第283話 悲しいにおい

 悪い予感というのは、頼んでもいないのによく当たる。

 翌朝になって春道の実家へ出かけた両親が、さらにその翌日に葉月と電話しているのを、菜月は聞いてしまった。


 末期。

 手術はできない。


 断片的な情報であれ、衝撃的な単語が登場すれば状況は容易に推測できる。

 気分が沈みっぱなしの菜月の心を救ってくれたのは、何かと世話を焼いてくれる大切な姉と、学校に来れば会える友人たちだった。


「お祖父ちゃん、心配だねぇ」


 一緒に昼食をとる茉優が、小さなスプーンを咥えながら言った。


「ええ。でもなるようにしかならないから」


 祖父の現状を聞いてから三日が経過した。気持ち的にはだいぶ落ち着いたと思ったが、それでも不意に大声で叫びたい気分になってしまう。


「けど、意外と平気そうだな」


 昼休みになればよく明美と一緒に遊びに来る涼子が、購買で買ったあんパンを頬張る。そんな友人のやや大きめのお尻を自分の机の上から退かしながら、愛花は少し強めに睨む。


「どこがですか。これほど気落ちしてる菜月さんは見たことありません」


「そうなの?」


 涼子のみならず、明美も驚いたような顔をする。

 こんな時だが、愛花が自分をよく見てくれていると知り、少しばかり菜月は嬉しくなる。


「身内が病気になれば誰だって辛いさ。

 あまり顔に出さない高木さんが立派なんだ」


 沈痛な面持ちの恭介は、いつからか真と一緒に菜月たちに混ざって昼食を取るようになっていた。クラスではすっかり仲良しグループとして認知済みだ。


「僕にできることがあったら言ってね」


 真が言うと、茉優もいつになく真面目に頷いた。


「大変なら、茉優もお料理を作りに行くよぉ」


「はづ姉もいるし、大丈夫よ。皆、ありがとう」


 菜月も身の回りのことは一通りできるので、大変にはなっても生活に不便は感じていない。唯一の心配は落ち込んでいた春道だが、そちらには和葉がついている。


「両親やお祖父ちゃんに余計な心配をかけないためにも、私は私で元気に生活しないとね」


 家族が病気になっているのは、何も菜月だけではない。世界中を探せば大勢いるはずだ。すべての悲しみを背負ったような気分になるのは、そういう人たちに失礼だと思った。


「来年の春に向けて連携も高めないといけないし、それが終わればあっという間に受験だもの。ボーっとしている暇はないわ」


 一旦言葉を切って、


「特に愛花ちゃん」


 と、菜月は悪戯っぽく、この二年ですっかり仲良くなった友人を指差した。


「ど、どうしてわたしなんですか!」


「何でもできそうなお嬢様っぽい外見なのに、運動も勉強も普通だから」


「普通だというのは素晴らしいことです! ですが……ですが……! 菜月さんの使い方にはとても悪意を感じます!」


「ご、ごめんってば! だからこめかみをグリグリしないで!」


 明るさが戻ったのか、菜月に合わせてくれているのか。

 恐らくはその両方だろうが、普段と変わらない空気はやはり菜月を安心させてくれた。


   *


「あ、ごめん。はづ姉も仕事で疲れてるのに」


 菜月がお風呂から上がると、夕食の食器は葉月の手で洗われたあとだった。


「なっちーだって部活でクタクタでしょ。それにお姉ちゃんは大人だから、体力があり余ってるのでした! 実希子ちゃんほどじゃないけどね」


「そういえば、また公式戦で打ったんだっけ。この間、雑誌にも載ってたし、本当に日の丸を背負っちゃうんじゃないの?」


「全日本で4番を任されても、あんまり不思議に思わないから凄いよねぇ」


 葉月が用意してくれたホットミルクを一口飲み、菜月はほうっと息を吐く。

 二人きりの家は、夜になれば特に静けさを感じてしまう。

 そんな時の話題は大抵、昔から知っている元気印のことだ。


 ――プルル。

 腰からのエプロンを脱ぎかけの葉月を手で制し、菜月が受話器を取る。


「はい、高木です」


「あ、菜月?」


 電話をかけてきたのは和葉だった。


「そっちは問題ない?」


「大丈夫。私もはづ姉も元気にしているわ」


 夜になれば必ず、何もなくとも和葉は安否確認の電話を家にしていた。

 今夜は菜月が応対し、父親や祖父の様子を尋ねる。


「それなのだけど……葉月はそこにいる?」


「ええ、代わるわ」


 まだ中学生の菜月に余計な心配をさせまいと、大事な話は大抵葉月を通してワンクッション入れられる。だからではないが、きっと問題が起きたのだろうと理解してしまう。


「はづ姉、ママから」


「わかったー」


 脱いだエプロンをソファの背もたれにかけ、歩いてきた葉月に受話器を手渡す。


「……うん……うん……わかった。うん……なっちーにもう一回変わる?

 うん……そっか。じゃあ、気を付けて。おやすみなさい」


 受話器を置くと、葉月は大きなため息を零した。


「何か……あったの?」


「うん……」


 言い辛そうにしたまま、葉月がソファに座る。

 菜月も腰を下ろし、ホットミルクで喉を潤してから姉に真剣な目を向ける。


「私なら大丈夫だから、きちんと言って。大切なお祖父ちゃんのことだから、子供だからって隠されたり、誤魔化されたりするのは嫌なの」


「……そうだよね。でも、うん……なっちーがどうとかじゃなくて、ごめんね……お姉ちゃんにも、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ……落ち着くための時間をくれるかな……」


