第269話 中学の入学式と新たな出会い
都会と比べて開花が遅い桜はいまだ自分の殻に閉じこもったままだが、一足先に菜月たちは中学生として咲くことになる。今日の入学式がその一歩目だ。
小学校の卒業式以来となる真新しいセーラー服に身を包み、膝丈のスカートを僅かに翻らせて、一年生の教室があるという二階へ急ぐ。
四階が三年生。三階が二年生。二階に一年生の教室が並ぶ。あとは各階に理科室等の各種教室がある。
小学校時代と比べて生徒数は増えたものの、姉の葉月が教えてくれた通りだった。
事前の見学会には参加していたが、やはり卒業生の感想は重みがある。特にどこを通れば近道になるとかの、特有の裏情報は有難い限りだった。
もっとも葉月の在校当時には新しかった校舎も、現在ではそれなりに年季を感じるようになってきているが。
前日からあまり眠れなかったという茉優と真と階段を上り終えた菜月が見たのは、廊下にたむろする新入生の群れだった。
真新しいクラスにいきなり馴染めるわけもなく、廊下で小学校時代の友人とお喋りしているのだ。
「ふわぁ。人がたくさんだねぇ」
「小学校と比べたら五倍以上の生徒数になるはずだからね」
ポカンと口を開ける茉優に、隣で真が丁寧に説明する。
菜月も含めてだが、制服は少し大きめだ。成長を考慮して、あえてワンサイズ上のを用意するのが習わしみたいなものらしかった。
「教室はAからEまであるのね。壁に生徒名簿が張り出されているみたいよ」
お上りさんよろしく、辺りをきょろきょろしている茉優に声をかける。
一方の真は幼少時に越してくるまでは都会にいたからか、人の多さにあまり驚いてはいなかった。
「まっきーと茉優、同じクラスだねぇ」
最初は嬉しそうにしていた茉優だったが、すぐに表情を沈ませてしまう。原因は自分の名前のあとに、高木菜月の文字がなかったからだ。
「どうやら私だけ別みたいね……って、茉優。泣きそうにならないの」
顔をくしゃくしゃにした少女が、菜月の注意を受けて鼻を啜る。
「だって、なっちーがいないと寂しいよぉ」
「登下校は一緒にできるでしょう。それに茉優のクラスには真がいるわ」
真は真で小学校時代に引き篭もってしまった経験がある。中学生活で再発しないか不安も残るだけに、気心の知れた茉優と一緒なのは心強いだろう。
二人は顔を見合わせて頷くも、寂しさを隠そうともしない。菜月としても離れるのは辛いのだが、こればかりは仕方がなかった。
「他にも仲が良いのに離れ離れになった生徒もいるだろうし、私たちばかりが我儘を言えないわ」
言ったあとで、菜月は茉優の両肩に手を置いて微笑む。
「心配しなくても、ソフトボール部に入れば一緒よ」
「……うん」
ようやく、少しばかりの元気を取り戻してくれた茉優や真と別れ、菜月は自分の名前を見つけたD組の教室に入る。
「B組の茉優たちとは少し離れたけれど、あの二人が一緒だったのはせめてもの救いね。慣れないクラスでも力を合わせれば、なんとかできるでしょう」
我が身を嘆くより、親友の境遇に安堵する。
いつの間にやら自分もずいぶんとお人好しになったものだと嘆息しつつも、あの両親と姉に囲まれて育ったのだから当たり前か、などとも思ってしまう。
僅かに頬を緩めた菜月は、自分の出席番号と同じ札の置かれた机に、姉の葉月から譲ってもらったスクールバッグを置く。
新品でなくていいのかと両親に問われたが、捨てるには勿体ないし、何より使い込まれていた方が扱いやすい。それに、姉の香りがするような気がして安心できるのだ。
相変わらず廊下にたむろす生徒が多く、教室内は閑散としている。
頬杖をついた菜月は、初めての校舎からの風景を遠目に眺める。
「さて、どんな中学校生活になるのかしらね」
入学式の時間が刻一刻と迫る。
微かな不安を塗り潰すようにこみ上げてくるのは、抑えきれないほど大きな期待だった。
