第251話 ソフトボール部と筋肉痛

 冬の名残を示すように歩道の隅に残る雪の塊も、徐々にその姿を小さくしていく。頭上高く広がる空は澄んだ青色が鮮やかで、どことなく雲の流れも穏やかに見える。


 寒さも峠を越し、短い三学期が終われば、それよりもさらに短い春休みを経て新しい学年への旅路が始まる。


「基本的に三年生の時と同じだから、四年生になっても目新しさはないわね」


 昨年からの日課で朝は真に家に寄ってから登校する。途中の待ち合わせ場所で茉優と合流し、三人で歩道の隅に固まって歩く。


 呟きにも似た菜月の感想に、真っ先に反応したのは天然のふわふわとしたウェーブヘアが特徴的な茉優だった。


「茉優はなっちーと一緒だから嬉しいの」


 去年の時点でも同じクラスの女子より発育は良かったが、四年生になってその勢いはさらに増しているみたいである。相変わらず身長が低めの菜月からすれば羨ましい限りだ。


「それは私もよ。刺激はなくとも安心を求める……なんて言ってたら、ますます小学生らしくないと言われるわね」


 ため息をつく菜月の隣を、苦笑いを顔にくっつけた真が歩く。一年間大半のイベントを共にこなしたのもあり、正月を過ぎた冬休み中から菜月は彼らを呼び捨てにするようになっていた。いつまでもちゃん付けだと寂しいと、茉優が言ったのがきっかけだった。


「菜月ちゃんはしっかりしてるからね」


「……ねえ、真」


「何?」


 中世的な顔立ちの少年が小首を傾げる姿は、どことなく可愛らしい小型犬を連想させる。頭を撫でたくなる衝動を抑えつつ、菜月は浮かんできた質問をぶつけてみる。


「どうして真はいまだにちゃん付けなの? 呼び捨てで構わないと言ったはずよ」


 始めのうちは慣れないのだろうと実行する日を待っていたが、真だけいつまで経っても変わらないので下手をすると遠慮しているのではないかと思ったのである。


「そ、そうなんだけど、その……なんとなく菜月ちゃんって呼び方に馴染んじゃってて……だ、駄目かな?」


「駄目というわけではないけれど……まあ、真の好きに呼んでいいわ。でも遠慮だけはしないでね」


「うん。ありがとう」


 三人で校門をくぐり、立って児童の登校を見守っている担当の教師に朝の挨拶をする。初日の今日は授業がなく、始業式だけの予定になっていた。


「皆さん、おはようございます。今学期もよろしくお願いします」


 雑談して過ごす教室に、定刻通りに姿を現したのは老齢の担任である。昨年から引き続き、四年生の間もお世話になる。


   *


 校長の話が特に長い始業式が終わると、教室で学級会が行われる。目を細めた担任が教卓に両手をついて上半身を屈めた。


「まずは学級委員長を――」


「――却下します」


「……高木さん。先生はまだ何も言っていませんよ」


「目が語っていました。昔からよく言います。目は口ほどに物を言う、と」


「なるほど。では学級委員長は引き続き高木さんにお願いしたいと思います」


 話を聞いていたんですかと声を荒げる前に、四方八方から飛ぶ賛成の挙手。見れば茉優までもが笑顔で実行中だ。唯一の例外は困り顔の真くらいである。


「このクラスをまとめられるのは高木だけだろ」


「うん。菜月ちゃんなら心配いらないよね」


 信頼を得ているのは有難いことなのだが、どうにも厄介事を押しつけられているだけのような気がしてならない。


「……私が委員長になると絶対王政を敷くけどいいかしら?」


「無事に定年を迎えたいので、それは先生が却下します」


「私の却下を無視しておいて横暴です。断固、再考を要求します」


「……高木さんは本当に難しい言葉を知っていますね。小学四年生離れしています。ですが、だからこそ学級委員長を通じて年相応の愛らしさを周囲から学ぶとともに、貴方の理知的さを皆に分け与えてほしいのです。やってくれますね?」