「……っ!」


 飛び跳ねるように起き上がった菜月は、正面から大好きな姉に抱き着いた。

 いつかの夜にしてもらったように、とても小さな胸だけど、安心と温もりを与えるために葉月の頭をギュッと抱いた。


「ありがと……なっちー……」


 腕が背中に回る。

 震えていた。

 いつでも元気で、祖父の一報を聞いてからも、菜月を心配させまいと、不安がらせまいと笑顔を崩さなかった姉が……大好きな姉が泣いている。


 それが答えだった。知りたくもない現実だった。

 菜月は強く下唇を噛む。嗚咽を漏らさないように。

 視界が涙で滲んでも。

 胸が張り裂けそうでも。


「……お祖父ちゃん……どうなったの……?」


「ママの話だと……もう……長くないって……手術もできないから……もう……」


 駄目という言葉を、姉は最後まで菜月に告げられなかった。

 菜月も押し寄せる現実に我慢ができなかった。


 泣いた。

 姉妹で大きく泣いた。

 泣いて。泣いて。泣いて。

 泣き疲れて目が腫れぼったくなって。

 二人でホットミルクを飲んだ。


「お祖父ちゃんの話だけど……」葉月が切り出した。


「うん……」


「ママがパパと話し合って、こっちの病院に入院させるって。看病しやすいように」


「それなら……お見舞いに行かないといけないわね」


 寄せ合う肩がまた小さく震える。

 繋いだままの手に力が入る。


「ねえ、なっちー。人って、どうして死んじゃうのかな」


「中学生の妹に聞くような質問ではないわね」


 生物だから。

 そう答えてしまうのは簡単だ。


 けれどそんなのは、質問をした葉月自身もよくわかっているはずだ。

 ただ吐き出さずにはいられなかったのだろう。感情を。

 菜月も同じだからこそ、姉の気持ちがよくわかった。


「悲しいね、はづ姉」


「うん……お祖父ちゃんには見せられないね」


「私たちといる間は……なるべく多く笑ってほしいものね」


「頑張ろうね」


 もし祖父が家に泊まることになれば使用する両親の寝室を姉と簡単に掃除し、布団などを春道の仕事部屋へ運んでおく。


 何をどうするかは両親が戻らないと詳しくわからないので、とりあえずは作業しやすいようにしておくのを心掛けた。


 そしてその日の夜。

 どちらから言い出すこともなく、葉月の部屋で姉妹一緒に眠りについた。


   *


 痩せたというよりも、やつれた祖父がベッドで上半身を起こしていた。

 菜月は泣きださないように、俯いて「ふっ、ふっ」と喝を入れるように呼吸を整える。


「葉月も菜月も、よく来てくれたな」


 三日前にこちらの総合病院へ入院したばかりの祖父が、笑顔で労ってくれる。

 優しげで、痩せた以外は以前と何も変わらない。

 なのに手術のしようがないほど病魔に侵され、すでに春道たちには余命も宣告されている。


 ――お盆に会った時はあんなに元気だったのに。


 悔しくて、辛くて、涙が出そうになる。

 けれど誰より悲しいのは祖父だ。その祖父が笑っているのだから、菜月が泣くわけにはいかない。無理矢理にでも笑顔を作る。


「お祖父ちゃんに会いたかったもの」


「そうか。菜月は相変わらずしっかり者みたいだな」


「なっちーは自慢の妹です」


