第221話 葉月の高校最後の夏

 初夏と呼べる気候の中、興奮と熱気が市民グラウンドを包む。

 日曜日の今日、葉月はソフトボール部主将として夏の県大会に挑んでいた。


 大会自体は先週の土曜日にから開催されていた。翌週の今日に試合ができているのは、市立南高校が準決勝まで進出したからだ。

 その準決勝もつい先ほど終わった。葉月たちが勝ち、とうとう決勝まで駒を進めたのである。


 このためだけに岩田真奈美だけでなく、県外の大学に合格した高山美由紀もわざわざ観戦に来てくれていた。


「葉月ちゃん、ナイスピッチング。この調子で決勝も頑張りなさい」


「はい!」


 応援してくれる人たちに両手で応え、葉月たちは笑顔でベンチに戻る。お昼を挟んで午後からは決勝が始まる。勝てば南高校初めての全国大会出場となる。


   *


 午後一時――。


 春道や和葉も見守る中、後攻となった葉月がマウンドで腕を回す。

 下から投じられたボールは浮き上がるようにして、中学校から共にソフトボールを頑張ってくれている好美のミットに飛び込む。


「よっしゃ! いいぞ、葉月。球が走ってるぜ」


 三塁の守備位置から激励してくれるのは実希子だ。彼女も葉月の思いつきから始まった、ソフトボール部への所属に付き合ってくれた一人である。


「打たせてもいいわよ。私が守るから」


 三年生になり、高校からソフトボール部に所属した柚は二塁ではなく遊撃のレギュラーになっていた。それだけ守備技術が上達したのである。

 中堅からも大きな声が飛んでくる。入学当初には柚への虐めを巡ってぶつかった経験もある尚だった。今ではすっかり仲良くなり、いないと寂しい仲間だ。彼女もレギュラーとなって、このグラウンドで共に戦ってくれている。


「わかってる。皆、頼りにしてるからね」


 緊張感はあるが、中学時代のような過度なプレッシャーはない。重圧を他の仲間も受け止めてくれると知ったのが、精神的な負担が軽減したもっとも大きな理由ではないかと思う。

 高校での練習も経て、実力を格段に高めた葉月は初回を見事に抑えた。


   *


 その裏、グラウンドでカランという音が鳴った。

 スイングを終えた実希子が、金属バットを地面に置いた音だった。


 ネクストバッターズサークルから空を見上げる葉月の視界に映る白球。

 舞い上がった勢いそのままに、フェンスを越えていく。


 歓声が上がり、軽く右手を上げた実希子がドヤ顔でグラウンドを一周する。

 一番の尚がセーフティバントで塁に出て、二番の柚が送りバントと見せかけてからのヒットエンドランでチャンスを作った。さらに好美が四球を選び、南高校は頼りになる主砲を無死満塁で打席に立たせることができた。


