第240話 遠足は動物園

 教室ではなくグラウンドに体操着で集合となったその日、仕方のないことながら菜月の所属するクラスの浮かれっぷりは朝から最高潮に達していた。


「楽しみだねぇ、楽しみだねぇ」


 真も含めて最近は三人で一緒に登下校するようになった茉優が、朝に顔を合わせた時から何度も繰り返してきた台詞をまたしても口にした。


 普段はおどおどした雰囲気が強い真も、不安よりも楽しみを覚える一大イベント。それこそが月の行事表で見かけた瞬間に歓声の起こる遠足である。


 目的地は県内ではわりと有名な動物園だ。頻繁に利用しているという生徒は少なく、数日前から班を組む者同士であれやこれやと話している姿が散見された。


 班は人数も性別も関係なしで各自が自由に組める。普通なら仲間外れが起きかねないと忌避される決め方だが、菜月が学級委員長を務めるクラスにおいてはそうした問題が見当たらなかったのもあり、担任が特別に認めてくれたのである。


「動物園に着いたら、自由に見て回れるんだよねぇ。菜月ちゃんはどんな動物さんが好きなのかな」


「そうね……尻尾を振って忠誠を誓ってくれる犬かしら」


 本人は冗談のつもりだったのが、クラス全員で乗っているバスの車内がシンとする。排気音だけがやけに大きく聞こえる中で、楽しそうにしているのは茉優だけであった。


「……女帝……」


「今、くだらない妄言を吐いたのは誰かしら」


 誰が呟いたのかを確かめるために立ち上がるも、全員が慌てて目を逸らす始末。以前に同じクラスの男児を完膚なきまでに言い負かし、涙目にまでさせたのがいまだに尾を引いているらしかった。


「お、落ち着いて。菜月ちゃんのおかげで、クラスは平和なんだし……」


「真君、あまりフォローになってないわ。それだと私が力で学級を支配しているみたいに聞こえるもの」


 先ほどよりも深い沈黙が車内に降り注ぐ。担任まで寝たふりをする始末だ。


「もしかしてじょていっていうのが嫌なの? だったらね、茉優が決めてあげる。菜月ちゃんは女王様だよ」


 茉優のとんでも発言に、クラスメートがほぼ一斉に吹き出す。


「それだと直接的すぎるから皆で考えたのに……」


「茉優ちゃんってときどき天然だよね」


「けどさ、高木が女王様だったら鈴木と佐奈原は……」


「うわあ。過激ィ」


 途端にバスの中が騒がしくなる。そもそもシンとしたのもわざとであり、本気で菜月を恐れているクラスメートはいないはずである。


「はあ。もう好きに呼んでくれていいけど……。

 最初に言い出したのは恐らく、貴方よね」


 ジロリと横目で睨んだのは以前に絡んできて、言葉で撃退した男子。本人は懸命にとぼけているが、周囲の反応を見れば彼が犯人なのは明らかだった。


「委員長ではなく女帝と皆が呼ぶのであれば期待に応える必要が出てくるわね。とりあえず女帝として貴方を処刑します」


「しょ!? せ、先生っ! 高木さんの目が本気です。助けてください」


「無駄よ。定年間近となれば問題を起こすのを避けたがるもの。貴方がどんなに悲鳴を上げても確実に寝たふりをしていてくれるわ」


「ひいっ! お、おい、鈴木っ。高木を止めてくれ。なんとかできるのはお前か佐奈原くらいのもんだろっ」


 急に矛先を向けられた真は、戸惑いつつもごめんと謝る。


「怖くて無理だよ」


「……女の子相手にどういう意味かしら」


「えっ!? ぼ、僕は無関係なのに……せ、先生?

