第305話 春道の愛娘と過ごす前夜

 夜になるまで誰も帰ってこないことが増えた高木家のリビングで、春道はのんびりと妻の淹れてくれた緑茶を堪能していた。


 ついているテレビをぼんやりと見つめ、湯呑をテーブルに置く。


「葉月もついに結婚か。なんだかあっという間だな」


「年寄りっぽいわよ、春道さん」


 和葉が隣に腰を下ろす。二人の重みでソファがより深く沈む。

 背中を後ろに預け、春道は微笑む愛妻を見上げるような体勢になる。


「そうは言ってもな。思わずにはいられないんだよ、これが」


「気持ちはわかるけどね」


 春道と色違いの湯呑を両手で持ち、湯気を上げる緑茶を和葉が少しだけ口に含む。


「まだ小さかったあの子が中学生になり、高校生になり、大学にも行って、社会人になって、自分で起業して、愛する人と家庭を築く。フフ。道理で私たちも年を取るはずだわ」


「菜月も今年で18だ。東京の大学に受かれば、また寂しくなるな」


「その分だけ、二人きりで過ごせる時間も増えるわよ」


「そうなったら温泉旅行にでも行くか」


「それは良い案ね」


 娘が嫁に出る寂しさを埋めようとするかのように、和葉が春道の胸に頭を預けた。春道は妻の肩を抱き、伝わる温もりに変わらない幸せを覚える。


「ムーンリーフも順調だし、和也君も好青年だ。菜月も真君って良い彼氏に恵まれてるし、心配事が少ないってのはありがたいことだな」


「ええ。若い頃は、こんな時期が私に来るなんて思ってもいなかったけど」


「それは俺も同じだ」


 独身生活に突然ピリオドが打たれることになったのは、見知らぬ少女にパパと呼ばれたのがきっかけだった。


 あれから二十年近くが過ぎ、春道も和葉も皺が目立つようになった。

 娘は二人とも綺麗に成長し、道を踏み外したりもしていない。


「家族ってのは、こんなにいいもんだったんだな……」


「フフ。いつもだけど、今回もいきなりね。葉月がお嫁さんになることになって、感傷に浸ってるのかしら」


「構わないだろ。親の特権なんだし」


「そうね。私も嬉しいような寂しいような……とても不思議な気分だわ」


 ソファの上で両膝を抱え、昔を思い出すように和葉は天井を見上げた。


「母親と違って、伴侶を適当な写真から選ばなかったしな」


「春道さん!」


「ハハッ。悪い、悪い!」


 ポカポカと可愛らしく胸を叩いてくる和葉の頭を、春道は優しく撫でた。


「こんな軽口を叩けるのも、きっとホっとしてるからだろうな」


 春道は頬を緩める。


「仕事が仕事だけに収入が不安定な時もあったけど、和葉もよくやりくりして支えてくれたよ。それなりに貯金もあるし、娘二人を自立できる年齢まで育てられた。菜月はまだ見込みだけどな」


