第302話 修学旅行(2)
色濃い秋に包まれた情緒豊かな光景に、菜月の心は洗われていくみたいだった。
「日差しも穏やかで、絶好の観光日和ですね」
遠く銀閣寺を眺めながら、吹いてくる風を心地よさそうに浴びる愛花が片手で長い黒髪を押さえていた。
「まったくね。何せ今回は大騒ぎする乱入者もいないもの」
「中学時代は傑作だったよな。ボクはあれはあれで好きだけどな」
高校生になっても時折コーチしてくれる実希子に、部員の中で誰より懐いている涼子が屈託なく笑った。
「あたしはパスかな。菜月ちゃんの余計なツッコミで、また練習量を倍にされたくないし」
「それは素直に謝るわ。まさか本当に増やすとは思わなかったもの」
「そのおかげで全県大会に出場できたのもあるから、文句が言えないのは辛いところよね」
気まずい空気にならないよう、さらりとフォローを入れるあたりも明美らしかった。
「部活といえば、来年の春には全国大会だねぇ」
「その通りです!」
誰より元気に愛花が首肯した。
「ソフトボールを始めた頃から夢見ていた舞台に、ようやく立てるのです! ここまで長かったです……」
そして、ガッチリと菜月の手を取った。
いきなりの展開に目をパチクリさせる菜月に、キラキラした瞳が近づけられる。
「それもこれも全部、菜月のおかげです! 本当にありがとうございます!」
「ちょ、ちょっと愛花。大袈裟すぎよ。結果は皆で頑張ったから得られたのだし、それに全国大会にも出場が決まっただけよ。どうせなら優勝を目指しましょう」
「言われるまでもありません! ですが……頑張っても頑張っても負けっぱなしだった頃を考えると……あら、なんだか涙が零れてきそうです」
「気持ちはわかるけれどね」
弱小という形容が相応しかった菜月たちの風向きが変わったのは、葉月にコーチを頼んでからだ。基礎をしっかりと教えてもらい、敗戦続きは変わらなくとも、実力の底上げはなされた。
そこに怪我で帰省した実希子が本格的にコーチしてくれた。基礎が完成していたからこそ、彼女の指導がすんなりと身体に染み込んだ。
全県大会へ出場できるレベルになったところで高校へ進学し、そこで初めて本格的に指導できる監督の美由紀に扱かれ、実希子のコーチも引き続き受け、菜月たちはついに全国レベルにまで実力を伸ばすことに成功した。
「私自身、才能がないとわかっていたから、大好きなソフトボールを楽しめればいいと思っていたの。けれど、やっぱりやるからには勝ちたい。茉優や愛花、涼子に明美、はづ姉に実希子ちゃん。色々な人たちのおかげで強くなれた。生来のものには敵わないけれど、努力でも才能が作れるってことを教えてもらったわ」
気がついた時には、菜月は茉優と愛花の手を取っていた。
そして愛花と涼子、さらには明美も合わせて5人で手を繋いでいた。まるで強い絆を示すように。
*
「はー、寺の近くに土産物屋もあるんだなー」
アクセサリーなどを中心に、出店なども多く並んでいた。
「あまりきょろきょろしては駄目よ、涼子。餓えたハイエナに狙われるわ」
「ハイエナって……」
「はづ姉から聞いたの。お土産屋さんのお兄さんやお姉さんは口が上手いから、毎年何人もの生徒がたくさん買わされてしまうのよ」
「そんなこと言わずに君も買ってよ。アクセサリーに名前を彫ってあげるよ? 彼氏やお友達との記念にどうかな?」
爽やかな笑顔を浮かべた青年店員が、ごくごく自然に話しかけてくる。明らかに慣れていた。
「結構です……って、真!