*
「はっはっは! よく来たな。先輩として歓迎してやるぞ!」
入学式を終え、教室に戻ったばかりの菜月が頬をヒクつかせる。
気付かないふりではなく、まったく気付いていない唯我独尊男こと戸高宏和の登場である。
戸高の実家は結構離れた土地にあるのだが、菜月と同じ学校に通いたいとの理由で小学生時代にこちらへ転校してきていた。
唖然とする新入生を掻き分け、無視を決め込もうとした菜月の前に、野球部らしく丸坊主頭の宏和が歩み寄る。
「人違いです」
「そう照れるなって。俺のあとを追いかけてきたんだろ」
頭痛を堪えるように、菜月は自分の席で額に手を当てた。
小学校と中学校に別れ、なおかつ部活で忙しい宏和とは会う機会が目に見えて減っていた。
しかしながら同じ中学校に所属すれば、必然的に顔を合わせる回数も増える。そのことをすっかり失念していた。
「あの、先輩」
横から一人の男子生徒が入り込んできた。筋肉もついてイカつくなりつつある宏和とは対照的に、スラリとした体躯の少年だ。まるで教室に風でも吹いているかのように、前髪がサラサラとなびいている。
「何だ、お前?」
怪訝そうに宏和が眉を顰める。
菜月はひたすら目をパチクリさせるだけだ。突然の乱入者にどう対応しようかと悩んでいたら、新たな乱入者が現れたのだから戸惑うのも当然だった。
「彼女が困っています。それくらいでやめてもらえませんか」
理路整然とした口調。声変わり前の声はやや高めだが、どことなく落ち着きを感じさせる。何より目鼻立ちのはっきりした顔つきと相まって、少年のイケメンぶりをアピールしているみたいでもあった。
「……繰り返すけど、何だ、お前?」
悪戯好きで威勢は良くとも、決して喧嘩っ早いタイプではない。いきなり取っ組み合いになる可能性は低かったが、否応なしに緊張感は高まっていく。
「僕はこの春から彼女のクラスメートになる
「クラスメートって入学したばっかだろ。
あっ、さてはお前、菜月に一目惚れしたな!」
「……はい?」
「しらばってくれても無駄だ! 菜月が可愛いからって調子に乗ってるんじゃないぞ。恭介とか言ったな。お前に菜月は――」
「――はい、退場」
これ以上、話が変な方へ行く前に靴先で宏和の脛を突いて黙らせる。
呆然自失としている間に、十分過ぎるほど事態がこんがらがってしまった気もするが。
「沢君だったわね。私は高木菜月。で、そこで転がってるのは戸高宏和。一応は幼馴染みたいなものなの。性格は救いようがないけれど、悪い人間ではないわ」
「そうなんだ。余計なことをしちゃったかな。絡まれてると思ったから、つい」
「騒がしくしてしまったのは私の方だし、善意からの行動だとわかったから気にしないで。むしろ関係者が迷惑をかけて申し訳なかったわ」
「困ってないなら、よかったよ。けれど高木さんは随分としっかりしてるんだね」
「そういう沢君もだと思うけれど。いい人オーラが全開ね」
「ハハ。自分じゃよくわからないよ」
爽やかに微笑む姿はまさにイケメン。芸能界の格好良い少年グループに所属していても違和感がないほどのハイレベルさは、同学年の女子にとって憧れの的になる。
事実、クラスで騒ぎに注目していた何人かはポーっとした表情で彼を見つめていた。
「こら、菜月! 地味に痛い攻撃は駄目だろ。俺じゃなきゃ、泣いてるぞ」
しぶとくも復活した宏和の前で、わざとらしく菜月は肩を竦める。
「下級生の教室に乱入する宏和が悪いんでしょ。まさかとは思うけれど、茉優たちのクラスには行ってないでしょうね」
「途中で寄ってきたぞ。おもいきり真に先輩面してきた」
事も無げに言い放つ宏和に、改めて菜月は頭痛を覚える。
「今頃は茉優たちのクラスも大騒ぎでしょうね」
「いや、むしろシンとしてたぞ。ノリの悪い奴らだよな」
