第264話 思い出にありがとう
小学校生活での最大のイベントといっても過言ではない修学旅行が終われば、いよいよフィナーレに向けた時間が動き出す。秋の彩も未練を残しながら枯れていき、厳しさを連想させる冬への旅支度を整える。
寒さに体が慣れていくのに合わせ、時計の針は止まることなく次を目指して突き進む。まだ時間はあると思っているうちに、楽しみにしていた正月も冬休みも終わった。
重ね着して厚くなった服の重さに若干の息苦しさを覚えつつも、慣れ親しんだ通学路を心許せる友人とあと何回歩けるのだろうかなどと、ふと考えたりするようにもなった。
そして卒業の前に、一足先に菜月は役目を終える。先日の選挙で新しい児童会長が無事に決まり、引き継ぎを果たしたからだ。
残り少ない三学期の一日。明日からはもう来ることもない児童会室に、菜月は一年間役員として支えてくれた茉優と真と一緒にいた。
大半の児童が帰宅した放課後。雪が積もったグラウンドに人影はなく、体育館から部活に励む児童に声が聞こえてくる。夏までは自分も一生懸命、練習に励んでいたのを思い出して少しだけ懐かしくなる。
「例年なら春休みが待ち遠しくて仕方ないのにね」
何気なく漏らした菜月の呟きに、輪を描くように一つの机を囲んでいる茉優と真が顔を上げる。
「そっか。茉優たち、今年で卒業するんだねぇ」
「校舎はなくならないけど、本来の目的では使われなくなるみたいだしね」
菜月たちの世代が、昔からあるこの校舎に見送られる最後の卒業生となる。散歩途中で寄ったりすれば外から見られるだろうが、中に入って勉強に励むことはもうない。瞳を輝かせるほど学ぶのが好きというわけでもないが、もう少しでできなくなると思えば寂しさが募る。
「その前に、この児童会室とお別れね」
一年の間、行事のたびにあれこれと三人で話した。大半は学校が決めているが、それでも教師と話し合って生徒側の要望も伝えたりした。
「私は良い児童会長だったかしら」
誰に尋ねるでもなく口にした言葉に、優しげに微笑む茉優と真が頷いてくれた。
「なっちーじゃなきゃ、できなかったよ」
「うん。周りの皆も、さすが菜月ちゃんだねって褒めてたし」
新会長へ役目を引き継ぐ際には、教師からも労いの言葉を貰った。それでようやくやりきった安堵感と解放感、そして少しの寂寥感に包まれた。
「ありがとう。真と茉優のおかげだわ。二人が手伝ってくれていなかったら、途中で嫌になっていたかもしれないもの」
素直にお礼を言って頭を下げる。
「そんなことはないよ。僕がいなくても、きっと菜月ちゃんは最後までやり遂げたよ。責任感が強いし、何より優しいからね」
過分な真の評価に、思わず照れてしまう。顔が赤くなってないか気にする菜月の手を、机の上で茉優が軽く握った。
「茉優はなっちーのお手伝いができて嬉しかった。それにねぇ、楽しかった」
「そうね。私も楽しかったわ。
やっている最中は苦労ばかりだった気もするけれど」
苦笑する菜月に、机に肘を乗せて顎を支えている真が目尻を下げる。
「終わってみれば良い思い出になるっていうのは本当だね。小さな理由で家に引きこもっていたのも、今となればなんだか懐かしいよ」
「確かなっちーが、まっきーの家に行って色々と蹴破ったんだよね」
にこやかな茉優の尾ひれのついた言動を、即座に菜月は否定する。
「計画はしたけれど実行はしていないわ。
勝手に人を乱暴者扱いしないでほしいわ」
「あの時は部屋の中にいたけど、
とんでもないクラスメートが来たって震えてたからね」
真まで大袈裟に言い始め、茉優も含めて全員が笑う。
「真だけでなく、茉優も意外と危うかったわよね」
「えへへ。茉優ねぇ、仲良くしてもらうためには、皆の気を引くしかないんだって思ってたの。そうでないと一人ぼっちになっちゃうって」
たいして好きでもないのに洋服の本を買ってみたり、とにかく当時の少女は必死だった。
「夕食代を洋服代にしてたのを知った時は、ひっくり返りそうになったわ」
菜月と話すようになってからも、漫画が好きなのに小説に興味があるふりをしたりと茉優の性格はなかなか変わらなかった。
「でも、なっちーは一緒にいてくれたよねぇ。茉優に変な顔もしなかった。凄い嬉しかったなぁ。お互いの家で遊んだり……そういえばご飯を作ってもらったりもしたねぇ」
「当時はまだ若かったから、簡単なものしか作れなかったけれどね」
「……今も十分に若いと思うんだけど……」
野暮な指摘をしてくる真にくるりと顔を向け、菜月はからかい半分の笑みを張りつける。
「茉優にご馳走したって話を聞くなり、自分にもって駄々をこねたお子様も数年間で随分と成長したものね」
「う……だ、だって……その、菜月ちゃんの手料理が食べたかったんだ」
「あの頃は同年代の手料理なんて珍しかったしね。気持ちはわかるわ」
「……それだけじゃないんだけどな」
「何か言った?」
慌てた様子で真が首を左右に振る。どことなく恥ずかしがっているようにも見えるが、理由が不明なので菜月としては顔にハテナマークを浮かべるしかなかった。
当時は仕事で忙しかったシングルファーザーの茉優の父親も、現在ではそれなりに作れるようになったらしい。もっともそれ以上に茉優の料理技術が上達しているので、食事の用意はもっぱら彼女が担当しているみたいだった。
*
「お喋りしているうちに、夕方になってしまったわね」
春が近づくにつれて少しずつ日も長くなってきたが、それでも夏に比べれば暗くなるのは早い。部活に励む児童の声も、少しずつ聞こえなくなってくる。