何で真剣にネックレスやブレスレットを見ているのかしら」
「あ……その……お揃いのとか……」
まんまと口車に乗せられそうな彼氏の手を取り、強引に脱出させる。
「お小遣いは限られているのだから、不用意に使ったらあとで困るわよ。4泊5日もあるのだし。それに……」
少しだけ頬が赤らんでいるのを自覚しながら、無意識の上目遣いで葉月は言葉を継ぐ。
「せっかくなら真がデザインしてくれたもの……とかがいいかも。アクセサリーを自作できるようなところもあるのよね? 修学旅行中に買わなくとも、私は、その、そっちの方が……」
「う、うんっ! 僕、頑張るよ!」
すっかりその気になった真が、嬉しそうに菜月の手を取る。
「なら、その時は俺も誘ってよ」
いつの間にか近くにいた恭介が、興味津々に言った。隣には茉優もいる。
「楽しみだねぇ。貰ったら、茉優たちもお返ししないとねぇ」
「そうね……やっぱり手作り系がいいのかしら……でも手編みとかは重く感じる男子もいると言うわよね……」
「ふえ? 恭ちゃん。手編みのプレゼントって重いのー?」
小声で相談したつもりだったが、意図を理解できなかった茉優は渾身のストレートを彼氏にぶつけていた。
「全然、重くないよ! ね、真君!」
「うん! もの凄く軽いよね!」
男二人が揃って目を血走らせる。
どうやら餓えたハイエナがここにもいたようである。
「手作りとは……なかなかに絶妙な案ですね。実は私もそう思っていたんです」
「よく言うよ。さっきまでどれにしようか、あれこれ手に取って悩んでたくせに」
「愛花ちゃんって我が強いようでいて、実は流されやすい性格よね」
「……涼子、明美。口が軽いのは感心しませんよ?」
わりと本気の口調で叱られた2人が即座に頭を下げる。
とはいえ様式美のようなもので、言い合いが大喧嘩に発展したことは一度もなかった。
*
旅館の畳部屋で前日同様にカードゲームに興じていると、クラスメートがお風呂の時間だと菜月たちを呼びに来てくれた。
「畳の部屋に大浴場。昨日のようなホテルもいいけど、やっぱりこういうのが修学旅行って感じがするよな」
2泊予定の旅館では班ごとに部屋が割り当てられているため、菜月ら5人は食事も風呂もまとまって行動する。入浴ばかりは複数の班がまとめて入るのだが、時間が10分と短いので、急ぐ必要があった。
そのせいでいつまでもシャワーを占拠するわけにもいかず、髪の毛と体を同時に洗って、早々に涼子が浴槽へ突撃する。
「中学の時よりはのんびり入れると思ったのに、これじゃ大差ないよな」
「せっかくの大きな湯船なのにね。
温泉好きなあたしとしては1時間は欲しいかも
」
肩まで浸かった明美の大きなため息には、温泉の心地良さと無念さが含まれていた。
「明美は昔から長湯でしたものね」
シャワー数が足りなくなり、菜月と合同で使っていた愛花が、桶に溜めたお湯で長い黒髪を洗い流しながら懐かしむように言った。
「前の修学旅行でも、お風呂にしがみつこうとしてたよねぇ」
「そうそう。駄々をこねすぎて、最後に先生に連れだされたんだよな」
「……その際はご迷惑をおかけしました」
茉優と涼子に相次いで言われ、恥ずかしそうに明美が湯船に沈んでいく。
「あれははづ姉と実希子ちゃんが悪いのよ。自分たちは修学旅行生と一緒でも平気だって入ってきたくせに、時間制限がないから長々と入っているのだもの」
手早く体を洗い終えた菜月も、タオルで髪の毛をまとめて短い入浴タイムを堪能する。
「ああ……温まるわね……」
「うんうん。入浴剤には凝ってるんだけど、やっぱり家のお風呂とは一味違うよね」
温泉好きと自称する明美が、同志を得たとばかりに菜月の肩に手を置いた。
そこまではよかった。
しかし。
しかし!
