第259話 宏和の小学校卒業
暑く長かった夏を過ぎれば、季節はあっという間に変わっていく。町の風景が色彩を増し、吹く風に伴う冷たさに身を竦ませるうちに冬となり、そして春が訪れる。
それは新しい出会いをもたらすが、その前に別れも呼ぶ。菜月の一学年上である宏和が今日、晴れて小学校を卒業するのだ。
在校生で綺麗に飾り付けられた体育館。紅白のカーテンがかかり、厳かな雰囲気が漂う。後方には卒業生の保護者が列席し、式の開始前から緊張感を纏っている。
卒業生の前に在校生として体育館に入っていた菜月は、宏和の両親を発見する。二人とも感慨深そうに館内を見回していたが、目が合うと軽く手を振ってくれた。
「宏和君のパパとママも来てるんだねぇ」
席順が僅かに前の茉優が、菜月を振り返りながら言った。
「息子の晴れ舞台だからね。お祭り好きな二人が来ないはずないわ。私としては、うちの両親まで引っ張り出されてないかが心配なのだけれど」
ほうとため息をついてみる。着物やワンピースなど様々に着飾った保護者の中には、幸いなことにというべきか春道と和葉の姿はなかった。
「まあ、卒業式には参加していなくとも、終わったあとに一緒にお祝いとかはするでしょうね。今日でなくとも」
「茉優もお祝いとかしてあげたらいいかな」
「そうね。子供同士だけで遊ぶというのもいいかもしれないし。
……真も参加するわよね」
高木に佐奈原に鈴木。男女で二列を形成している隣側には、出席番号順で近い真が座っている。おかげで新クラスになっても、最初の頃は教室でも席順が近かったりする。
「もちろんだよ。宏和君にはお世話になったからね」
「お世話をしてあげたの間違いでしょう」
菜月の指摘に真が苦笑する。
「多少、強引なところもあったけど、それでも感謝してるんだ。僕が男子との輪の中に飛び込めるようになったのも、宏和君が勇気をくれたからだしね」
「ふわあ。まっきー、良かったねぇ」
パチパチと小さく手を鳴らす茉優に、出会った頃は特に怯懦そうだった少年が笑みの困惑度合いをことさらに大きくした。
「やっぱりその呼び方、定着させるつもりなんだね」
「気にしない方がいいわ。茉優のことだもの。その時の気分次第で、ころっと忘れて普通に真君なんて言ってる時も多いしね」
「そうだね。運命を天に任せるよ」
大袈裟な物言いをして、すっかり諦観する真少年。現在の彼の悩みなのかもしれないが、悩みといえば菜月にも大きなものがあった。
「なっちー、緊張してる?」
大小関わらずに普段よりもため息を漏らす菜月に、茉優が心配げな顔を向ける。
「仕方のないこととはいえ、大役を仰せつかってしまったからね」
また新たな深い吐息が生まれそうになったところで、かろうじて呑み込む。あまりに多すぎると、幸運が逃げるなんて先人の言葉を思い出したからである。
「卒業式が、菜月ちゃんの児童会長としての初仕事になるんだね」
「他人事みたいに言ってくれるわね。書記の鈴木真君。何なら代理で登壇してもいいのよ」
「え、遠慮しておくよ。それに会長の代理をするなら、副会長の茉優ちゃんの方が適任じゃないかな」
元来が目立ちたがり屋ではない真が、懸命に右手と首を振る。菜月からすれば冗談のつもりだったのが、表情や目に意図せぬ本気が宿っていたのかもしれない。
「えへへ。選挙戦、楽しかったねぇ」
「てんやわんやだったけれどね。どうして各クラスから最低一人は出馬しなければならないなんて、奇妙なルールが出来たのかしら。最近は自動化が流行しているのだから、児童会長もロボットにしてしまえばいいのに」
「……さすがにそこまで時代は進歩していないと思うよ」
「冗談よ。今のところわね」
学級委員長でさえ他薦でやらされる菜月だ。五年生の三学期時に新たな児童会長を決める選挙があると担任が言い出し、誰も立候補をしない時点で貧乏くじを引かされるのは目に見えていた。懸命な抵抗も周囲の賛同に掻き消され、予想通りに菜月がクラスからの児童会長への推薦者となった。
巻き込もうとする前に茉優と真は率先して菜月を手伝い、圧倒的得票差で当選後にはそれぞれ副会長と書記という役員も嫌がらずに引き受けてくれた。
