第300話 秋の新人戦
「暑い……さすがのボクも溶けそうだよ……」
ベンチでプロテクトをつけている菜月のところに来た涼子が、グッタリしながら言った。
やかんに入っていた水を涼子がラッパ飲みしていると、明美もやってくる。
「いくら周りに男子がいないからって、さすがに行儀が悪すぎるよ」
「いいじゃんか。女同士だし、間接キスとかだって気にしないだろ?」
「あたしはね」
明美が横目で見た先には、炎天下の下で涼子が口をつけたやかんを凝視する一年生がいた。
「おもいきり狙われているわね」
「マジか。そういや風呂に入る時、やたらと背中を流そうとされるんだが」
「そのうち夜這いされるわね」
「勘弁してくれよ! そうだ! 菜月、キャプテン権限で注意しといてくれ!」
「個人の想いは誰にも止められないわ」
部員の懇願をあえなく却下すると、投球練習をすべくマウンドで待っている愛花の元へ行く。
「何を話してたんですか?」
「涼子の貞操の危機と、私のキャプテンについてかしら」
「涼子はともかくとして、菜月は主将が似合ってますよ?」
小首を傾げながらも、愛花の顔つきは真剣そのものだった。
「まさか愛花に推薦されるとは思わなかったわ」
「わたしもです」
三年生が引退をする反省会において、次の主将を決める際に事件は起こった。
「でも、部全体のことを考えると、菜月が適任だと思ったんです」
元主将が指名する前に、愛花が菜月がやるべきだと言い出したのである。
責任を負うのが得意ではない菜月は全力で抵抗したが、愛花が副主将として手伝うからと強引に押し切られてしまった。
「迷惑でしたか?」
「そんなことはないわ。意外だっただけ」
「ならよかったです。わたしたちも来年は最後の夏ですもの。宏和先輩みたいに悔いを残さないくらい、完全燃焼したいです」
「なら、もっと練習しないとね」
いつの間にやら、横で美由紀が仁王立ちしていた。
「なかなか投球練習を始めないと思ったら、何を話し込んでるのかしら。甲子園予選の決勝で告白されたっていう惚気かしら? 自慢かしら?」
どんどんと美由紀の顔が怖くなっていく。愛花が助けを求めるように菜月を見たが、小さくごめんと謝ってから離脱を試みる。
「ま、待ってください、先生! 彼氏なら菜月にだっています!」
「ちょっと愛花! 私を巻き込まないで!」
「死なばもろともです! わたしたちは親友でバッテリーではありませんか!」
「それとこれとは話が別だわ!」
「自慢話は結構よ!」
そんな話は一度もしていないのに、うんざりだとばかりに美由紀が叫んだ。
「そんな元気があるなら、練習をもっとハードにしても大丈夫ね。二人でグラウンドを十周してから、投球練習にするわよ!」
「お、横暴です!」
「どこがよ。試合ではどうしたって疲れ切ってヘロヘロになるんだから、その時にどう良いボールを投げるのかは投手の永遠の課題でしょ」
きっぱりと言い切ってから、美由紀は菜月にも目を向ける。
「捕手もそういう時はリードが単調になりがちだから、今のうちからそうした状況を念頭において練習するのは悪いことではないわ」
「た、確かにその通りです……」
滅茶苦茶なようでいて、意外と美由紀が部員のことを考えてくれているのは、一年半の付き合いからも明らかだった。
「だからキビキビ走ってきなさい。この彼氏持ちどもめ!」
「やっぱり私怨も入ってるような気がするんですが……」
「愛花、口を噤みなさい。これ以上、被害を大きくしたくないでしょう」
まだぶちぶち言っている美由紀の傍から、そろそろと菜月たちは離れる。
「まったく! 常日頃から私が男の無意味さを説いているのに、どうしてこの部はカップルの比率が高いのよ!」
*
