第287話 中学最後の夏の大会

 祝福しすぎと愚痴りたくなるくらいにギラつく太陽の下、キャッチャーマスクを被っている菜月は油断なく一塁ランナーの動きを目で追った。


 まだ序盤の三回とはいえ、互いに無得点。先制点を取るか取られるかによって、流れは大きく変わる。しかもノーアウトなのだ。

 得点圏に走者を背負わせて、エースの愛花の体力を必要以上に消耗させたくはなかった。


「なっちー! ランナーを気にしすぎだ! バッターに集中しろ!」


 ベンチから飛んできた鋭い声に、菜月は我に返る。

 正式なコーチとしてベンチ入り中の実希子がグラウンドへ出る階段へ右足をかけ、前のめりになりながら必要な指示を出してくれる。


 これまでは菜月がほぼ監督の役割もこなしていただけに、正直ありがたかった。

 実希子の檄が愛花にも届いていたらしく、腕の振りが一段と強くなる。


「ショート!」


 菜月が叫ぶ。


「任せとけって!」


 ボテボテのゴロを前進してキャッチした涼子が、素早く二塁の明美に送る。


「落とすなよ!」


「大事なとこでポカするのは、涼子ちゃんの得意技でしょ!」


 軽口を返しながら、二塁ベースを踏んだ明美が反転、サイドスローで一塁から懸命にミットを伸ばす茉優にボールを送る。


「ナイスプレー! これでツーアウトです!」


 一塁審判の声を聞き、嬉しそうに愛花は掲げた右手でアウトカウントをバックに示す。


 外野の二年生が「ツーアウト!」と応じる。菜月たち三年生だけではなく、下級生も途中からの実希子の指導もあって実力を大きく伸ばしていた。

 さらにベンチには一年生の姿もある。全員が背番号を貰える部員数なのだから当然だが、来年も他の部に助っ人を頼まなくてよさそうなのは、最上級生として喜ばしいことだった。


 三振でスリーアウト目を奪うと、駆け足で菜月たちはベンチに戻る。


「四回表だ。そろそろ点が欲しいから、まずは塁に出ないとな」


「ですが、向こうのピッチャーはかなりの実力です」


 夏の大会は総当たり戦とはいえ、初戦から優勝候補とぶつかるのはプレッシャーが大きい。


「そういやなっちーたちは、春に同じとことやって負けてるんだっけか」


「……散発の二安打。

 涼子ちゃんと茉優以外は手も足もでなかった見事な完封負けよ」


 思い出すのも忌々しいが、それくらい相手投手の実力は本物だった。前評判では全県大会でも優勝し、もしかするとその上の地区大会も突破し、全国にまで駒を進められるのではないかと言われていた。


「噂じゃ、卒業後は東京の学校に行くみたい。ちょっと格が違いすぎるかも」


「その格が違う相手から打てるバッターが、ウチのチームにはいるじゃないか」


 気落ちする明美の背中を、勇気づけるように実希子が叩いた。


「上位陣の役目は、三番と四番――つまり茉優と涼子に得点圏で打席を回すことだ。ヒット以外でも塁には出れる。そこを念頭においてみろ。そうすれば相手投手のコントロールが意外とアバウトなことに気付く」