 あっ、本当に寝たふりしてる」


「菜月ちゃんの言う通りだねぇ。凄いねぇ」


 などと車内はひたすら盛り上がり、およそ一時間かかる移動にも退屈せずに済んだのだった。


   *


「うわあ、お猿さんだよ。子供のお猿さんもいるよぉ」


 ピンク色のリュックを背負い、ピンクのポーチを胸から下げている茉優が金網を掴んで大はしゃぎする。中には数十匹の猿がひしめき、餌を食べたり、見物に来た人間を逆に観察するように見ていたりする。


 同行中の真も楽しげに眺めながら、立ったままで開いたスケッチブックに鉛筆を走らせる。濃い芯が白い世界に描くのは、今にも飛び跳ねそうな躍動感のある猿だ。


「相変わらず上手ね。私のスケッチとは大違いだわ」


 競っても無意味なのでスケッチなどはせず、母親の和葉から持たされたデジタルカメラで写真を一枚撮る。家に持って帰れば、撮影した写真を春道がプリンターで専用の印紙に印刷してくれる約束になっている。


「菜月ちゃんだって、練習すればすぐに上手くなるよ」


「お世辞はいいわ。自分で上手くなる素質があるかどうかはわかるもの。絵を描くこと自体は嫌いではないけれどね」


 実際に三人で遊ぶ際は公園などでスケッチをしたりもする。その際は丁寧に真が菜月たちに描き方を教えてくれた。


「あっちにいるのはワオキツネザルかしら。単純に猿とはいっても、色々いるから見ていて飽きないわ」


 ふれあいイベントは開催していないみたいだが、予想していたよりも動物の種類は多く、軽く見回るだけでも結構な時間がかかりそうだ。


「うん。僕もスケッチのしがいがあるよ。実物を見て描けるなんて感激だな」


 瞳を輝かせる真。こうした動物園などが、彼にとっては好きな場所になるのだろう。一方であまり遠出の経験がないという茉優も喜びを爆発させている最中だった。


「マントヒヒとかもいるみたいだよ。

 名前しか知らないから、見るのが楽しみだねぇ」


「そうね。去年の遠足は確か緑地公園へのハイキングだったし、県内とはいえ動物園に来られるなんて三年生はいいわね」


 言ってから二人の反応が薄いのに気づく。


「僕……去年は参加してないから……」


「茉優はねぇ……楽しかったけど、皆の後ろをついて歩いてただけだったな」


 辛そうな様子など微塵も見せない茉優が、満面の笑みを浮かべる。


「でもねぇ、今年はもっと楽しいよっ。菜月ちゃんと真君がいるもん」


「僕も本当に楽しんだ。こんな風に好きな絵も描けるしね」


 運動会での件もあり、真の絵はからかわれる対象どころかクラス外の生徒からも尊敬されるようになっていた。


「……私も楽しいわよ。個性的で愉快な友達がそばにいるもの」


「えへへ。良かった」


 じゃれ合う菜月と茉優を微笑ましげに眺めながら、新しいページに真が鉛筆を走らせる。場所が動物園でなくとも、よく見なれた日常の光景だ。


   *


 ひとしきり回って正午を過ぎると、園内の芝生にブルーシートを敷いて班事に昼食となる。県内の小学校が遠足でよく利用するので、そのためにと設けられたスペースである。


「えっへへ。おっべんとう、おっべんとう♪」


 いつになく歌声も軽やかな茉優が、リュックから自分の弁当箱を取り出す。今回も菜月が用意しようかと提案したが、いつもそれでは申し訳ないと彼女の父親がどんなに仕事で前日の帰りが遅くなろうとも自分が作ると言ったみたいだった。


 とはいえ料理はほとんどしたことがなく、菜月や和葉に教えられて少しは調理を覚えた茉優の方が手際が良かったらしい。それでも父親と一緒にお弁当を作れたのが嬉しいのだと、純真な少女はこの瞬間を誰よりも楽しみにしていた。


「……気合が入っているわね、真君のママ……」


 引き攣り気味の笑みを顔に張りつける真の膝元には、まさしく重箱が三段重ねで置かれていた。今日は正月だったろうかと本気で考えたほどで、中身も相当に凝っている。そういえば運動会の際に、菜月も少し摘ませてもらった彼の母親の料理はなかなか美味しかった。