「確かに親の責任という意味では、果たせたかもしれないわね」


 春道は妻と頷き合う。

 菜月は家庭のことも考慮し、東京の大学でも国立を狙っている。

 いまだに家族想いの葉月は、店の売り上げで得たお金でいつでも菜月の学費を援助すると言ってくれている。


「折に触れて何度も言ってるけど、俺は幸せだよ。適当だったとしても、和葉に選んでもらえたことを感謝しない日はないくらいにね」


 春道の言葉を大切そうに耳の奥へしまいこんだ和葉は「あら」と首を小さく傾げた。


「だったら偶然という呼び方はもうやめにするべきね」


「なら、何て言えばいいんだ?」


「運命よ」


   *


 結婚式前日の夜には腕によりをかけて、和葉が葉月の大好物ばかりを食卓に並べた。デザートには例のスーパーで買った懐かしのプリンもある。


「前々から話を進めていたなら、教えてくれてもいいでしょうに」


 湯気を上げるグラタンをフォークで口に運びながら、どこか拗ねたように菜月が言った。


「ごめんね。

 全国大会を控えていたなっちーに、余計な気遣いとかさせたくなかったんだ」


「……姉の結婚を気遣うのは当たり前で、余計なんてありえないわよ」


「アハハ。そうだね」


 もう一度だけ葉月が「ごめんね」と謝ると、菜月も「もういいわよ」と返した。

 元から喧嘩しているわけでないのは、家族なら誰もがわかっていた。


「これが高木葉月として食べる最後の夕食か」


「え? どうして?」


「どうしてって、お前……嫁入りするってのはそういうことだろ」


 逆に春道が不思議がっていると、葉月はそうだとばかりに手をポンと叩いた。


「まだ言ってなかったっけ? 和也君が高木姓になるんだよ」


「……はい?」


 今度は春道の隣の和葉が首を捻った。


「だから、葉月は長女だから、和也君がお婿さんになってくれたの」


「えええっ!? き、聞いてないぞ!?」


 慌てて春道が和葉を見ると、妻も勢いよく顔を左右に振った。


「む、向こうの親御さんは知ってるのか!?」


「うん。和也君のお家はお兄さんが戻って来てるから大丈夫なんだって」


 葉月の話を整理すると、プロポーズをされたはいいものの、長女だから親と家の面倒を見たいと言い出した彼女に対し、和也が婿入りを即決したらしかった。


「ムーンリーフも高木葉月でやってるし、その方が書類変更の手続きも減っていいだろうって」


「……二人できちんと話し合って決めたんなら口を挟むこともないが、俺を気遣ってるんならその必要はないぞ」


「大丈夫ー。なんか和也君、ずっとそうなるからってご両親に話してたみたい」


「とんでもなく大きな愛ね……」


 頬に手を当てた和葉に、しかし菜月は半眼で言う。


「むしろ今日まで知らなかったママとパパに問題があるのではないの?」


「菜月は知ってたのか?」


 春道が問うと、末娘はまさかと肩を竦めた。


「ただその可能性はあるだろうなとは思っていたわ。まあ、そうでなくとも二人の面倒は最期まできちんと見てあげるわよ。幸いにして真も理解ある方だし」


「なるほど……菜月は真君と結婚する気満々なんだな」


「そっちに食いつくの!?」


 菜月の声が派手に裏返った。


「両親想いの愛娘に、もっと感動するべきでしょう!」


「生憎だが、毎日のように感動させてもらってるんでな」


「……まったく、口だけは上手いわよね、パパって。

 真が見習わなければいいけれど」


 唇を尖らせた菜月に、微笑を浮かべた和葉が言う。


「むしろ見習ってもらうべきよ。愛情を素直に言葉にしてもらえると嬉しいもの」


「だよね!」


「はあ……。この親にしてこの娘ありだわ」


 揃って乙女らしさを見せた母娘に菜月は頭を抱える。


「そうは言うが、菜月だって娘だろ。クールに振舞ってても、お人好しで姉御肌な性格してるんだし」


「パパ! あんまりはっきり言うのはどうかと思うわよ!」


「わ、悪い。謝るからそんなに怒るなって」


 特別な日ではあるが、だからこそ全員が普段と変わらない態度を心掛けているように思えた。


 たくさん話し。


 たくさん笑い。


 時に泣きそうに。


 時に懐かしんで。


 春道と結婚前の娘の夜は更けていった。


   *


 ――コンコン。


 布団に入り、あとは眠るだけとなったところで夫婦の寝室がノックされた。


「葉月か?」


 ドア越しに春道が尋ねると、すぐに肯定の返事があった。