菜月の視線は、乳白色のお湯に浮かぶ物体Xに釘付けになってしまう。
「な、菜月ちゃん……目が怖い……」
「気のせいよ。少しくらい取っても大丈夫よね、とか考えていないから」
「それは名案です。わたしも参加させてください」
愛花にまでにじり寄られ、明美が悲鳴を上げて退散する。味方に選んだのは、同じく湯船でぷかぷかさせている茉優である。
「愛花も菜月も本気になりすぎだろ。明美が泣きそうになってるじゃんか」
「大きな人にはわかりません! ねえ、菜月」
「…………」
「菜月?」
首を傾げた愛花にではなく、菜月は注意をしてきた涼子に視線をぶつける。
「ここらではっきりさせておきたいのだけれど」
「な、何だよ? 何でボクに近づいてくるんだよ!」
「涼子はどちらの仲間なのかしら。結構、中途半端な大きさよね」
「言われてみれば確かに。これは調査が必要です」
「お、おい、愛花! じょ、冗談はやめろ! うわあああ!」
面白がった明美や茉優にまで取り押さえられ、全員から揉みしだかれた涼子に下した最終評価は中立だった。
その際に、だったら調べなくてもよかっただろと涼子が涙目になったのは秘密である。
*
「消灯したあとは定番の好きな人告白とかあるんだけど……。
あんまり意味ないかも」
布団を頭から被って顔をつきあわせたまでは良かったが、肝心の話題に困るという有様に、丁度菜月の正面にいる明美が苦笑した。
「仕方ありません。雑談なら毎日部室でもしてますし」
「家にいてもLINEで繋がったりできるしな」
愛花の言葉に頷いた涼子が、明かり代わりに並べられている全員のスマホを見た。
「けれど涼子や明美の好きな人には興味があるわね。意外というのは失礼だけれど、二人ともモテるのに」
童顔でグラビアアイドルみたいなスタイルの明美は言わずもがな、涼子も女性人気の方が高いとはいえ、特定の属性を持った男性からは異様な支持を集めている。
「この機会だから白状してしまうのもいいかもしれないね」
明美が言って、隣の涼子を見た。
しかしその彼女はしかつめらしい顔で、唸り出してしまう。
「言いたくないなら、それでもいいんですよ?」
「いや、秘密にしときたいとかじゃないんだ。
愛花を見てて、彼氏を作るのもいいなとかたまに思うんだけど、いまいちピンとこないっていうか……うーん……難しいな」
「きっとまだ、本気で好きになれる男性を見つけられていないのね」
「うわあ、なっちーってば大人の女みたいな発現だねぇ」
「茉優、からかわないの」
菜月は親友を軽く窘めてから、
「それで明美は?」
と聞いてみた。
「涼子ちゃん」
即答だった。
全員がポカンとして、やがて涼子がこめかみをヒクつかせた。
「明美、ズルすぎ……」
「だって本当のことだし」
悪びれもせずに明美が言うと、目を輝かせた茉優が手を上げた。
「それなら茉優も、なっちーが大好きっ!」
「はいはい、ありがとう」
適当に流されてもめげずというか気にせず、ごろごろ転がった茉優が問答無用で菜月の布団に入り込んでくる。
「だから今夜もなっちーと一緒に寝るんだぁ」
「今夜も!?」
「へ、変な意味に取らないでよ!」
ギョッとする愛花に昨夜のことを弁明してから、菜月は気になっていた点を茉優に質問する。
「どうして、そんなに私と一緒に眠りたがるのよ」
茉優は泣きそうな、それでいて寂しそうな顔をして、
「だって……もし、進路が別々になっちゃったら、なっちーとあんまり会えなくなるかもしれないし……」
「茉優……」
「だからねぇ、今のうちにたくさん甘えておくんだぁ。えへへ♪」
「まったく、この子は……」
ごろごろと額を擦りつけてくる子猫みたいな親友を追い返す気力もなくなり、菜月は彼女の頭をそっと撫でた。
ある程度は身近な存在だった葉月たちが、社会人になってそれぞれの道を歩んだのを見てきただけに、茉優なりに思うところもあったのだろう。