「それはわかっているけれど、見逃すのは難しいのよ。私たちに実希子ちゃんほどの才能があれば話は別なのだろうけれど」


「才能なんて関係ないさ」


 菜月の頭に手を置いて、実希子は言った。


「見逃し三振は許可するから、ど真ん中の直球以外は全部見逃してみろ」


「そんなことしたら、あっという間に追い込まれてしまうわ」


「だからってあれだけ直球に遅れまいとしてたら、頭でボールってわかっても真っ直ぐが来たら振っちまう。勇気をもって狙い球を絞るのも作戦のうちだぞ」


 コーチとしてのアドバイスが功を奏し、一番の二年生が四球を選ぶ。


「よっしゃ、上出来だ。頼むぞ、明美」


 祈るように言った実希子がさらに前のめりになる。


「大丈夫だろ。明美はああ見えて手先が器用だったりするしな。菜月もそれがわかってたから、ずっと二番に置いてたんだろ?」


「ええ。繋ぐという役目は、明美ちゃんに適任よ」


 隣に立つ涼子と、同じくらい個性の強い愛花を喧嘩もさせずにずっと繋げてきたのは他ならぬ明美だ。


「喧嘩っ早いボクにキツくものを言うことで、周囲の不満なんかを和らげて、いじられキャラみたいにしてくれる。明美には昔から頭が上がらないんだ」


 グラウンドを見つめながら、感慨深そうに涼子が言った。


「なら、その明美が送ったランナーをお前らがホームに迎え入れてやらないとな」


「もちろんだ」


 戻ってきた明美とハイタッチし、涼子がネクストバッターズサークルに入る。

 気合を漲らせて屈伸し、獲物を狙う野獣のごとき目でマウンド上の投手を睨む。


「やる気満々ですね。これなら涼子に回せば得点の期待が――」


 ――キィンと。


 それはもう素晴らしく美しい音を奏で、茉優のスイングしたバットから放たれた白球が、遠く遠くフェンスのその向こう側にまで飛んで行った。


「ハハッ、まさかホームランで先制とはやってくれる。

 これでずっと有利になったな」


「……気合を入れまくっていた約一名が愕然としているけれどね」


「おい、涼子! 点は幾らあってもいいんだ! お前も続いてやるくらいの気持ちで行け!」


 笑っていた実希子が菜月の指摘を受け、四番打者に檄を飛ばす。

 気合を取り戻して茉優とグータッチした涼子だったが、意気込んで入った打席では大きいのを狙いすぎるあまり、それはもう素晴らしく美しい三球三振をかました。


   *


 あと一球のコールが響く。

 応援席には菜月の両親だけでなく、わざわざ仕事を休んでくれた姉やその彼氏。さらには恭介や真も駆けつけてくれていた。


 茉優の父親や真の両親もいる。子供同士が小学生時代からの付き合いというのもあり、特に真の両親はもうソフトボールと関係ないのに、大切な試合にはわざわざ声援を送ってくれる。