たまにする狂った言動を除けば、やはり美由紀は優秀な指導者だった。
そこに抜群の打撃技術を持った実希子がコーチとして加わるのだから、菜月たちソフトボール部員の実力が上達するのは必然でもあった。
地区予選を勝ち進み、県で行われる新人戦まで駒を進め、初戦も危なげなく突破した。
「茉優さん、もうひと踏ん張りです!」
初戦で完投した愛花に代わり、二戦目の先発を任された茉優も、五回までしっかり相手の攻撃を0に抑えていた。
「実希子ちゃんに比べたら、怖くないぃ」
おもいきり腕を振った茉優のボールが、どうだと言わんばかりに菜月のキャッチャーミットに飛び込んでくる。
「ナイスボール!」
三振に仕留めたボールを返しながら、菜月は大きな声をかけた。
投手陣は日頃から、実業団を辞めてしばらく経っているのに、いまだに化物じみた打力を誇る実希子と対戦させられているのだ。多少の重圧は物ともしない根性が身についていた。
「そろそろ点取れよ! 特訓の成果を見せろ、なっちー!」
配送の合間にわざわざ応援に来たらしい実希子が、スタンドから叫ぶ。
五回裏の先頭打者として打席に立った菜月は、小さく頷きながらも慎重に相手投手のボールを見極める。
時間が合えば個人的にも実希子の指導を受けてきたおかげで、菜月の打順は6番にまで上がっていた。
「真っ直ぐ!」
狙っていた直球をセンターへ弾き返し、一塁上で菜月は控えめなガッツポーズをする。中学生時代に出場した全県大会では、県レベルの投手に手も足も出なかった自分が、クリーンヒットを打てたことが嬉しかった。
「続きます!」
7番の愛花が見事に一二塁間を破り、その間に菜月は一気に三塁まで走る。
「先制点のチャンスよ! 強く振るのを心掛けて!」
相手にも聞こえるような大声を出した美由紀が、監督として打者に送ったサインはスクイズだった。
*
愛花と茉優の二枚看板の奮闘もあり、菜月たちの秋はいつになく長くなった。
「よっし!」
高々と右手を上げた涼子が、ドヤ顔でホームへ帰ってくる。
「さすが4番です! 頼りになります!」
チームメイトとハイタッチをする涼子に、昔から交遊のある愛花が抱き着いた。
「喜ぶのは後だ。これに勝つと優勝なんだからな」
愛花の背中を軽く叩いて離れたあと、涼子は菜月に向き直る。
「実希子コーチの代でも、新人戦って制覇してないんだよな?」
「確かベスト4だったはずよ。私の記憶が間違っていなければね」
美由紀や実希子に厳しくも温かく指導されるうちに、菜月たちの目標は歴代で最強だった世代――つまりは葉月たちより強くなりたいというものになっていた。
「じゃあ、優勝したら自慢できるねぇ」
楽しそうな茉優の言葉に、明美が頷く。
「準優勝でもベスト4よりは上だけど、せっかくなら勝って報告したいしね」
「なら涼子にはもう1本打ってもらいましょう。4番としても最強世代を超えてもらって、ゴリラの称号を引き継ぐのよ」
「勘弁してよ! 何度も言うけど、ボクは普通の女の子なんだから!」
半分は本気だった菜月の要求が却下されたタイミングで、それまで黙って見守っていた美由紀が手を二度叩いた。
「先制点を奪ったばかりで、勝った気になるのは早いわよ。油断大敵って言葉を思い出しなさい。特に菜月はキャプテンなんだから」
「すみません」
「でも、イケイケになるのは決して悪いことばかりじゃないわ。緊張しがちな決勝戦なら特にね。手綱を引くのは監督の私に任せて、貴方たちはおもいきりこの舞台を楽しんできなさい」
全員の返事が揃い、菜月たちは全力で躍動する。
「ナイスキャッチ!」
全員で一丸となって白球を追い、相手投手のボールにも食らいつく。
「愛花! あと一人だ!」