 上位打線が作った絶好機を、主砲らしく実希子は一振りでものにした。応援に来ている南高校の関係者でさえどよめく強烈な本塁打だった。


「実希子ちゃん、相変わらず凄いね」


「おかげでなっちーにはゴリラって呼ばれるけどな。でも、ま、ありがたいよ。結局、三年間、すべての公式大会に応援に来てくれたんだからさ」


 ベンチに戻る際に、実希子は見つけた観客席の菜月に向かってサムズアップしてみせた。

 緊迫する決勝戦の舞台にもかかわらず、頼りになる友人たちがいきなり葉月に四点をプレゼントしてくれた。

 やる気がさらに漲り、今度は五番打者の葉月が打席に立った。


   *


 ゲームセットの声が、どこか遠くから聞こえた。

 空を見上げる葉月は、まるで夢の世界へいるみたいにボーっとしていた。


 現実へ戻ってこられたのは、笑顔のチームメイトが一斉に葉月に抱きついてきたあとだった。

 揉みくちゃにされながら輪の中心で振り返ったスコアボードには、七対三という数字が刻まれている。


 勝ったんだ。

 ようやく実感した葉月の両目から涙がこぼれた。


「うわああん」


「ハハハ! 泣くのは早えぞ、葉月。ぐすっ」


 背中を叩く実希子も泣いていた。中学校からソフトボールをやってきて初めて味わう県の頂点。そして全国大会への切符を手に入れた。


「全国大会でも暴れてやろうぜ。南校旋風を巻き起こしてやるんだ!」


「うん! 引退が伸びたから、また皆でソフトボールができるね」


 その事実が、葉月には何より嬉しかった。


   *


 夏休みに突入し、合宿を張った後にインターハイ本番となった。

 結構離れた県での試合となり、試合以上にどんな場所なのかを事前に皆で調べてドキドキした。


 決して浮ついた気持ちではなかったが、普段以上に気分が高揚していたのは確かだった。

 地に足がつかない感じから、ようやくしっかり踏ん張れるようになってきたのは、試合開始から結構な時間が経過してからだった。


 三回終了時で五対二。南高校が負けている。

 先攻で幸先よく実希子が二点本塁打を打ってくれたが、初回から葉月はその貯金を吐き出してしまった。

 初戦にして全国屈指の名門校と当たってしまったとはいえ、さすがに点を失いすぎだった。


 平常心を取り戻して以降は冷静な投球ができるようになってきた。あとは味方の反撃を祈るしかない。だがコントールと球威に優れた相手投手は、葉月よりも格段に上のレベルだった。

 速球やライズボール、さらには落ちる球に翻弄されて三振の数だけが増えていく。


 それでも葉月たちは諦めるわけにはいかなかった。全国大会の舞台まで応援に来てくれた人たちのためにも。

 応援席で声を枯らす関係者の中には保護者だけでなく、岩田真奈美や高山美由紀などのOG。さらには夏の甲子園予選で敗退してしまった仲町和也や柳井晋太など、野球部の面々も実費で駆けつけてくれていた。


「どらあっ!」


 雄叫びを上げる実希子がこの試合、二本目の本塁打を放って点差を詰める。

 全国的な知名度を誇る高校が相手でも、何とかなるかもしれないと思わせてくれる一発だった。


 葉月もマウンドに上がればますます腕を振り、この試合を最後にしてなるものかと全力を尽くす。


 全員が必死だった。


 三年間培ってきたものをすべて出し、懸命に強豪校へ食らいついた。


「葉月、頑張れ!」


 観客席から声援が送られる。滅多に大きな声を出さない父親の春道だった。

 試合の終盤で迎えたピンチ。二死二三塁で一打浴びると致命傷になる。


「頑張るよ、パパ」


 チラリと見た春道の姿に安堵すると同時に、その近くにいる和也を見て勇気がわいてくる。

 父親から得られる安心感とは少しだけ違う感覚に、葉月は不思議だなと思う。


 マウンドで一人小さく笑ってから、渾身の一球を放る。気迫に押されたのか、敵打者はバットに当てるも勢いのないセカンドゴロに終わった。


 ピンチを抑えればチャンスがやってくる。その言葉の正しさを証明するかのように次の回、実希子が同点となる二点本塁打を放った。強豪相手だろうが関係なしのこの試合三本目の本塁打だった。


 南高校応援席は大盛り上がりだが、その他はどよめいている。あまりにも実希子の打力が凄すぎるからだ。


「超高校級とはこのことね。下手したら全日本に召集されるくらいの逸材じゃないかしら。身近にいるからあまり新鮮さはないけどね」


 先にホームを踏んだ好美がベンチへ戻ってくるなり笑った。


「何だっていいさ、チームを勝たせることができるんならな」


 得意気に皆とのハイタッチを終えた実希子は、いつもの調子でニッと白い歯を見せた。


   *


 流れは完全に南高校へ来たかと思われた。


 だがさすがに全国屈指の強豪校。層の厚さも勝利への執念も凄まじい。

 実希子のおかげで点数の上では五分になったが、試合展開は常に南高校が押されていた。


 そしてそれは試合が後半になるほど顕著になっていた。疲労で球の勢いが弱まりつつある葉月は痛打されるようになり、ギリギリのところでなんとか失点を食い止める展開が続く。


