第357話 愛娘たちの成長

 毎日繰り返しのような日々だと感じたとしても、世界は止まることなく時計の針を進めている。


 それは人間である葉月――そして愛娘の穂月も変わらない。


「あーあー」


 リビング用の簡易ベビーベッドに穂月を寝かせて、ダイニングで家事をしていたところ、まだ何を言っているかわからなくとも、実に楽しそうな声が聞こえてきた。


「穂月ちゃん、ご機嫌だねー」


 顔を覗きに行ってみると、明らかに笑っている。

 大人ほどではないにしろ、肉眼で喜怒哀楽の表現が割合はっきりとわかるようになってきた。


 ぷにぷにと柔らかいほっぺをツンツンしてみる。

 擽ったそうにしながらも、怒ったりはしない。最近は夜泣きの頻度も、あくまで葉月の体感だが、落ち着いてきたような気がする。


「お昼はもう少しだけ待ってねー」


 手を振りながら笑顔で言うと、相変わらず楽しそうに笑う。

 もしかしたら、単純に遊んでもらっていると思っているのかもしれない。


「ばーばー」


「あっ、また違う言葉だ。でも、それは駄目だよ、穂月ちゃん。今はバーバが仕事でいないからいいけどねー」


「……なるほど。葉月は日頃から、そのような教育を娘に施しているのですね。わかりました」


「ひうっ!?」


 突如として背後から聞こえてきた声に、葉月はたまらず飛び上がる。

 恐る恐る振り向けば、そこには肩あたりで揃えたライトブラウンの髪がゆらめいて見えるほど、怒りで全身をプルプルさせている。


「待って、ママ! ママはママだけど、穂月にはバーバになるんだよ! 現実を受け入れようよ!」


「ばーばー」


「ほら! こんなに可愛い天使がバーバって慕ってくれてるんだよ! それでもママは葉月を怒れるっていうの!」


「くっ……!」


 何やら葛藤を抱え込む母親に、もう一息と内心で拳を握った葉月だが、ここでお手洗いに行っていた父親が戻ってくる。


「春道さん、聞いて」


 葉月が何か言うより先に、和葉が味方に引き入れようとする。

 すると、ここでもよほど気に入っているのか、愛らしい天使が「ばーばー」と手まで動かし始めた。


「お、抱っこか?」


 春道が抱え上げると、キャッキャッと嬉しそうに穂月がはしゃぐ。


「あれ? パパ、穂月が何を望んでるかわかったの?」


 ほんの少しだけ母親として自信を失っていると、春道が笑いながら言う。


「葉月がリビングで動いてる間、俺が面倒を見ることも多いからな」


 一通り遊んであげて満足した穂月をベビーベッドに戻すと、春道は和葉に先ほど話しかけてきた理由について尋ねる。

 かくかくしかじかと和葉の説明を聞き、葉月がやや真剣に見守る前で、一家の大黒柱は盛大に噴き出した。


「な、何がおかしいのよ」慌てたように和葉が春道に詰め寄る。


「二人とも勘違いしてるんだよ」


「勘違い?」


「ああ。ばーばーって多分、パパのことだと思うぞ。葉月、リビングでやたらと俺を呼んでるだろ。多分、それを覚えたんじゃないか」


「あっ!」


 納得できる理由に、思わず葉月は目をぱちくりさせる。


「大体、誰も和葉をバーバなんて呼んでないのに、どうして穂月が覚えるんだよ。こんなに小さいんだから、耳に馴染んでる言葉を意味もなく話してると考えた方がしっくりくるだろ」