積み重ねてきたアウトの向こうに勝利が見え、ショートから涼子がマウンドの愛花を激励する。
「最後まで気を抜かないで!」
キャプテンらしく菜月も声を張り上げると、外野からも元気のいい返事が聞こえてきた。
「キャプテン、がんばです!」「愛花先輩、最後の力を振り絞ってください!」「涼子先輩、愛してます!」
なんだか最後に変な声援が聞こえた気もするが、ベンチにいる控えメンバーも、スタンドで応援してくれている部員も菜月たちの勝利を信じ、後押しをしてくれる。
「なっちー、気を抜いたら駄目だからね!」葉月の声がする。
「一気に勝負を決めちまえ!」実希子が楽しそうに叫んでいる。
好美と和也に店を任せ、決勝まで足を運んでくれた二人の傍には、春道と和葉もいた。
「菜月ちゃん、優勝は目前だよ!」
「茉優ちゃん! ファイトー!」
真と恭介もいる。メガホンを片手に、汗だくになって応援を続けてくれていた。
「最後の一球だ。エースらしくビシッと投げろ!」
宏和の声援を力に変え、唸るような剛速球が愛花の指から放たれた。
最後の打者のバットが空を切り、重い感触をミット越しに味わった菜月は飛び跳ねるように立ち上がった。
「やったー!」
「優勝だよ、愛花ちゃん!」
真っ先に茉優と明美がマウンドへ駆け寄り、菜月と涼子が合流する。
瞬く間にできた歓喜の輪に、観客席から祝福が降り注ぐ。
「おもいきり喜んだら、明日からまた練習よ。春の全国大会で勝つためにね!」
*
「あー! 今日もキツかったー!」
すっかり秋になったグラウンドで、スパイクについた土を払いながら涼子が空を見上げた。
「選抜に出場を決めたことで、練習量が増えたものね……」
「ほんの少しだけど、新人戦で優勝したのを後悔しそうだよ」
「いい加減にしなさい、涼子」
ぽふっと、愛花が涼子に軽めのチョップをかました。
「悔しい思いをしないためにも、練習は必要なんです!」
「でもぉ、そう言う愛花ちゃんの足もプルプルしてるよぉ」
「やめなさい、茉優! ひいいっ」
茉優に膝裏をつつかれ、悲鳴じみた声を上げて愛花がその場にへたり込んだ。
「学校側の期待も大きいし、美由紀先生が張り切るのもわかるけれどね」
主将と副主将の菜月と愛花はつい先日、全校集会で県予選の成績を校長から直々に表彰されたばかりだった。
「とにかく初めての全国大会だもの。県の代表として恥ずかしくない戦いをするためにも、さらなるレベルアップは必要だわ」
キャプテンらしく菜月が締めたところで、茉優がこのタイミングを待っていたかのように、子犬みたいな仕草で皆の顔を見回した。
「あのね、あのね。修学旅行のことって、もう決めたかなぁ?」
「そういえばそろそろだったわね。
新人戦関連が忙しくて、すっかり忘れていたわ」
「いや、さすがにそれはないだろ」
パタパタと手を振って涼子が菜月にツッコミを入れる。
「冗談ではないわよ。
それに私たちの場合は、今更班決めで悩む必要もないでしょう」
確かにねと明美が同意する。
「あたしに涼子ちゃんに愛花ちゃん、それに菜月ちゃんと茉優ちゃんで五人組が完成するもんね」
「あとはどこを回るかだな。京都と奈良だっけ?」
「そうよ。お願いだから鹿を食べようとしないでね、涼子ちゃん」
「ボクはそこまで食いしん坊じゃない!」
唾を飛ばして明美に抗議する涼子を、他の二年生や下級生も一緒になって笑う。
下級生からお土産を催促されながら、菜月は仲間たちとの楽しい修学旅行を想像する。
――場所が変わるだけで、いつもと大差ないような気もするわね。
そんなことを思いながらも、知らず知らずのうちに菜月の頬は緩んでいた。
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