 えっへんと葉月が胸を張り、個室に笑い声が満ちていく。

 部屋の隅には春道と和葉もいた。

 荷物は着替え程度しかない。高木家にもほとんど祖父の物は持ち込まれておらず、生活必需品は必要になるたび、こちらで新たに購入するつもりみたいだった。


「正月を待ちきれなくて、二人に会いに来てしまったよ」


 朗らかに言う祖父の右手には、点滴の針が刺さっている。たくさんされたらしい検査の跡も生々しい。


「お祖父ちゃんは甘えん坊さんだったのね」


「これはいけない。菜月に私の秘密がバレてしまった」


「残念ね。実は前から知っていたの」


「いやあ、さらにまいった」


 ハッハッハと笑いながら、祖父は果物でも食べるように勧めてくれる。

 元気に振舞ってはいるが、全身――特に顔から生気が抜け落ちているのがわかる。唐突に菜月の脳裏に、幼い頃に別れた祖母のことが蘇る。


「あんまり負担かけたら申し訳ないし、葉月たちは帰るね。お祖父ちゃん、またお見舞いに来るから」


 バイバイと手を振って、笑顔の葉月が菜月の手を引く。

 病室の外へ出ると、すぐに和葉が追いかけてきた。


「私は泊まり込みでの看病も増えると思うけど、家は大丈夫?」


「任せて。パパの面倒もちゃんと見てるし」


 葉月がドンと自分の胸を叩く。

 春道は仕事があるので家に帰ってくるが、一段落つけば葉月と菜月の様子を見てからすぐに病院へ向かう。


 その時点で、聞かなくとも両親に教えられている祖父の余命が短いのだと理解できる。

 葉月と連れ立って歩き、病院から出るなり菜月は姉の手を握った。


「病院って好きではないわ。悲しい……においがするもの」


「もしかして……お祖母ちゃんのこと思い出しちゃった?」


 ん、と小さく頷いた菜月の手が強く握られる。


「私もあまり得意じゃないかな。でも、元気になれる人もいる」


「どうしてお祖父ちゃんは……いいえ、もうやめるわね。今までも散々、はづ姉に甘えちゃってるのに」


「いいんだよ。私だってなっちーに甘えたし。

 姉妹なんだから助け合うのは当然でしょ」


 少しだけ沈みかけている日を菜月は細目で見つめる。

 滲んだ涙が頬に流れ落ちた。


「夕日って眩しかったのね」


「そうだね……でも綺麗だよ。儚げだけど、それはきっと太陽がお昼の間、一生懸命輝き続けてくれたから」


「詩人ね、はづ姉」


 手の甲で涙を拭い、菜月は姉に言う。


「またお見舞いに行こうね。今度はもっと明るく笑顔で、普段通りにお祖父ちゃんに会えるようにするわ」


「うん。なっちーは偉いね。葉月が中学生の頃とは大違いだよ」


「出来が違うということなのかしら」


「ええっ!? そんなこと言っちゃうの!? 可愛くない妹には、一緒にお風呂に入る罰を与えます!」


「はづ姉にとってのご褒美じゃない!」


 抗議するも、葉月は腰に手を当ててフフンと鼻を鳴らす。


「お姉ちゃんの特権です」


「横暴だわ。再考を要求するわ」


「却下します」


 胸の奥に巣食う悲しみを誤魔化すように、菜月は姉と一緒にひたすらはしゃぐ。

 チクチクとした痛みは消えないが、姉がいてよかったと心の底から思った。

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