第263話 修学旅行

 緑だった葉が赤く染まるのに合わせて、風が涼しさを纏う季節。綺麗で心躍る風景なのに、見ていればどことなく哀愁も漂う。そんな秋の一日に、小学校で最大ともいえるイベントがスタートする。


「楽しみだねぇ。楽しみだねぇ」


 キャッキャッとはしゃぐ茉優。隣の席に座る菜月は彼女を落ち着かせつつ、冷静さの裏にこっそりと興奮を隠していた。


 早朝の集合時間に学校へ行き、すでに校庭で待ち構えていたバスに乗ったのが数分前。黄色をベースにした普段乗らないバスの側面には、英字で大きくバス会社の名前が書かれていた。それだけで昂りそうになるくらい、密かに菜月もはしゃいでいたのである。


 黒を基調としたお揃いのワンピースで隣り合って座る菜月と茉優は、ほとんど姉妹のようでもあった。揶揄される回数も多いが菜月は気にせず、茉優は恥ずかしがるどころか嬉しそうにするのでからかいがいはほとんどないだろう。


 乗って一時間もしないうちにおやつを食べたがる男子に担任が困った顔をしながらも、事前の取り決め通りに各班で催しものをするように通達する。


 宿泊部屋こそ異なるものの、伝統的に学校の修学旅行は男女で班を組む。菜月と茉優の班の男子には、当たり前という感じで真が所属していた。


 それぞれの班の代表がバスガイドの隣に立ってクイズの出題などをする。そうして笑い合っているうちに気持ち悪くなる児童が出たり、こっそりお菓子を食べようとする問題児が出たりで、車内は普段の教室以上に騒がしかった。


「隣の県だけど、移動には時間がかかるんだねぇ」


 葉月も小学校時代に行っており、牧場や自然公園が有名らしい。近くには遊園地もあり、学校に帰る二日目の午前中にはそこで自由時間となるらしかった。一日目は見学が大半なので、菜月も含めたクラスメートの興味は二日目に集中していた。


「しおりでも三時間以上はかかる計算になっているものね。もっとも普段は見られない景色を堪能するのも良いことよ。特に真は嬉しいんじゃないの?」


 尋ねた真はリュックからスケッチブックを取り出し、他の男子に頼み込んで確保した窓際の席で会話もそこそこにスケッチに励んでいた。


 描いたものを覗き込んだ茉優が、ふわあと瞠目する。


「まっきー、凄いねぇ。一瞬で他の景色になっちゃうのに、よく描けるねぇ」


「遠くに見える山は変わらないからね。そこを目印にして、あとは少しずつ記憶を蘇らせていくんだ。でも意外に正確ではないよ。それに落書きみたいなものだし」


 今度は菜月が苦笑いを顔に作る番だった。


「それを落書きと読んだら、大多数の小学生のスケッチが落書き以下になるわね。謙虚なのは美徳だけれど、度が過ぎるとただの嫌味よ」


 注意された真がわかりやすすぎるくらいに気落ちする。他の誰に言われても受け流せるようになっているのに、何故か菜月が相手だと露骨なくらいに感情表現が豊かになる。


「そんなに落ち込まなくても、自慢しすぎないくらいに自分の絵の技術を誇ればいいと思うわ。私は真の描く絵が好きだもの」


「そ、そうだよね。な、ならこれをあげるよ。それにさっき描いたのもあるし!」


 青くなりかけた顔が今度は赤く染まる。車窓から見える紅葉ほどではないにしろ、その変化は傍から見ている分には面白い。


「あっ、なっちーや茉優の似顔絵もあるねぇ」


「こっ、これは、その……」


 やたらと挙動不審になる少年に、いつものことじゃないと菜月はため息をつく。以前に半ば告白じみた言動をしたにもかかわらず、基本的には気弱なままの真だった。


   *


「凄いねぇ、凄いねぇ。牛乳が美味しいねぇ」


 家から持ってきたお弁当を空気の澄んだ自然公園で食べたあと、見学した牧場で希望者が牛の乳絞りをさせてもらえた。菜月も挑戦してみたが、テレビなどで見るよりずっと難しく、牛に痛がられないか心配しながら悪戦苦闘した。


 意外にもクラスで一番上手だったのが茉優であり、希望者が乳絞りを終えると、牧場の関係者から牛乳が振舞われた。給食でも毎日美味しいのを飲ませてもらっているが、大自然に囲まれて飲む本場というか濃厚な牛乳は格別だった。


「本当ね。口に含んだだけで芳醇な香りが鼻腔にまで広がるし、それでいて喉越しは驚くほど爽やかだわ。口内も変にベトつかないし、市販のとは少し違う気がするわね。搾りたてだからなのかしら」


「ほう、良い舌をしてるね、お嬢ちゃん。違いがわかるかい」


 大人顔負けの感想を展開していた菜月に、薄緑色の作業着姿の中年男性が、一部欠けた前歯を帽子のつばの位置を直しながら輝かせた。漫画などであれば間違いなく、ニカッという効果音が聞こえていたに違いない。


