら作ってくれていたというカレーだ。わざわざ鍋ごと持ってきてくれたのである。


「和葉ママの料理は相変わらず上手いよな」


 頬を膨らませる実希子の食べっぷりは、リスを連想させる。


「パンとかケーキなら、まともに勝負できる自信はあるんだけどねー」


「でも和葉ママ、茉優を手伝ってくれてるうちに、すっごい上手くなってたよぉ」


「好美ちゃんの代わりもこなせそうだし、つくづくママって才女だよね」


 その和葉は、わざわざ朱華のためだけに野菜をふんだんに使った甘口のカレーも作ってくれていた。

 穂月たちは離乳食なのだが、葉月には悩んでいることが一つあった。


「ねえ、実希子ちゃん。いつまでに授乳を止めるとか決めてる?」


「あー……特には考えてなかったな。つーか希の奴は何を食わせても嫌がったりしないし、いつでも大丈夫だろ」


「……相変わらず希ちゃんは我が道を歩んでるのね」


 葉月と実希子の会話を聞いていた尚が苦笑する。

 その隣では可愛らしいスプーンの使い方で、もぐもぐと朱華がカレーを堪能中だった。


 ちなみに尚は一歳を機に離乳食に完全に移行し、それから普通のご飯に慣らしていったという。


「やっぱり皆、一歳あたりなんだね。ママもその頃だって言ってたし」


「でも他人に合わせるより、穂月ちゃんに合わせた方がいいんじゃない?」


 そう言ってくれたのは好美だ。

 例によってスマホで検索してくれたらしい。


「一歳が乳離れというか卒乳の目安だというのは、日本だけの迷信という意見もあるみたいよ。欧米では卒乳までの平均は四歳二ヵ月らしいわ」


 全員が衝撃を受けたが、特に大きかったのは実希子らしく目を瞬かせる。


「一部の特殊な人間だけってオチじゃないだろうな」


「WHOやユニセフが公開しているみたいだから、それはないでしょう」


「日本だけ特殊ってことかよ」


「あくまでも平均だから、短い子もいれば長い子もいるんでしょうね」


「小学生になってもママのおっぱい呑んでるってのか」


「日本の常識では信じられないでしょうけど、世界から見れば非常識になってる可能性もあるからね。色々な情報を得るのは大切よ」


 そんな風に好美が締めくくったあとも実希子は納得いってなさそうだったが、葉月にとっては余計に悩むことになった。


「栄養の面でもいいことありそうだけど、穂月の場合、おっぱいをあげてるとすっごく安心してるっぽいんだよね」


「精神を安定させる要因になってるってこと?」


 好美に頷きを返し、だからこそどうすればいいのか悩んでいたとも打ち明けた。

 その穂月はとっくにお昼を終えていて、今は茉優に遊んでもらっている最中だ。

 そこにカレーを食べた朱華も加わるが、やはり希は微動だにしていなかった。


   *


「そんなわけで和也君はどうすればいいと思う?」


 夜にもまた授乳したあとで、子供部屋で一緒にパジャマ姿になっている夫にも相談してみる。


「俺は今井の意見に一票だな。穂月が欲しかったらあげればいいと思うし、欲しそうでなかったらやめればいい」


「うーん……でも家だといいんだけど、外で急に欲しがられたら、なかなか応えてあげられる場所がないんだよね」


「そういう問題もあるのか……」


「だから私も心情的には和也君と同じなんだけど……うーん……確かに大人の理由で子供に我慢させるのは嫌だよね……」


 夫婦揃ってうんうん唸るも、残念ながら良案は出てこない。


「とりあえずは今のままで離乳食とかも進めていきながら、欲しがるなら家で補助的に与えるとかみたいな感じでいいんじゃないか?」


「うん、そうしてみる」


 お昼にムーンリーフで色々なお姉さんに遊んでもらったので、平和すぎるくらいにぐっすりな穂月の前髪を優しく撫でる。


「あっ、そういえば野球部はどうだったの?」


「しばらく見ないうちに、一年だった奴が進級していい選手になってたよ」


「じゃあ、宏和君以来の甲子園が狙えそう?」


「どうかな……予選は運もあるから……」


 言ったあとで、思い出したように和也は話題を変える。


「高山先生と会ったけど、葉月たちにたまには顔を出せってさ。別に見学やコーチじゃなくてもいいからって」


「……もしかして合コンのおねだりとかされないよね」


「あー……高山先生だからなあ」


 話題が尽きると、どちらからともなく布団に入る。

 もしかしたら夜泣きで起こされるかもしれないが、久しぶりの本格的な仕事で心地よい疲労を感じていた葉月は、すぐにそんなことも気にならなくなるほど深い眠りに落ちた。

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