「これに勝てば全県大会だ! 目の前にあるからって欲しがりすぎんなよ!」


 口に手を当て、大きな声で叫んだのは宏和だ。彼の両親もその背後で固唾を呑んでグラウンド上の菜月たちを見つめている。


 初戦の優勝候補を接戦で下して波に乗った菜月たちは二戦目も快勝。そして翌週となる今日の三戦目でも3-2とリードしていた。


 マウンド上には途中から愛花と交代した茉優がいる。

 不思議だった。あれだけ公式戦で勝てなかったのに、いざ一勝するとこれまでが嘘だったみたいに流れが変わった。


 ――頑張って、茉優。


 チームメイトもベンチの内外から声援を送る。

 七回裏、ツーアウト二塁三塁。

 フルカウントから茉優が投じた渾身の一球が唸りを上げる。


「ボール」


 けれど無情なジャッジにより、すべての塁が埋まる。

 すべてを懸けていたのか、茉優の肩がガックリと落ちた。


 ――マズイ。

 球審にタイムを申請し、菜月はすぐにマウンドへ向かった。


「茉優、いける?」


 菜月が問いかけると、膝に手を置いたままで顔を上げた茉優が笑った。

 けれどとても弱々しく、明らかに無理をしているのがわかる。

 あと一勝すれば全県大会。その事実が大きなプレッシャーとなっていたのだ。


 どうしようと菜月はベンチを見る。

 一塁を守っている愛花に、もう一度マウンドへ戻ってもらうのがいいように思える。しかしここで下ろしたら茉優が傷つくかもしれない。


 知らず知らずのうちに拳に力が入る。

 春までの菜月であれば間違いなく、茉優の続投を決めて励ましていた。


 今回もそうすべきかと思考の舵を切ろうとした時、ベンチから伝令が走ってきた。

 そして監督である顧問の教師が出てきた。実希子がベンチで頷いているので、どうやら彼女が交代を進言したみたいだった。


「コーチからの伝言です。最後はエースに全部預ける、だそうです」


「わかりました」


 伝令の一年生にお礼を言い、愛花が茉優からボールを受け取る。


「迷惑かけてごめんね、愛花ちゃん」


「何を言ってるんです。茉優さんのおかげで休めましたし、最後はしっかり抑えてみせます」


 茉優の肩を優しく撫で、愛花がマウンドへ戻る。

 今日の投球成績は五回2失点。彼女もまた重圧の中で体力を消耗しすぎ、マウンドを茉優に譲っていたのである。


「愛花ちゃん……」


 その後に大丈夫かと続けようとした菜月は言葉を呑み込んだ。

 三年間で初めて見せるような強い決意が、彼女の瞳に宿っていた。


「勝ちましょう、菜月さん」


「ええ、全国制覇への第一歩として、ここで躓いてはいられないものね」


「あと一人だ、愛花!」


「あたしたちもしっかり守るから」


「茉優も頑張る!」


 三塁手の二年生も含め、内野全員で額を突き合わせる。


「皆さん、いきますよ!」


 キャプテンの号令に全員が元気に応じ、菜月たちはそれぞれの守備位置へと戻った。


 そして一分後――。


 ボールを収めたキャッチャーミットを高々と掲げながら、菜月はマウンドで両手を突き上げた愛花へ全力で抱き着いていた。


   *


「悔しいです!」


 菜月の目の前で、いつかと同じように愛花がそう叫んで号泣する。


 大勢の関係者が応援に来てくれた全県大会。

 気合を入れて臨んだが、つい先ほど菜月たちの中学最後の夏は一回戦で終わってしまった。


 電車に乗って地元へ戻る前、グラウンドの駐車場の木陰で部員全員が泣いていた。


「もっと先輩たちと部活したかったです……」


 新キャプテンになるだろう三塁手だった二年生が、愛花の胸に顔埋めて何度も繰り返した。

 菜月の周りにも下級生が集まっているが、彼女らに簡単に応じたあと、涙も拭かずに二人の女性のもとへ歩いていく。


「……あり、がと……はづ姉と、ひっく、実希子ちゃんの、ひっく、おかげで……全県大会にも、うっく、出られた……」


「頑張ったね、なっちー」


 抱き締めてくれた姉の温もりが優しくて、また菜月は涙を溢れさせてしまう。


「ここまでこられたのは、なっちーたちがずっと頑張ってきたからだ。アタシはほんの少しのきっかけを与えただけさ」


「それでも……ありがと。最後はベンチ入りまでしてくれたし」


「校長がアタシをコーチとして認めてくれたからな。

 少しは役に立ててよかったよ」


 今度は実希子と抱き合う。

 子供の頃から彼女を知っている茉優も続き、愛花たちも口々にお礼を言う。


「菜月、よく頑張ったな」


 輪から外れたところで声をかけられ、菜月は目を剥いた。


「お祖父ちゃん!?」


 入院しているはずの祖父が車椅子に座っていた。背後には春道と和葉もいる。


「もしかして、応援に来てくれたの!?」


「菜月の恰好いいところを見たくてな……」


 すっかり痩せ細った腕はまるで枯れ木のようだ。色つやも悪く、起きているのも大変だろうとわかる。


 そんな祖父が、わざわざこんなところまで来てくれた。

 感動と申し訳なさで何も言えなくなった菜月は、しゃがみ込んで祖父の膝に抱き着いた。


「黙ってて悪かったな、菜月。親父がどうしてもって言うから連れてきたが、お前に余計なプレッシャーをかけたくなかったらしい」


「そんな……そんなの……でも、私、負けちゃった。

 お祖父ちゃんが来てくれたのに……!」


「いいんだよ……菜月の頑張る姿を見られたからな」


 祖父はそう言って静かに笑い、目を細めて空を見上げた。


「母さんにも、見せてやりたかったなあ」


「きっと見てたさ」


 風が優しく吹き抜けていく。


 笑って。


 泣いて。


 怒って。


 色々な感情を爆発させた中学三年間のソフトボール生活を、菜月はきっと忘れないだろう。


 この日から少し後――。


 祖父は病院で菜月や皆に見守られながら、静かに息を引き取った。

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