 七回裏。

 ついに葉月は力尽きる。


 もう何球目かもわからないほど投げて握力も弱まりつつある中、投じたボールがすっぽ抜けた。あっと思った時にはもう遅く、甲高い音と共に弾き返された打球は仮柵の向こうへ落ちてしまった。


 言葉もなく、その場で崩れ落ちる。

 呆然と見つめ続ける葉月の耳には、相手チームの歓声も聞こえない。


 気がつけば左右から実希子と好美に抱きかかえられていた。

 今度はボロボロと大粒の涙がこぼれる。


「ごめん……ごめんね……」


「謝るなよ。葉月は精一杯やったさ。エースが打たれて負けるなら、仕方ねえよ。責める奴がいたら、アタシがぶっ飛ばしてやる」


 実希子は何度も葉月の頭を撫でてくれた。好美も背中をさすってくれている。


「私達の悔しさは、後輩に託しましょう。

 岩さんや美由紀先輩がそうしてきたように」


「……うん……」


 二人にお礼を言ってから、一人で歩いた葉月は皆の先頭に立って応援席の関係者に頭を下げた。

 よくやったという声がかけられるも、悔しさと無念さで最後まで葉月は涙を止められなかった。


   *


 全員で泣きに泣いた全国大会での敗北から一夜明け、葉月たちはインターハイを開催した県の繁華街で遊んでいた。

 全国大会出場のご褒美に、監督の良太が帰る前に自由時間を設けてくれたのだ。


 ひとしきり目についたお店を回ったあと、全員で全国チェーンのファミレスに入った。夏休みなので、同年代の客も多い。


「これでアタシたちも引退だな。色々と自由になるってのに、寂しいから不思議なもんだ」


 実希子の呟きに、同行している葉月たち四人は一斉に頷く。

 すでに昨夜、宿舎で主将の引継ぎは済ませてある。好美の代わりに新人戦から正捕手になるであろう後輩が新キャプテンだ。彼女は力強く、来年も全国大会に出て先輩たちの無念を晴らしたいと言った。


 その時を葉月は楽しみに待とうと思っている。もしかすると昨日少しだけ話した真奈美や美由紀も、引退する際はこんな気持ちだったのかもしれない。


「夏休みを満喫できるのは嬉しいんだけどね。あーあ、私もどっぷりとソフトボールにハマってたってことね。

 うん、楽しかった。

 入部のきっかけはあれだったけど、入ってよかったって心から思えるくらいにね」


 頼んだチョコレートパフェを美味しそうに食べる尚に、後悔しているような感じは微塵もなかった。

 けれど次の瞬間には、少しだけ声の調子を落とした。


「でも……あとちょっと、皆と次の試合のことをあれこれ考えながら練習したかったな……」


「うん……私もだよ……」


 しんみりとしたあとで、ソフトボール部に所属してからの思い出を話す。

 途中からは笑顔も混ざるようになり、最終的に楽しい感じのお喋りとなった。


   *


 地元へ帰ったあと、部室のロッカーを片付けて葉月たちは正式に引退となる。

 後輩は良太のもとで短めだが新たな合宿を行うみたいだった。夏休みが明ければ、すぐに新人戦がやってくる。彼女たちはここからが本番なのだ。


 頑張ってと励まし、荷物を持って最後にお世話になった部室へ三年生全員で深々とお辞儀をする。高校時代の青春のほぼすべてがこの場にあった。


「ありがとう、元気でね」


 無意識にそう言っていた葉月に続き、実希子が大きく手を上げる。


「じゃあな!」


 口々に引退する部員がお別れを言って、グラウンドをあとにする。

 全員で校門を出ようとする直前、早くもグラウンドからは元気のいい打球音が響いてきた。

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