「菜月ちゃんのお母さんの料理を食べて、憧れちゃったらしいんだ。それで急に料理の勉強をするようになってね。お父さんが家に来るたび、色とりどりな食卓に驚いてるよ。お風呂上がりの自分の体重にもね。僕と違って、お腹が苦しくても残せないんだって」


「それはまあ、なんというか……幸せ太りってやつなのかしら」


「会社の人にも言われたみたい。それで出勤の時も電車を使わないで、最近はずっと歩いてるって言ってたよ。おかげで随分と体力はついたみたい。来年のリレーは期待してろって笑ってたよ」


 真が不登校から立ち直ったのもあるのか、日が経つにつれて鈴木家も明るくなっているみたいだった。本来なら単身赴任ではなく一緒に暮らしたいみたいなのだが、せっかく友人もできたのに転校なんてさせられないと、彼の父親は単身赴任を継続して頑張るつもりらしかった。


「茉優のパパも、会社に車じゃなくて自転車で行くようになったよ。菜月ちゃんのパパみたいに恰好よくなりたいんだって」


「本人の前では決して言ってはだめよ。調子に乗るから」


 平然とした様子で茉優に釘を刺す菜月だったが、久しぶりの和葉の手作り弁当を食べながら、実際は頬が緩みそうになるのを堪えていた。父親が褒められて悪い気がしないどころか、妙に嬉しくなるのだからやはり自分は葉月の妹なのだと妙に納得もできた。


   *


 午後二時には帰りのバスに乗るので、昼食後に生徒に与えられるのは実質一時間程度だ。午前中はゆっくり見回らせてくれた担任だったが、今回はしっかり課題を出してくれた。


「一匹だけ選んで観察日記だって。どれにしよう?」


 菜月班のメンバーである茉優が小首を傾げて聞いてくる。


「他の班の人たちは、レッサーパンダやカビパラのところに行ってるみたい」


 周囲を見渡した状況を確認した真も、どうやら最終決断を班長の菜月に預けるみたいだった。


「真君の絵を使えばインパクトはあるし、あえて人気の薄い動物を狙うのもいいかもしれないわね。お客さんの興味を引くための豆知識とかも用意していそうだし」


 そうは言ってみたものの、極端に人気の少ない動物を探すのも困難そうだった。


「このまま悩んでいても時間切れになるわね。早足で歩いて、これと思った動物に決めましょう」


 そうして歩くこと少し。何気なく横を見た菜月を、つぶらな瞳が見つめていた。

 どこかで見覚えのある名前。そして姿。午前中は有名どころを他班の生徒と争うように見ていたりもしたので、今の今まで気づいていなかった。


「これって……トナカイよね……」


 菜月の呟きに、即座に茉優が反応する。


「サンタさんが乗ってる動物だねぇ。茉優、サンタさんが来る頃にはいつも寝ちゃってるから、まだ一度も見たことがないんだ」


 誰がどこからどう見ても彼女は本気だった。

 どうやら菜月だけでなく真もサンタの正体には気がついているらしく、どちらからともなく顔を見合わせてしまう。そして無言で出した結論を確かめるように頷く。


「私も見たことがないわ」


「ぼ、僕も」


 何も今でなくとも、人は成長するにつれて真実を知り、純粋さを失う。

 菜月などは本を読むことが多いので、その機会が茉優よりもほんの少しだけ早かったに過ぎない。などと事なかれ主義的な自身の行動を容認しつつ、調べる動物をトナカイに決定する。


「それにしても盲点だったわ……動物園にトナカイがいるなんて」


「じゃあ園長さんはサンタさんなのかな?」


「……その可能性も否定できないわね」


 真が描いたトナカイのそばには茉優の希望でサンタが描かれ、情報欄は何故かサンタクロースの由来で埋まった。真面目にやれと怒られかねない出来に菜月は内心ビクビクしていたのだが、提出すると何故か教職員らには小学生らしい遊びと夢があると絶賛された。


 優秀賞などと称して帰りの車内でも褒められる結果に、誰よりも喜びを露わにしたのはもちろん茉優であった。

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