「愛飲しているのはスーパーのですけれど、飲み比べをして好みを探しました。個人的にはやや薄めでありながら、喉越しがしっかりしているタイプが好きですね。その方がホットミルクにするとコクが際立つような気がするんです」


「いやあ、嬉しいね。最近は飲む人も少しずつ減ってきているからね。これで日本の将来も安泰だよ」


 日本の将来というよりも牧場の未来のような気もするが、あえて無粋な指摘をするほど菜月も野暮ではなかった。


「就寝前、読書をしながら飲むホットミルクは格別ですからね」


「わかる、わかるなあ。芯から体が温まるから、リラックスできるんだよ。だが、眠る前の歯磨きは忘れたら駄目だよ」


「ご心配なさらずとも、私に抜かりはありません。仮に忘れようものなら、母が鬼の如く追いかけてきますし」


 ジョークだとすぐに悟った作業員が、朗らかな笑い声を風に乗せて牧場に木霊させる。


「良いお母さんじゃないか」


「ええ。娘の前でも、父と仲良くしすぎるのはどうかとも思いますが」


「ハッハッハ。それも含めて、やっぱり良いお母さんだよ」


 すっかり仲良くなったおかげか、他の皆には内緒だぞと作業員が牧場で作っているというクッキーをくれた。小さな包装紙に二枚ずつ入っており、それを一つずつ菜月の班の全員が受け取ってすぐに食べる。


「美味しいねぇ」


「牧場でお土産として売ってたりもするから、良かったらどうぞ」


 商売上手な作業員はまたしても効果音が似合いそうな笑顔を見せ、きびきびとした動作で菜月たちに背を向ける。

 これがプロかと感心したのも束の間、すぐに作業員は他の班の子に声をかける。


「どうだい、うちの牛乳は」


 わいわいと楽しそうに会話するクラスメートと作業員を眺めつつ、菜月はポツリと呟く。


「どうやら、ただの接客だったみたいね。あの作業員の人、なかなかやるわ」


「でも、このクッキー、本当に美味しいよ。パパに買って行こうかなぁ」


 悩む茉優の隣では、真も貰ったクッキーを頬張りつつ、同じようなことを言っていた。確かに程よい甘さのこのクッキーは美味で、夜のホットミルクのお供には最適だろう。


「夜に宿泊する予定の旅館で取り扱っているとは限らないし、お土産を買って良さそうなら一箱買って帰ろうかしら」


「じゃあ茉優もー。皆で夜に食べるのもいいよねぇ」


「そうなると牛乳の確保も必須ね。旅館でガスを勝手に使ってもいいのかしら」


「……それはさすがに無理だと思う」


 そんな指摘をした真も含め、親から持たされた五千円のお小遣いで三百円で六袋入っているのを購入。小学校の修学旅行生が多く訪れるのもあり、低価格から揃えているらしかった。何から何まで商売上手である。


   *


 日中の自然公園や牧場も楽しかったが、引率者がいるにせよ、子供だけで旅館に泊まるというのも楽しみの一つだった。大浴場に全員でお風呂に入り、背中の流しっこまでした。他の学校の児童も泊まっているみたいで、夕食後の午後八時から八時半までが菜月たちのクラスの入浴時間に定められていた。


「三十分とはいえ、他の人たちに迷惑をかけないように五分前までには着替えて出るようにしましょう」


 恐怖政治など一切行わずとも、一緒に入浴する女子は児童会長でもある菜月の提案を素直に了承してくれた。手早く体を洗い、ゆっくりと大きな浴槽に浸かる。


「広いねぇ。ゆっくり足を伸ばせるねぇ。銭湯よりも大きいねぇ」


 以前に一緒に行った銭湯を思い出したのだろう。菜月の隣で浴槽の縁に顎を乗せた茉優がそんなことを言った。


 茉優の感想に、湯船に浸かるまで恥ずかしそうに体をバスタオルで隠していた女子の一人が反応する。


「銭湯って、皆でお風呂に入るところだよね?」


「そうだよ。広くて気持ちいいよぉ」


「私は駄目かな。恥ずかしいし……」


 年頃らしい少女の言葉に、茉優は笑顔で大丈夫だよなんて言ったりする。知り合った頃と比べて友人も成長した。娘の巣立ちを見守る母親みたいな気分になり、思わず菜月はほっこりしてしまう。


「明日は遊園地だねぇ」


 いつの間にか、会話を終えていた茉優が菜月に話しかけてきた。


「ジェットコースターとかもあるみたいね。私は休憩所でジュースを飲みながら、のんびりと読書でもしていたのだけれど。いっそ旅館に置いていって、帰る時に迎えに来てくれないかしら」


「えー。なっちーも一緒じゃなきゃつまんないよ。茉優と一緒にジェットコースターに乗ろ!」


「……茉優は過激な乗り物が好きなの?」


「ビューンって空を飛んだり、落っこちたりするんだよねぇ。面白そう」


 茉優と菜月の会話に、他の女子も次々と加わる。メインはやはり明日の自由行動についてだった。


「明日の楽しみを語るのもいいけれど、そろそろあがりましょうか」


「お風呂から上がったら、枕投げだねぇ」


「……定番といえば定番でしょうけれど、眠る前に汗をかくのは避けたいわね。それに夜に張り切りすぎると、疲れが明日に残って、せっかくの遊園地だけで休憩ばかりするはめになるわよ」


