第288話 お別れと思い出

 蝉の声が響く。

 午前中でもじわじわと肌に染み込んでくる熱さを嫌い、菜月は家へ逃げ込んだ。


 高木の実家には、先に火葬を済ませた祖父の遺骨が置かれていた。

 春道が実家でお世話になっていたお寺の住職と事前に連絡を取っていて、祖父の死後にはこうすると決めていたみたいだった。


 親父もお袋と一緒の方がいいだろ。

 一晩中、遺骨の前で胡坐をかいていた春道の独り言だった。


 夏休み中だった菜月だけでなく、葉月も会社を休んで同行中だ。

 今日の午後から行われる葬儀の準備をすべく、一足先に春道と一緒に会場へ行って係の人と最後の打ち合わせをしているはずである。


「私たちもそろそろ出るわよ、菜月」


 喪服姿の和葉が台所から重箱を持ってきた。中にはおにぎりや卵焼きなどの軽食が入っている。朝食を抜いている春道たちのために用意したものだ。


「じゃあ、タクシーを呼ぶね」


 葬儀のために借りた会場へ到着すると、見慣れた顔が菜月たちを出迎えた。


「よう、重役出勤、ご苦労さん」


「出迎えお疲れ様」


「くはっ、まさかそうくるとは」


 後頭部に手を当てて、実希子がケラケラ笑う。

 まだ職についてないからと、祖父の訃報を聞くなり手伝いに来てくれていた。


「来たか、二人とも」


 実希子に案内された会場では、係の人と一緒に春道も忙しく動き回っていた。


「春道さん、お疲れ様。少しだけど、軽食を用意してきたわ」


「それは助かる」


 係の人も一緒にどうですかと春道は誘ったが、この間に葬儀関連の人と連絡を取ると会場から出て行ってしまった。


「振られてしまったな」


「きっと忙しいのよ。実希子ちゃんもどうぞ」


「腹減ってたんで、助かるっす」


 おにぎりを一口で頬張った実希子に、菜月は唖然とする。


「喉につっかえても知らないわよ」


 会場に用意されていたペットボトルのお茶を、紙コップに注いで実希子に手渡す。

 お茶で流すようにおにぎりを呑み込んだ実希子は、


「大丈夫だって、おにぎりは飲物だろ?」


 といつもの笑顔でのたまった。


「呆れた。

 パパ、粗相をする前にこのゴリラを動物園に送り返すべきだと思うけれど」


「ハハ、実希子ちゃんのおかげで、菜月もいつもの調子が戻ってきたな」


「気のせいよ」


「照れんなって、なっちー。うりうりうり」


「ほっぺをぐりぐりしないで」


 実希子の手からなんとか逃れるも、今度は瞳を輝かせる葉月に捕まってしまう。


「なっちーのほっぺって柔らかいから、癒されるんだよねえ」


「いい加減にしてよ、もう」


 朝食を粗方片付けると、改めて春道は実希子にお礼を言った。


「実希子ちゃんに手伝いに来てもらって本当に助かったよ。力もあるし、葉月や菜月も元気づけてもらったみたいだし」


「気にしないでいいっすよ。

 葉月にも、春道パパにもずいぶんと世話になってるっすから」


 黒いワンピース姿の実希子がニッと笑って、椅子の上で胡坐をかく。


「みっともないからシャンとしなさい。他の人が来たら笑われるわよ」


「むしろ、おじさんたちには喜ばれてたけどね」


 一度、実家に遺骨を持って帰った際、訃報を知った様々な人間が訪れた。

 注意した菜月や苦笑いした葉月は和葉の台所仕事を手伝って忙しく、春道も喪主だけに会話するお客さんが多くてなかなか全員のフォローをできていなかった。

 そこの不足分を一手に引き受けてくれたのが、他ならぬ実希子だった。


「一緒にあれだけ豪快に酒盛りしてれば、そりゃ人気も出るでしょうよ」


「なんだ、嫉妬か、なっちー」


「違うわよ!」


 菜月と実希子のやりとりを見ていた春道が、声を上げて笑う。