「そろそろ帰る?」
尋ねてきた真に悩むそぶりを見せてから、菜月は提案する。
「もう少しだけ寄り道してもいいかしら」
「茉優は大丈夫だよ。部活も児童会活動もなくなっちゃったしねぇ」
「ありがとう。だったら教室に行かない?」
児童会室を出て職員室にいる教師に鍵を返し、所属する六年生の教室に向かう。低学年から高学年まで階は違っても、内装自体はさほど変わらない。壁にはプリントや授業で作った全員の習字が並べられていたりする。
校内放送を伝えるスピーカー近くには運動会で獲得したペナントが誇らしげに飾られており、朝には皆で場所取り合戦をするストーブ周りも今は静かだ。
「誰もいないね」
別に悪事を働いているわけではないのだが、何故か真は声を低くしていた。
「卒業間近の六年生だから部活もないし、このあたりじゃ都会の有名中学校とやらをわざわざ受験する子もいないしね。もう帰って、友達同士で遊んでるわよ」
小学校を卒業すれば住所によって各中学校への入学が決まる。そこに受験などというものは存在せず、当たり前に皆が進学する。そんな環境だから、もちろん私立中学なんてものは存在しない。
菜月が自分の席に腰を下ろすと、茉優と真がその両脇に座った。小学校生活も三学期で終わる。それゆえに担任が最後くらいは自由に決めろと、三学期の席順に関しては気を遣ってくれたのである。
幸いにして菜月のクラスには虐めが存在せず、全員の仲がそれなりに良かった。その中でさらに親しい友人同士でグループを形成し、それがそのまま席順にも表れた。
グループも固定ではなく、その時々で他に顔を出してみたり戻ってきたり、複数のグループがひとまとめになってみたりなど様々だ。男子に関しても似たようなものだと、以前に真が教えてくれた。
「六年か。言葉にすると長いのに、なんだかあっという間だったわね」
実際には色々あった。真や茉優と出会っただけではなく、大好きな姉が大学のために家を出たりもした。その姉も今年で卒業を迎えるのだが。
「もう通えなくなっちゃうんだねぇ」
寂しそうな茉優の感想は、この場にいる全員の共通した想いでもあった。
「あと少しで卒業だけど、僕はきっと一生忘れないよ。この学校で過ごした日々を」
「忘れられるわけがないわ」
林間学校に修学旅行。楽しかった思い出は数えきれない。それもこれもすべてこの小学校に入学して、心を許せる友人と出会えたからこそだった。
「学校にも教室にもありがとうとお礼を言わないとね」
「うん。あとちょっとでお別れだもんねぇ」
ひとしきりしんみりしていると、黄金のようだった空が徐々に暗さを帯び始めた。夜になろうとしているのを受け、菜月たちはそろそろ帰ろうかと顔を見合わせる。
「どうせなら、部室にも寄って行きたいねぇ」
何気なくであろう茉優の一言に、菜月はそれだとばかりに同意する。
「鍵は借りられるだろうし、少しだけでも見ていきましょうか。なんだかキャッチボールがしたくなったわ」
部室にいけば予備のグラブやボールもある。思い立ったら即行動と、部活中に校内をダッシュしていた頃のような勢いでグラウンドを目指す。通学用の長靴で雪を掻き分け、顧問に頼み込んで十分だけ貸してもらえた鍵を使って部室に入る。
「懐かしいねぇ。昔のままだよ」
昔といっても半年程度のことだが、それでも茉優が口にした懐かしさを感じるには十分な時間だった。選手として頑張った菜月だけでなく、マネージャーとして状況に応じて支えてくれた真も感慨深そうである。
「どこか汗臭いような、それでいて誇りっぽいような、そんなにおいも変わらないわね」
部室の隅で出番をジッと待っているグラブの一つを手に取る。予備のものであっても、きちんと手入れされているのがわかる。
「皆、頑張っているのね。
尚更、この学校でもう大会に参加できないのが悔しいわ」
春になればそれぞれ別の小学校に入学して、新たにソフトボール部に入り直さなければならない。それでもレギュラーを目指そうとする者、再び頑張ろうという気にはなれずにそこで断念する者。どのような決断をしたとしても、卒業する菜月には何かを言う資格はなかった。ましてや、自分はこの小学校のソフトボール部員として、負けはしても夏の大会にも出場できたのである。
「こればかりは仕方がないよ。僕たちじゃどうにもできないし……」
肩に手を置いた真に慰められ、そうねと小さく頷いた菜月は気を取り直して、他にある予備のグラブを茉優に手渡す。
「きっとこの学校での最後のキャッチボールになるわ。雪のグラウンドで少し寒いし、暗くなってきてるからボールも見え辛いけれどね」
「大丈夫だよ。やってるうちに暖かくなるし、それに茉優も菜月ちゃんとキャッチボールがしたいし」
外に出て、離れすぎない距離からボールを放る。部活引退後も、近所の公園で遊びでキャッチボールをしたことはあるが、やはりグラウンドですると身体も心も引き締まるような気がした。
このグラウンドで初めて本格的にソフトボールに接し、最初の頃は筋肉痛で大変だった。姉の葉月に電話をかけて対処法を聞いたりもした。矢継ぎ早にそうした光景が脳内で再生され、迂闊にも泣きそうになる。
長い人生でただ通り抜けるだけの六年間。それでも人生で最初の学校生活は、菜月にかけがえのない思い出と友人を与えてくれた。
「ありがとう」
誰にともなく菜月は小さな声で呟き、晩冬の空に白球の虹をかけた。
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