「なるほど……では葉月の行動は何も知らない娘に、私の呼称を認識させるためのものだったと」


「違うってば! ママってば被害妄想が全開すぎるよ!」


「だって! 孫は嬉しいけど、バーバとかおばあちゃんとか呼ばれるのは切ないのよおおお」


「……切実な叫びだな」


 和葉の嘆きをまだ理解できていないだろうが、穂月はひたすら楽しそうに笑っていた。


   *


 バーバ事件からしばらくして、カバーをかけたコルクマットを敷いている子供部屋で穂月を遊ばせていた葉月は、室内の光景に瞠目したあと、顔全体に笑みを浮かべた。


「写真! ううん、動画だ!」


 慌てて自室から持ってきたスマホで、記念の瞬間を撮影する。


「ようやく穂月がハイハイしてくれたよ!」


 これまでもマットの上でうつ伏せになって寝返りを打ったりはしていたが、ここまできちんとハイハイしたのは初めてである。


 喜色満面の葉月は一人で歓声を上げながら動画を撮影し、ついでに明確な成長を果たした我が子が背後に映るように自撮りする。


「よし、こっちをまずはなっちーに送ってと」


『見て見て、穂月がハイハイしたよ』


『はづ姉、邪魔』


 LINEにすぐ反応があったものの、その返しは葉月が「ガーン」と口走るほど辛辣だった。


『お姉ちゃん、泣いちゃう』


『はづ姉、うざ』


 講義中だろうに、律儀に相手してくれるだけ優しいのかもしれないが、切ない気持ちがてんこ盛りである。

 仕方なしに、最初に撮った動画をメールで送ると、


『最初からこっちを送ってよ』


 と素っ気ない文面は変わらないのに、やたらと嬉しそうな様子の伝わるメールが返ってきた。


「なっちー、酷い。こうなったらパパに甘やかしてもらおう!」


 すぐにLINEで呼ばれた春道は感激して和葉に動画を送り、その和葉は切りのいいところで仕事を抜け出して来たのだった。


   *


 子供の成長は親が思うより早い。

 そんな実感を葉月に与えるように、ハイハイをし始めたかと思ったら、すぐに今度は掴まり立ちに挑戦し始めた。


 最初はなかなか上手くいかず、傍で見ている葉月はハラハラしっぱなしである。

 仕事中の春道を呼び出すわけにもいかず、ついつい妹にLINEしてしまう。


『穂月ちゃんの挑戦第五回、タイトル気迫』


『くだらないLINEを打ってる暇があるなら、怪我しないように見てあげなさい』


 どちらが年上かわからない有様である。

 それでも穂月の挑戦は気になるらしく、こまめにどうなったか聞いてくるあたり、菜月も姪が可愛くて仕方ないようだ。


 だからといって、茉優に葉月が虐めてないか確認させるのはどうかと思うが。

 やがて掴まり立ちに挑むのが飽きたのか、マットの上にごろりと転がる穂月。


「ああ、可愛いなあ」


 思わずほんわかする葉月の前でマットの感触を存分に堪能したあと、ハイハイして遊びだす。


 部屋から廊下に連れ出してあげると、フローリングの床を真っ直ぐに進み始める。


「穂月は体を動かすのが好きなんだね」


 お昼にこうしてたっぷり遊ばせてあげると、夜泣きもほとんどせずにぐっすり眠ってくれる。もしかしたらこれまでは有り余る体力を発散させるために、夜に泣き続けていたのかもしれない。


 あくまで葉月の勝手な想像でしかないが。


「この分だとすぐに歩くようになってくれるかな」


 間違っても階段に近づかないように監視しながら、ふと葉月は友人のことを考える。


「そういえば実希子ちゃんとこはどんな感じなんだろ」


   *


 同い年の娘を持ち、お互いに産休中とくれば、都合さえつけば簡単に一緒に娘同士を遊ばせてあげることができる。

 今日はママ友同盟の一員の尚も一緒だ。


 リビングではなく、穂月の部屋で朱華も含めた三人を遊ばせる。

 ……予定だったのだが。


「うわ、すっごいガン見してるんだけど」


 若干引き気味の尚がそう言う対象は、今まさに実希子に床に下ろされそうになっている希だった。


「なんだか無言で抵抗してるように見えるね……」


 泣きもせず、笑いもせず、ただじっと、どこまでもじーっと母親を見る乳児。

 葉月も尚も明言こそしないが、それなりに不気味さを覚えてしまう。


「いつもこうなんだよ」


 ため息をついた実希子がコルクマットに愛娘を寝かせる。


「あんまり反応ないようだったら診てもらったら?」


 尚が心配してそう言うと、目でそれぞれの親を見ていた希が急に動いた。

 ハイハイしてベビーベッドへ迫ると、掴まり立ちをした挙句に、転がるように中へ入り込む。


「えっ、ちょっ、何? 普通に動けるじゃん」


 目を丸くする尚を横目に、希はしっかりとベビーベッドで丸まる。

 態度だけで安眠を邪魔するなと告げているみたいだった。


「もしかして……実はすごい子なんじゃないの?」


「すごいってより、アタシは単なるものぐさなんじゃないかって思い始めてる」


 母親が露骨に頬をヒクつかせていようとも、まったく反応を示さない。


「親としては、葉月の子供みたいに元気に遊んでくれる方が安心するんだけどな」


 話題に上った穂月は、すでに自由に歩き回る朱華の後ろを、楽しそうにハイハイでついて回っていた。


 朱華もトコトコ歩いては振り返って穂月を待ったりして、自然とお姉さんっぽい振る舞いをする。


「羨ましいくらい微笑ましい光景だよな……」


「だ、大丈夫だよ! 希ちゃんだって、すぐに元気に遊ぶようになるよ!」


「……これがか?」


 周りの喧騒を物ともしない眠り姫に、全員の視線が集まる。


「実希子ちゃんの娘がものぐさって……」


「ちょっと信じられないよね……」


「アタシもだ」


 だが逆を言うと、すでに自分が何をしたいか理解し、そのための行動も把握して実行していることになる。

 そのことに思い至れば、尋常じゃない驚愕に襲われる。


「なんていうか……規格外ってところは実希子ちゃんの娘らしいのかもね……」


「嬉しくないんだが」


「だ、大丈夫だよ! 希ちゃんだって……ええと……ええと……」


「葉月、ありがとう……だが無理しなくていいんだぞ」


 そう言った実希子の顔は、すでに諦めの境地に達しているかのように穏やかだった。

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