「なら、わたしも菜月も甘えてみようかしら」
「愛花!?」
「茉優の話を聞いて思ったんです。
高校までは一緒に来られましたが、わたしの成績では菜月が目指す大学にはきっと入れません。だとしたら進路は別になってしまいます……」
「そんな悲しいことを言わないでよ……」
菜月まで泣きそうになってしまう。
いつかそんな日が来るのは覚悟していたが、実感させられると心が張り裂けそうだった。
「そうだそうだ。
それに先の事を考えてしんみりするより、今を全力で楽しもうぜ!」
「涼子ちゃんは考えなさすぎ。まだ進路も決めてないでしょ」
「うんにゃ。ボクはとりあえず進学するつもりだよ。ソフトボールも楽しいし、実希子コーチの母校でもある県大学に行こうかなって」
「驚いた。進路はあたしと一緒なのね。あそこは県でもトップレベルの大学だし」
「わたしも受験するつもりなんですが……先行きは不安です」
肩を落とす愛花を、涼子と明美が息ピッタリに励ます。
「なっちーも県大学に行くのかなぁ?」
「私は……それも考えたのだけれど……」
少し迷った末に、菜月は正直に告げてみる。
「東京の大学を受験しようかと思っているの。はづ姉に感化されたわけではないのだけれど、本格的に経済の勉強をしてみたくて……」
「うっわ……超一流大学じゃん……」
大学名を聞いた涼子がドン引きする。
「卒業生でも現役合格はあんまりいないんじゃないかな。でも……学年で一番になることが多い菜月ちゃんなら……うん、あたしは応援する」
「そうですね。寂しい思いは確かにありますが、親友の門出ですもの。祝わなければいけませんね」
「……合格できなくて、結局は県大学に入学しているかもしれないけれどね」
「それならそれで万々歳です。また皆でソフトボールで汗を流しましょう!
……わたしが無事に合格できればですが……」
またしても愛花が軽くへこんだところで、大人しく聞いていた茉優が大きく顔を上げた。
「茉優も、なっちーと同じ大学に挑戦する!」
「「「ええっ!?」」」
茉優以外の驚愕の声が見事に揃った。
「駄目かもしれないけど、最後まで頑張ってみたいんだぁ」
口調こそ普段と同じだが、いつになく茉優は真剣だった。
「それなら部活の合間を縫って、私と一緒に猛勉強ね。ついてこられる?」
「うんっ! よろしくね、なっちー!」
「ならば、わたしも挑戦します!」
固い握手を交わす菜月と茉優を涙ながらに見ていたと思いきや、やおら立ち上がった愛花が堂々と宣言した。
「どちらが受かるか、勝負です!」
「愛花ちゃん! それは無茶を通り越して無謀なだけよ!」
明美が悲鳴じみた声で注意する。
「それに茉優一人だけでも大変だろうしな。ボクたちの面倒まで見させるわけにはいかないよ」
涼子にもそう言われ、勢いを消失した愛花がすごすごと布団に座り込む。
「わかってはいます……でも、寂しいです……」
「愛花……」
あまりにしょんぼりする愛花に、菜月もどう声をかけていいのかわからなくなる。やがて微かなため息とともに、明美が愛花の肩に手を置いた。
「そこまで言うなら、まずは模試を受けてみる? 望みがありそうなら、本格的に受験するのを考えてもいいし」
「是非そうしましょう!」
目を輝かせた愛花が、力強く明美の手を握る。
「あーあ、明美は相変わらず愛花に甘いよな」
「なら涼子ちゃんは受けないのね」
「受けるに決まってるだろ! 仲間外れなんてごめんだよ!」
気の置けない仲間たちが、次々と模試ではあるが参戦の意思を表明する。
「皆揃って仕方ないわね。こうなったら誰が良い成績を取るか、全員で勝負といきましょうか」
菜月が言うと、皆揃って「オーッ」と右手を上げた。
そして。
騒ぎを聞きつけて部屋にやってきた美由紀に、早く寝なさいとこっぴどく叱られたのだった。
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