「おかげで親父も寂しくなかったろ。案外、一緒に呑んでたんじゃないかな」


「そう言ってもらえると助かるっす」


 目上の人間と話す時は体育会系口調になる実希子が、照れ臭そうに鼻頭を描いた。


   *


 ゆらゆらと立ち上る線香の煙は、まるで天国にまで繋がっているみたいだった。


 何度嗅いでも、菜月はこの独特の香りがあまり好きではなかった。

 生理的に受け付けないというよりは、物悲しくなってしまうからだ。


 お坊さんがお経を唱え、一人また一人と故人の関係者が前で線香をあげていく。

 遺族である菜月たちは、すでに済ませている。こっそりと後ろを見れば、邪魔にならないように最後尾に座る実希子が見えた。


 はしゃぐのが好きな性格なのは確かだが、今回の場合は意図して菜月や葉月が落ち込みすぎないように気を遣ってくれていた。それがとても嬉しく、ありがたかった。周りが静かになると、すぐに祖父がいなくなった事実に泣きたくなってしまうからだ。


 春道の友人や、和葉と特に親しい友人も参列してくれた。

 菜月の知り合いでは茉優と真も親と一緒に来てくれた。

 葬儀前に少しだけ挨拶をしたが、二人とも一生懸命に菜月を気遣ってくれた。


 愛花たちはこちらの状況が落ち着いてから、本来の高木家の方に改めて挨拶に伺うとのことだった。本来ならそれが普通の対応で、茉優と真の場合は昔から家族ぐるみで付き合ってきただけに、ご両親が気を遣ったのだろう。


 遺影の祖父は穏やかに笑っている。祖母の葬儀の時はまだ小さかったのもあり、ショックは今の方が大きいかもしれない。


 何度もお見舞いに行った。


 少しだけだったが、一緒にも暮らした。


 これまで離れていた分だけ、たくさんの話をした。


 たくさん遊んでもらった。


 宿題も手伝ってもらった。特に漢字はよく知っていた。


 鮭が大好きだった。食卓に並ぶと、目を細めて嬉しそうにしていた。


「……おじい、ちゃん……」


 声が聞きたい。


 笑顔が見たい。


 一緒に遊びたい。


「うう、ううう……」


 涙が溢れて止まらない。

 ハンカチで顔を覆う菜月の小さな肩を、隣の葉月が抱いてくれた。


 姉も泣いていた。

 母も泣いていた。

 参列者の多くが涙を浮かべていた。

 祖父が慕われていた証に思えた。


 そんな中で春道だけは毅然に前を向いていた。

 しっかり見送ってやろう。真一文字に結んでいる口が動かなくとも、菜月には父のそんな気持ちがよくわかった。


 ――自分もちゃんとしなければ。


 乱暴に涙を拭く菜月の耳元に、葉月が労わるように囁く。


「なっちー、無理だけはしないで。辛かったら奥で休んでてもいいんだよ」


「大丈夫。それに……私だって、お祖父ちゃんときちんとお別れしたいもの」


 小さく頷いた葉月は、これまでよりも強く菜月の肩を抱いてくれた。


   *


 本来なら四十九日までしっかりやるべきなのだろうが、家に戻らなければならない事情もあり、葬儀後はすぐに高木家の墓へ納骨をした。


 実家はしばらくそのまま残しておくことに決め、たまに春道たちが掃除しに行き来するらしかった。その場合は都合がつけば、菜月も参加したいと伝えてある。


「静かになったね……」


 葉月がポツリと呟いた。

 つい先ほどまでは、残ってくれていたお客さんに夕食を振舞っていた。

 真の母親が和葉の台所仕事を手伝ってくれたのもあり、その間に菜月は彼氏と親友の三人で話もできた。二人とも優しく慰め、励ましてもくれた。


 真なんかは少しでも菜月の負担が減るようにと、大急ぎで終わらせた夏休みの宿題のうちの問題集を置いていった。家にあったチラシの裏に、茉優がせっせと答えを書き始めるのを見て、久しぶりに菜月は笑ったような気がした。