その児童会長となって最初の仕事が、在校生代表として卒業生に言葉を贈ることだった。姉の葉月も小学校時代は同様の役目をこなしており、先日に春道が録画していたビデオを見せてもらったが実に堂々としていた。
「ここまできたら、やるしかないわよね。ふう。失敗しても悪影響が及ぶのが自分だけなら、こんなに緊張もしないのだけれどね」
六年間を小学校で過ごした先輩たちの晴れ舞台を台無しにしてしまわないか。それだけが菜月の心配の種だった。
「基本的に楽観的なはづ姉や実希子ちゃんが、今回ばかりは羨ましいわ。私は意外と悲観的な性格をしていたのね」
「それは……違うと思うな」
何故かにっこりと真が唇の形を変える。
「菜月ちゃんは優しいんだよ。それに責任感が強いから、自分より相手を先に心配してしまうんだ。でも大丈夫。自分の殻に閉じこもってた僕を、ドアを蹴破るなんて言いながら強引に身も心も外へ連れ出してくれた女の子だからね」
今度は菜月が苦笑する番だった。
「そんなこともあったわね。なんだか懐かしいわ」
髪の毛を掻き上げ、耳の後ろから首筋に流してから程なくして上がるであろう壇上を見る。どんな形で役目を与えられたからには全うし、やらなければならないなら応えるまでだ。
菜月が小さく「よし」と気合を入れるのを待っていたかのように、体育館前方の隅に控える教師の一人が設置されているマイクスタンドの前に立つ。
学校名と回数が告げられ、卒業式が始まる。在校生と保護者席の真ん中、作られた通路を入場してきた男女毎に並ぶ卒業生が緊張の面持ちで歩く。全員が進学する中学校の制服を身に着けており、なんだか同じ小学生とは思えないほど大人びて見えた。
立ち上がって拍手で出迎えた在校生の列の中、菜月が見たのは普段通りのどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて歩く宏和の姿だった。
「宏和は卒業式でも宏和なのね」
落胆か安堵か。形容するのが難しい感情を抱えながら、両親の前で胸を張って歩く従兄を見守る。
事前に並べられていた椅子の前に立った卒業生が、教師の合図に応じて着席する。緊張感が一段と強くなり、厳かな雰囲気が体育館を包む。
すでに保護者席からはすすり泣きにも似た声が聞こえ始め、見える卒業生の背中も一部小刻みに震え出していた。
卒業証書授与の一言とともに、各生徒の名前が呼ばれる。生徒数が少ないのもあり、クラスの代表者が全員分を受け取るのではなく、一人一人が壇上で校長先生から卒業の証を練習通りの所作で受け取る。
誰かおちゃらけた行動をするのではないかと他人事ながら不安になったが、普段は悪戯好きな宏和でさえも真剣な表情で卒業証書の授与を終えた。
「次は在校生からの送辞となります。児童会長、高木菜月」
「はい」
進行役の教師に名前を呼ばれ、立ち上がる。お腹に力を入れ、少しでも軽減してくれればと緊張を混ぜた吐息を体育館に舞わせる。
「なっちー、頑張って」
「僕たちがついてるよ」
茉優と真の応援に小さく頷き、自分の席から教師の前を通って壇上への道を進む。この日のために和葉が用意してくれた黒を基調としたワンピースの裾が小さく揺れる。保護者を含めた大勢の視線が集まる。反射的に身震いしそうになるのを膝に喝を与えてぐっと堪え、頼りなくなりかけた足で登壇する。
マイクの前で小さくお辞儀し、菜月は真っ直ぐに列席する卒業生を眺める。とりわけ強い視線を感じれば、その先にいたのは誰よりも少女の送辞を楽しみにしていると、前々からしつこいくらいに繰り返していた宏和だった。
「卒業式には雪が降るとよく言われますが、本日は学び舎から巣立つ先輩の皆様を祝福すべく、まさしく晴れ舞台となっております」
友人のみならず両親や教師にも相談しながら幾度も書き直した原稿。気がつけば暗記していた自分の一生懸命さに苦めの笑みを内心に張りつけた菜月は、卒業生一人一人の顔を見るようにして感情を込めた言葉を紡いでいく。
「最後に、卒業生の皆さまのご健康とさらなるご発展を心よりお祈り申し上げ、送辞とさせていただきます。在校生代表、高木菜月」