 菜月の忠告に枕投げなどと言い出した茉優のみならず、他のクラスメートもそれはマズイといった感じで顔をしかめた。


「でもすぐに眠るのは勿体ないわよね。私、トランプ持ってきたんだ」


「負けた人は罰ゲームね!」


「……私は遠慮しておくわ。罰ゲームで初恋の相手とか好きな人とかを告白しろと言われても、身に覚えがないもの」


「やだー。なっちーもやるの!」


 断る前にわかってはいたが、茉優にまとわりつかれた菜月はため息交じりにトランプ遊びに興じるのを了承するのだった。


   *


 地元ではなかなか見られない、比較的規模の大きな遊園地。修学旅行二日目はよく晴れ、昼食後の今は絶好の遊園地日和である。


 関東の有名なところと比べればこれでも小さく、アトラクションも少ないのだろうが、身近な場所に本格的な遊園地のない菜月たちにとっては楽園みたいな場所だった。


「なっちー、写真撮ろっ、写真!」


 浮かれ気分の茉優が、自宅から持ってきたデジタルカメラをリュックから取り出す。


 はしゃぎたい気持ちは皆同じなのか、普段は立ち話程度しかしないクラスメートも誰かが写真を撮ろうとしているのを見れば、ここぞとばかりに集まって写りたがる。かくいう菜月自身も容量を使い尽くさんばかりに、シャッターを切りまくっているが。


 引率の教師から注意事項を聞かされたあと、いよいよ待ちに待った園内での自由時間に突入する。昨夜の旅館でお土産の大部分は購入しているので、あとは好きなアトラクションで遊ぶだけだった。


「自転車を借りてサイクリングもできるみたいだよ」


 同じ班の真が、園内に立てられている案内の看板で得た情報を教えてくれる。


「テニスコートなんかもあるのね。単純な遊園地というよりは、アトラクションのある自然公園という表現が近いかもしれないわね」


 滅多に訪れる機会のない遊園地。サイクリングなどにも興味はあれど、班の方針はアトラクションで遊ぶというもので統一される。乗り物の前の販売機でチケットを購入し、それを係員に渡して乗るという仕組みだった。値段は様々でメリーゴーランドみたいに手軽に乗れるのもあれば、凝ったジェットコースターなどはやはり幾らか割高に設定されていた。


「うううっわあああ、楽しいねえぇぇぇ」


 早速ジェットコースターに乗りながらはしゃぐ茉優とは対照的に、後ろの座席についた真は悲鳴を上げて涙目だ。


 あっという間の速度で地上に降りた瞬間に、膝を笑わせて地面に崩れ落ちそうになったほどである。地元――といっても住んでいる場所からは離れているが、そこのさほど大きくないジェットコースターとはレベルというか格が違う感じだったので、真みたいな有様になるのも無理はないといえた。彼ほどではないにしろ、菜月も少しばかり顔が引きつっている。


「もう一回乗りたいねぇ」


「それなら希望者だけで挑戦すればいいわ。休みたい人は下で待っていましょう。近くにはベンチもあるし」


「それがいいねぇ。じゃあ、なっちー、行こう!」


「……私に選択権はないのね」


   *


 自由時間はおよそ一時間半程度で、とてもではないがゆっくりとはしていられない。駆け足で数々のアトラクションを堪能し、最後に菜月たちは二手に分かれて観覧車に乗った。


 菜月の隣には茉優が座り、正面には真。三人だけで乗った観覧車は丁度一番高くにまで到達し、雄大な風景を見せてくれていた。


「もうすぐお家に帰るんだねぇ」どことなく寂しそうに茉優が言った。


「名残惜しいけれど、こればかりはどうしようもないわね」


「でも、楽しかったねぇ。またいつか来たいねぇ」


 ジェットコースターで涙目になっていた真も、茉優の希望に同調する。


「思い出をたくさん作れたしね。僕もまた来たい」


「それなら来ればいいわ」事も無げに菜月は言う。「大人になって時間とお金があれば、いつだってこの遊園地で遊べるわよ」


「えへへ。そうだねぇ」


 嬉しそうに笑う茉優がじゃれついてくるので、菜月は頬を緩めて彼女の髪の毛を撫でる。


「中学校も三人一緒なんだよねぇ。高校もその先もずっとそうだといいねぇ」


「叶うわよ。皆で強く願っていればね」


「じゃあ僕は今から祈っておくよ」


 観覧車から見下ろす光景は綺麗で心が洗われるようで、それでいて乗っている菜月たちの心情のように少しだけ切なげで。


 途中から話すのさえ忘れて、菜月はただひたすら吸い込まれるように見入っていた。そして心の中で繰り返す。大好きな友人たちと、今後もずっと一緒にいられますようにと。

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