 その二人も家族と一緒に帰宅した。

 手伝いを終えた実希子もいない。

 急にガランと感じられるようになったリビングには、高木家の面々だけが座っていた。


 カチコチと時計が秒を刻む音だけが響く。

 制服のスカートをキュッと握り締めたまま、菜月は何も言えなかった。


 不思議だった。しばらく菜月たちの近くで生活していたのに、ここにはまだ祖父のにおいが残っていた。

 目を閉じれば子供の頃からの思い出が浮かんでくる。


「よく……クッキーを貰って食べたな……」


 自然とそんな言葉が零れていた。

 葉月が懐かしそうに頷く。


「うん。動物の形をしたやつだったよね」


「あれって、俺が子供の頃にもあったような気がするな」


 春道が言うと、和葉がクスっとおかしそうにした。


「あのお菓子は、春道さんがお義父さんのプレゼントで初めて喜んだものらしいわよ」


「そうなのか? 全然、知らなかったぞ」


「以前にお義父さんが葉月にご馳走している時、お義母さんに教えていただいたの」


「だから孫にもって? 親父らしいっちゃ親父らしいかな」


 軽く笑った春道は、椅子の背もたれに身体を預けて天井を見上げた。


「グイグイいく母親とは対照的でな。いつも誰かを気遣ってるような人だったよ」


「そうだね……一緒に暮らしてる時も、よく皆のことを見てたよ」


 葉月も小さく笑った。


「わかるわ。パパたちも気づかないくらいなのに、小さな変化にも気がつくのよね。嬉しそうだけど、今日は学校で何かいいことがあったのかって」


 椅子の上で膝を抱えた菜月は、そのまま小さく揺れる。

 今日ばかりは和葉も注意してこなかった。


「だからかな。お祖父ちゃんには何でも話せてしまうのよね」


「聞く時も、とても楽しそうだったもんね。葉月も色々とお話したなあ」


 祖父の話も面白かった。無理をさせない範囲で、昔のことをよく教えてもらった。


「いつものお店で、一緒にプリンも食べたな。これが菜月の好きな味かって、喜んでくれたっけ」


 その時の光景が鮮やかに蘇る。

 春道たちの目が優しげに下がった。気づかないうちに菜月は泣いていた。


「あれっ? どうして……ご、ごめんなさい……」


「謝る必要はないさ」


 菜月に箱ティッシュを差し出しながら、春道は言った。


「皆で思い出を共有し、話題にしてあげるのがきっと一番の供養になる」


「そうかな……お爺ちゃん、喜んでくれているかな」


「可愛い孫の菜月が自分の話をしてるんだぞ? 今頃は大はしゃぎだ」


「アハハ。だったら隣にいるお祖母ちゃんに羨ましがられてそうだね」


 口に手を当てた葉月が声を弾ませ、和葉もすぐに同意した。


「お二人は葉月も菜月も、何の分け隔てもなく可愛がってくださった。母親として感謝の念は尽きないし、私も実の娘のように接してもらったわ」


「実家に帰ってくると、いつも最高の親孝行だと、孫たちに頬ずりしてたからな」


「その記憶なら、私にも残っているわね。困ったように笑いながら、お祖母ちゃんを窘めているお祖父ちゃんの顔が印象的だったわ」


 故人の思い出話は尽きなかったが、さすがに夜遅くなってくると、これまでの疲れもあって眠くなる。


 祖母の部屋に布団を用意してから、眠る前に仏壇へ挨拶しようとリビングへ行くと、まだ春道が一人だけで座っていた。


「パパ、寝ないの?」


「ん?

 ああ、もう寝るよ」


 春道の手元には、小さなグラスに入った綺麗な色の飲物があった。

 ジュースとは思えないのでお酒だろう。

 普段から呑まない春道にはとても珍しかった。


「これか?」


 菜月の視線に気づいた春道は、グラスを軽く掲げた。


「親父の好きだったウイスキーだよ。

 まだ少し残ってたから、薄くして呑んでるんだ」


「ほどほどにしてね」


 挨拶へ終えた菜月が祖母の部屋へ戻ろうとすると、小さな声で呼び止められた。


「どうかした?」


「親父のために泣いてくれてありがとうな」


「……当たり前でしょう」


「それでもさ、お礼を言いたかったんだよ」


「パパ、酔っているのね。もう眠った方がいいわ」


「そうだな……そうするよ」


 立ち上がった春道が静かに微笑む。


「おやすみ。良い夢を」


 それは菜月に言ったものだったのか、それとも違う誰かに言ったものだったのか。


 どちらなのかはわからない。ただ、上を向いた春道の頬は僅かに煌めいていた。

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