しっかりと送辞を締め、最後に丁寧に一礼。大役を終えた菜月が顔を上げると、丁度宏和の両親が笑顔で小さく拍手をしてくれている最中だった。そしてその背後、娘が卒業するわけでもないのに式を見学に来たらしい一組の夫婦を発見する。
不安と心配を喜びと安堵に変え、掴んでいる夫の服の裾を振り回しかねない女性。そしてその妻を片手であやしながら、懸命に構えたビデオカメラでこちらを撮影している男性。誰だろうと首を傾げる必要もないほど見慣れた二人組の姿に、菜月の唇が不意に吊り上がる。
自分の席へ戻ると、感動したのか瞳を潤ませる茉優に何度もよかったと褒められた。真も笑顔で頷き、ようやく大役からの解放感が菜月の全身を癒してくれる。
「色々と大変だったけれど、終わってみると良い経験になったわね」
卒業生代表の前児童会長の答辞を聞きながら、菜月は小さく呟いた。卒業式自体は恙なく進み、在校生と卒業生がそれぞれに歌を歌う。昔からの伝統ということで決められた曲を歌い終わると、式も終盤となる。その頃にはもう大半の卒業生が涙しており、入場当初は浮かれていた感じだった宏和も例外なく顔をしかめていた。
「来年は私たちの番になるのね」
しんみりとした空気は見送る側の菜月にも伝わり、ポツリとそんな言葉を漏らさせた。
「うん。あと一年でこの学校ともお別れになっちゃうね」
真が言い、茉優は寂しいと涙ぐむ。
「私もよ。だから残りの一年も、精一杯に楽しみましょう。中学校は三人とも一緒だけれど、人生で小学生でいられるのは来年の春までだけなのだから」
式が終わり、卒業生が退館する。誰もが肩を揺らし、小さな嗚咽がそこかしこから聞こえる。感化された在校生の一部も服の袖口で涙を拭っていた。
*
これから卒業生は学校主催の昼食会となり、保護者も参加する。在校生や春道たちのような卒業生とはさほど関係のない保護者は、このまま帰宅となる。
その前にすることがある菜月は教室へ戻るなり、ランドセルから小さな花を取り出す。帰りの会はすでに終わっており、真や茉優と顔を見合わせて校門へ急ぐ。
教室で友人との語らいや記念撮影を終えた卒業生が昼食会へと向かうべく、次々と昇降口から姿を現す。
目当ての人物は菜月たちを見つけると、式で泣いていたのが嘘のように笑顔で駆けてきた。
「わざわざ待っててくれたのか。いよいよ菜月も俺の魅力に気づいたか」
「それは永遠にないけれど、従兄にお花くらいはと思ってね。
……卒業、おめでとう」
茉優と真もお祝いの言葉を続ける。三人で選んで購入した小さな花はとても高価とは言えないが、嘘偽りのない感謝の気持ちが込められていた。
「宏和が騒いでくれたおかげで、なんやかんやで楽しかったわ。茉優や真も世話になったしね」
宏和がイベントだなんだと騒ぎ出さなければ、きっと小学生時代に作られる友人との想い出はもっと少なかっただろう。
「俺が楽しみたかっただけだぞ。でも、ま、受け取っておくさ。先に中学行ってるから、お前らも来年はちゃんと来いよ」
「心配しなくとも大丈夫よ。小学校で留年なんて、前代未聞をやらかす危険性を持っていたのは宏和だけだもの」
「そりゃ、そうだ!
……って待て。俺ってそんな扱いなのかよ」
学生服を着ていても宏和は宏和。小学生から中学生になっても変わらない。
「やれやれ。あ、そういや聞いたか? 今日の夜は菜月の家でパーティーするらしいぞ」
「……どうして私の家なのかしら」
「家だと狭いし、実家だと遠いからな」
「事あるごとに集まっているし、今更といえば今更な疑問だったわね」
宏和の言葉にも納得し、小さく息を吐いたあとで菜月は全員に提案する。
「それなら皆でケーキでも作りましょうか」
「賛成っ。茉優、頑張るねぇ」
「僕も手伝うよ」
「もちろん俺もだ!」
「……どうして宏和が手を上げるのよ。主賓は黙って昼食会へ行きなさい」
のけ者にするなと騒ぐ宏和を、三人で笑って見送る。その背中を小学校で見ることはもうないと思えば、ほんの少しだけ菜月は寂しさを覚えた。
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