 和葉がドアを開け、ベッドで胡坐をかいたパジャマ姿の春道の前で、同じくパジャマ姿の葉月がちょこんと正座した。


「パパとママにお礼が言いたくて」


「お礼?」


 春道が不思議そうにすると、少しだけ笑って、葉月は丁寧に床へ指をついた。


「今日まで育ててくださって、本当にありがとうございました」


 結婚前の挨拶と知り、春道の胸がジンと熱くなる。

 生まれたての葉月を引き取り、育ててきた母親の和葉なら尚更だろう。


「葉月はお二人と血が繋がっていません。だけど、本当の娘だと思っています。そしてパパとママも実の娘として扱ってくれました」


 顔を上げた葉月はもう泣いていた。


「小さかった葉月の我儘でパパは本当のパパになってくれて、たくさんの愛情を注いでくれました。その一つ一つが宝物です」


 にっこり笑い、愛娘は積み重ねてきたすべての感情を吐き出すように口を動かし続ける。


「ママもたまには怖かったけど、常に見守ってくれました。二人とも大好きです」


「葉月……」


 和葉も泣いていた。

 会話の合間に啜り上げ、やがて声も震え出す。


「私も……大好きよ。

 私の娘になってくれて、ありがとう……」


「ママ……

 ママぁ……」


 抱き締め合って、しばらく泣き続けて。

 そんな母娘の背中を、春道は無言でただ摩り続けた。


「パパ……ママ……葉月は……和也君と結婚します。二人みたいな……素敵な夫婦になります……温かい家庭を築きます……だから……ひっく、これからも……見守ってください……」


「当たり前だ。いくつになっても、葉月は俺たちの娘なんだからな」


 今度は春道に葉月が抱き着いてきた。

 小さかった娘が、とても大きくなった。

 甘えてばかりだったのに、自分で考えて行動できるようになった。


 寂しいけれど。

 これが成長なのだ。


「結婚……おめでとう」


「うん……葉月は……二人の娘は……幸せになります……!」


   *


「……とまあ、感動的なやり取りが昨夜にあったわけだ」


 結婚式用のスーツに白ネクタイを締めた春道は、妻の準備ができるまでの間、制服姿で参列するもう一人の愛娘に昨日の出来事をリビングで教えていた。


 すでに葉月は結婚式会場で準備をしているはずで、午前十時過ぎに式を行ってから、午後に披露宴となる。


「呆れたわね」ため息交じりに菜月は言った。「結婚するとは言っても、当面は実家で同居予定だというのに」


「それはそれだ。気分というか盛り上がりというか……なあ?」


 準備を終えてリビングへ来たワンピース姿の和葉に話を向けると、彼女は穏やかに微笑んだ。


「菜月も親になればわかるわ」


「そんなものかしら」


 まだ納得がいかなさそうな次女に、春道はならばと渾身の口撃を繰り出す。


「起きるなり天気を気にして、晴れてるのを喜ぶくらい姉想いの菜月なら間違いないだろ」


「……パパ。その軽すぎる口と、覗き見癖はなんとかした方がいいわよ」


「覗き見って、廊下であれだけはしゃいでたら俺じゃなくても――」


「――春道さん」


 台詞の途中で和葉が鋭い視線を向けてきた。

 注意してもらえると思った菜月があからさまにホッとするも――。


「菜月は仲間外れにされたと思って拗ねてるのよ」


「――なっ!?」


 驚愕する菜月を、春道は生暖かい目で見つめる。


「そういうことだったのか。よし、わかった。

 ほら、パパの胸においで」


「違うし、キモいし、その目はやめてっ!」


 非難しながらも、はっきりと表情に照れてますと表すあたりが、とても可愛らしい高木家の次女である。


「いつか菜月も、葉月と同じように誰かと結婚する。その時も、こうやって騒がしく送り出してやりたいな。その方が俺たちの娘って感じがするだろ」


「……確かにパパらしいけれど……感動的な空気はどうしたのよ。気分だとか盛り上がりだとか言っていたくせに」


「はっはっは、照れるな照れるな」


「髪に触らないでよ。せっかく綺麗にセットしてあったのに!」


 そう言いつつも、菜月は春道の手から逃げようとはしない。


 話した通り、いつかその時が来るのは今から覚悟しているが、せめてもう少しだけは春道の娘でだけあってほしい。


 自分勝手と理解しているだけに決して口にすることはないが、春道はそう願わずにはいられなかった。

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