 伊達に長年教師をしていない担任は実に老獪だった。菜月を子供扱いせず、同じ目線で説得をしてきたのである。いわゆる正攻法というべきか。


「それなら私は――」


「――副委員長として誰かを補佐につければ、仕事もやりやすくなるでしょう」


 先手を打たれて顔をしかめる菜月を後目に、空気を読んでいるのか読んでいないのか、茉優が即座に副委員長に立候補する。


「茉優がなっちーと一緒に頑張る」


「そうですか。先生は嬉しいです。では佐奈原さんと高木さんにお願いしますね」


 にっこり微笑んで戦闘終了。昨年に続いて菜月の完全敗北である。


「えへへ。なっちーと一緒だねぇ」


「ええ、一緒ね。はあ、面倒だけれど仕方ないわ。それに通信簿に好影響を与えるでしょうし、もう一年請け負うことにしましょう」


 不承不承ではあるが菜月も応じたことで、改めて担任は今年度の学級委員長について告げた。

 昨年度は菜月一人にほぼ丸投げだったが、今回は茉優が副委員長となった。とはいえ、三年生の頃から茉優や真は自発的に手伝ってくれていたので今更ではあった。もしかしたらそこらへんもわかっていた上で、役職を押しつけられたのかもしれないが。


「最後になりますが、皆さんは今年度から部活に入ることができます。強制ではありませんが、可能であれば入ってみてください。これが一覧のプリントになります」


 プリントを手に教壇から降りた担任が、縦列にある児童の席分だけ先頭の机に重ねて置く。自分のを取り、残りを後ろに回す形で全員に行き渡る。


「それでは今日はここまでです。明日からは新しい時間割になりますので、間違えないでくださいね」


 担任が教室を去ると、解放されたように児童たちが騒ぎだす。真と茉優も申し合わせたように菜月の席へやってきた。


「なっちーはやっぱりソフトボール部?」


「そうね。他にやりたいのもないし、部活に入っていれば通信簿に好影響があるもの。真はどうするの? 見た限りでは美術部はないみたいだけれど」


 困ったように真が頷く。

 絵が得意な彼とすれば、是が非でも入りたかったに違いない。


「前々からわかってたし、今回は他の部にするよ」


「それじゃ、入りたい部活は決めているのね」


「菜月ちゃんたちと同じソフトボール部に入るよ。もっとも僕の場合はマネージャーとして参加できるか聞いてからだけどね」


 想定外の決断に、思わず菜月はそれでいいのと聞き返していた。


「うん。美術部がないのであれば、ソフトボール部で頑張る菜月ちゃんや茉優ちゃんを近くで見ていたいと思ったんだ」


「志望動機は各人の自由だし、真がそれでいいのなら止めはしないわ」


「じゃあ、三人一緒だねぇ。

 えへへ。早くソフトボール部の先生のところに行こうよ」


「茉優は少し落ち着きなさい。ソフトボール部は逃げたりしないわ」


 ランドセルを背負い、廊下に出る。向かう先は職員室だ。

 プリントに書かれているソフトボール部の顧問に会って、入部を志願しなければ何も始まらないのである。


   *


 強制ではないというのも足枷になり、近年では部活に参加したがる生徒も減少しているのだという。いまだ人気が残っている野球ならともかく、ソフトボール部に至ってはその年になんとか試合できる人数が集まれば上々らしかった。


 大抵は人数が不足し、大会の際には陸上部や体操部から助っ人を呼んでなんとか試合をするみたいだった。それゆえに菜月と茉優の自主的な入部は心から喜ばれた。初心者で運動が大得意というわけではないと告げても、一切構わないと女性の先生は歓喜のハグまでしてきたほどだった。


 そんな大歓迎ぶりを受けて始まった菜月のソフトボール生活だが、初めての部活というのもあって、毎日クタクタで帰宅するはめになっていた。


「疲れた……マネージャーの真はともかく、さすがの茉優も顔に疲労の色が浮かんでいたくらいだし……」


 高校時代の葉月ほど遅くまで練習をしたりはしないが、それでも帰宅すれば午後五時を過ぎるのが大半だ。遅ければ六時というのもある。そこからお風呂に入り、夕食を食べて宿題をすれば精一杯。癒しの読書もそこそこに睡魔に屈してしまう。