言いくるめるより先に、実力行使で追い出した方が早いかもしれない。
何一つ悪びれない少年への対処を決めかけたその時、またしても誰かが菜月のそばにやってきた。
「先ほどから話を聞いてますけど、騒がしいにもほどがあります。高木さんでしたね。あなた、少々やり方がいやらしくはありませんか」
「……はい?」
本気で相手が何を言っているのかを理解できず、菜月は首を傾げた。
黒髪の長髪を右手で後ろへ流し、目の前に立っている少女は不敵に笑う。前髪を留めているヘアピンが、窓からの陽光に反応してキラリと輝いた。
「入学初日にクラスの人気を得ようと、知り合いの男子に協力を頼んだのはバレバレです。そうまでして注目を集めた狙いは一つ。
近々決められる学級委員長の座ですね」
ストッキングのような黒のニーハイソックスを覗かせるスカートは、他の女子に比べてもやや長め。清楚な佇まいはおしとやかそうな顔立ちと相まって、大和撫子を連想させる。
だというのに、今にも高笑いをしそうな雰囲気と勝気な瞳が、すべてを台無しにしている。
そして菜月は直感で理解した。
名前も知らない目の前の女性は、迂闊に関わってはならないタイプだと。
「この日のためにせっせと練ってきた策なんでしょうが、小学校時代に児童会長を務めた、このわたしが同じクラスだったのは誤算でしたね。そう簡単に思い通りにはさせません!」
呆気に取られていただけなのだが、無言を肯定と受け取り、謎の少女は高らかにトチ狂った宣言をした。その背後には取り巻きらしい二人の女生徒が、影の如く付き従っている。
早々に立ち去ってもらうのが菜月の希望だったのだが、空気を読めない癖にノリだけは異様にいい男が高笑いを返してしまう。
「なかなか鋭いが、甘いな。俺はただ菜月に会いに来ただけだ。そして、それこそが菜月の魅力。お前が学級委員長など――」
「――はい、退場」
「ぐおお、だから脛を蹴るのは――って、おい。ちょっと待て」
まだ何か言いたそうだった宏和を、菜月は強引に教室から追い出した。
新入生の担任となった教師と丁度出くわしたらしく、何をしていると怒られる声が聞こえた。
「……話が途中になってしまいましたけど、このクラスの中心となるのはわたしです! そのことを肝に銘じておいてください!」
勢いよく菜月に背を向けた女生徒だったが、途中まで歩を進めると、急に後ろ歩きで戻ってきた。
「言い忘れてましたが、わたしは
「ご丁寧にありがとうございます。高木菜月です」
バツが悪そうにしながらも、友好の握手まで求めてくるあたり、根は悪い人間ではないのだろう。
なんとなくだが、立ち振る舞いや言動にお嬢様っぽさも感じさせる。
菜月よりも背が高い愛花との握手を終えると、それを待っていたかのように中年男性の担任教師が教室へ入ってきた。
*
「――ということがあったのよ」
入学式の夜。茉優や真の親も含めたお祝いの食事会も楽しく終わった。
舞台となった高木家の食卓も元通りになり、リビングで体を休めていた菜月は、ふと思い出したように日中の出来事を家族に説明していた。
「へえ。面白い子もいるんだね」
「はづ姉は他人事だと思って。それにしても、宏和にも困ったものだわ。わざわざ下級生の教室に乱入なんてする? 教師に見つかって怒られるのがわかりそうなものなのに」
憤慨する菜月の隣で、いつものように父親の春道が朗らかに笑う。
「だけど皆がいる前で声をかけたんだ。上級生に知り合いがいるとわかれば、特に真君なんかは虐められ辛くなるな」
双眸を見開いて、菜月は一瞬だけ硬直する。
「まさか、ね」
小さく呟いて立ち上がる。
ふと思い出されたのは、得意げに笑う人懐っこい少年の顔だった。
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