 今日も今日で筋肉痛に苛まれながら、なんとか部活を終えて帰宅したばかりだ。お風呂から出れば力尽きる寸前で、少し休まなければ食事もままならない。


「部活を始めたての頃はそんなもんさ。確か葉月も似たような感じだったろ。後で電話して聞いてみるといい」


 夕食前にソファでゆっくりしていた春道に言われ、食卓に突っ伏していた顔を上げて菜月は肯定を意を示した。


   *


 眠る前の午後九時過ぎに電話をかけると、話を聞いた長女は愉快そうに笑った。


「最初の頃は特に筋肉痛が酷いんだよね。私も好美ちゃんも、ロボットみたいな動きになってたもの」


 急だったり、大きな動きだとほぼ全身が痛むというか強く張るせいだ。それは菜月も現在進行形で身を以て体験中だった。


「でもね、不思議とそのうちなくなるんだ。体が慣れるってことなのかな。だからお風呂でマッサージしたりしながら、もう少しだけ頑張ってみるといいよ」


「わかった。でもやっぱり憂鬱よね」


「あはは、そうかも。私の周りでも筋肉痛で苦労していない人は……あ、一人だけいた」


「……言わなくてもいいわ。聞かなくてもわかるから」


 誰もが通る道をすっ飛ばして駆け抜けるどころか、ジャンプしていけそうな心当たりなど菜月にも一人しかいない。今や年代別の日本代表にも選ばれる超人の佐々木実希子である。


 コミュニケーションの一つとしてゴリラと呼んではいるが、最近では本当に同じ人間だとは思えなくなりつつある。スポーツの世界でトップレベルにまで到達できる選手は、他と比べてやはり規格外なのだと実感もできた。そういう意味では、実希子という女性が身近にいたのは菜月にとって幸運だったのかもしれない。


「あ、その実希子ちゃんが遊びに来た。ちょっと変わるね」


「え? 待ってはづ姉、その必要は――」


「学校でソフトボール部に入ったなっちーが、筋肉痛が辛いんだって」


 制止の声など最初から聞こえなかったように、葉月は実希子に事情を説明していた。


「よう、なっちー。正月以来だな。筋肉痛だって? ハハハ! よく葉月たちも言ってたけど、そんなの気合で吹き飛ばせばいいんだよ!」


 最初から理知的な返答は期待していなかったが、トップアスリートが口にしたのはよもやの精神論だった。むしろ実希子らしいとはいえるが。


「……参考にならないけれど、参考にさせてもらうわ。はづ姉に代わってくれる?」


「おいおい、つれないな。チョコパフェを奢ってやった仲だろ」


「確かにそうだけど、その分お正月にお金が足りなくて、結局はづ姉に出してもらってたじゃない」


「アッハハハ! 細かいことは気にすんなって!」


 普通なら借りに感じる出来事でさえ、豪快に笑い飛ばすのが実希子である。常人と同じ対応をしようとした愚かさに菜月がため息をつこうとしていると、真剣さの戻った声で彼女が尋ねてきた。


「ソフトボールは楽しいか?」


「よくわからないわね。今は基礎練習と玉拾いが大半だし」


「へえ。誰が今の監督かは知らないけど、良さげじゃないか」


「そうなの?」


「体作りもできてない小学生に、いきなり試合をやらせるよりはよっぽど良心的だと思うぞ。まあ、しばらくはつまらないと思うけど、試合に出たら感想も変わるさ。むしろ負けたら、もっと練習しなきゃ、なんて思ってしまうほどだしな」


 受話器を耳に当てたまま、リビングで菜月は目をパチクリさせる。ここまで先輩らしい助言がされるなどとは夢にも思っていなかった。


「……それまでは頑張るわ。実希子ちゃんやはづ姉よりも上手くなりたいもの」


 菜月の力強い宣言が聞こえたのか、楽しそうにする実希子の背後から姉が負けないよと弾んだ声で応じてくれた。

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