第167話 葉月の中学生活

 今年から中学生になった葉月は、教室で懸命に授業を受けていた。科目も算数から数学に変わり、難解度がぐっと増した。

 実希子は最初から諦めてる感じだが、葉月の場合はそうもいかない。父親の春道はともかく、母親の和葉は成績が低下すると怒るからだ。


 とはいえ、そこまで勉強しろとうるさいわけでもない。幼少時の方が厳しかったくらいだ。方針が転換されたのは春道の影響が大きい。

 自宅で仕事をする父親は、成績よりも学校生活の快適さを優先しろというタイプの人間だった。もちろん、最低限の成績を維持できていればの話だ。


 部活や遊びも十分に楽しむために、勉強もきちんと頑張る。それに、もうじき中学生になって初めてのテストがある。中間テストというらしく、国語、数学、社会、理科、英語の五教科で行われる。

 学期末にもテストがあり、そちらは通常の五教科の他に、家庭科、技術、保健体育、美術の四教科が追加される。全部で九教科の筆記試験に通常の授業態度や小テスト、実技があればその結果も、長期休みの前に手渡される通知表の成績の判断材料となる。


 だからこそ授業内容がほとんどわからないという実希子でさえも、居眠りせずに先生の話を聞いていた。懸命に自分で問題を解こうとはするが、どうしても無理みたいだった。

 いつも部活が終われば、少しの時間だけ葉月と好美が彼女の宿題を手伝う。


 一日の授業が終われば、実希子は誰よりホっとしたような表情をする。給食の時間以来の元気を取り戻し、葉月と好美に部活へ行こうと声をかけてくる。


 入部したソフトボール部の練習にもだいぶ慣れた。当初は毎日筋肉痛で、歩くのも辛かった。それでも葉月はもとより、好美も部活を辞めたいとは言わなかった。

 入部したからには、可能な限り頑張ろうとお互いに励まし合った。そんな葉月たちを尻目に、最初からキツい練習にも順応したのが実希子だった。


 小学生時代にやっていた空手によって、基礎体力は葉月たち以上だったのだから当然だ。抜群の運動神経もあって、瞬く間に新入部員の中でも一番期待される選手になった。

 夏休み中に予定されている大会では、一年生の中でひとりだけベンチ入りできそうな勢いだった。


 ソフトボール部自体所属人数は合計で二十人程度だ。そのうちの新入生は葉月を含めて数人規模でしかなかった。地区での成績も芳しくなく、久しく全県大会にすら出場できていなかった。


「地区大会の準優勝校までが全県大会へ出場できる。

 で、そこで決勝まで行けば次の東北大会。そこでも準優勝以上で全国大会か」


 放課後になった学校の廊下を歩きながら、実希子が言った。葉月たちは揃って、ソフトボール部の部室を目指してる最中だった。

 教科書などが入っている鞄の他に、練習用のユニフォームなどが入ったバッグを持っている。強豪校ではなくとも、練習はそれなりにキツかった。もっとも実希子に言わせれば、まだまだ余裕らしい。


「地区大会の初戦を勝つのだって、楽じゃないわ。どの部活であってもね」


 葉月たちの所属するソフトボール部だけでなく、和也が入部した野球部もさほど強くはなかった。それでも地区大会では、たまに上位へ食い込んだりする。

 そうしたチームであっても、一年生が主力になるのは難しい。小学校ではエースで四番だった和也も、当然のように補欠扱いだ。


「まあ、そのとおりだよな。けど、好美は頑張ってるよな」


「……何よ、いきなり」


 実希子の言葉に、好美が怪訝そうな顔をする。会話をしながらも昇降口で靴を履き替えた。

 ソフトボール部の部室はグラウンドの隅にある。引き続きそこへ向かう。その間に、実希子は先ほどの発言の真意を改めて説明する。


「正直な話、アタシは好美がソフトボール部の練習についてこられるとは思ってなかったんだよ。多分、すぐに辞めるんだろうなって。でもさ、全然大丈夫だから、見直すっていうか、尊敬してるんだよ」


 一瞬だけ照れ臭そうな顔をしたあとで、好美はため息をついた。


「問題児二人を野放しにはできないだけよ」


 照れ隠しなのはわかっている。実希子もニヤニヤするだけだ。

 けれど、葉月にはどうしても確かめたい点があった。


「いつから私も、実希子ちゃんと同じ問題児扱いされるようになったの!?」


 重大極まりない問題だった。

 間違えたと言ってもらえるのを期待したが、当の好美は笑顔のまま頷いた。


「どーんのひと言で、とんでもない真似ばかりする女の子が、まともなわけないでしょう」


 好美の指摘にショックを受けていると、背後に回った実希子が両肩に手を置いてきた。


「これで今日から、葉月もアタシの仲間だな。野生児の世界へようこそ」


「やだよーっ。葉月、お猿さんと結婚したくない。パパがいいんだもんっ」


「……葉月ちゃん。小さい頃の口調に戻ってるわよ」


 好美に注意された葉月は、慌てて自分の口を両手で押さえた。


「おっと、危ない」


 いつまでも子供っぽいと、菜月にお姉さんと認識してもらえないかもしれない。

 そう考えて、なんとか同年代の女子と同じ口調にした。住んでいる家に和葉という良いお手本があるので、修正にはそこまで苦労しなかった。

 けれど完璧ではないのか、感情が高ぶったりすると先ほどみたいな事態になる。


「アタシは、どんな口調でも構わないと思うけどな」


「まあ、実希子ちゃんの喋り方も独特だからね」


 好美が苦笑した。

 そんなやりとりをしてるうちに部室へ到着する。

 部室は長屋みたいな造りになっていて、ソフトボール部の隣がテニス部だ。さらに陸上部などが続く。向かい合う形で存在する同じ建物は、男子が所属する部活の部室だった。


 軽くノックをしてから、そっとスライドドアを開けて中を見る。先輩方が着替え中だった場合、いきなり大きく開けると大惨事になる。室内には誰もいなかった。

 どうやら葉月たちが一番乗りのようだ。


 ありがたいことに、ソフトボール部は上下関係がまったく厳しくなかった。和気藹々とした雰囲気で練習を行う。一年生が使い走りをさせられたりもしない。

 逆に上級生が何かと面倒を見てくれた。葉月がソフトボール部に入るきっかけを作った女性――あとで名前を教えてもらった二年生の高山美由紀もそのひとりだ。


「早く着替えて、ストレッチをしてからグラウンドを整備しようぜ」


 実希子の言葉に、葉月が頷いた。入部した当初は練習するたびへとへとになっていたが、最近では帰宅途中に寄り道しようかと思えるくらいまで余裕ができつつあった。


 着替え終えてグラウンドでストレッチなどをしてるうちに、他の部員たちが続々とやってくる。全員にお疲れ様ですと挨拶をする。これからが、本格的な部活動の時間になる。


   *


 初めて迎えた中間テストの当日。

 事前に好美らと勉強をしていたおかげで、結果を知る前からかなりの好感触を得た。部活終わりに一年生が揃って、部室で勉強したりする機会もあった。おかげで一年生部員は、ひとりを除いて優秀な成績を収められた。

 先輩たちから学力で褒められなかった唯一の部員こと実希子も、なんとか要追試となる点数を回避できた。


 好美に小言を言われながらも、実希子は中間テストが終わるなり、溜まったストレスを発散させるかのように部活へ精を出した。

 本格的にソフトボールをするようになったのは中学校へ入ってからなのに、今では二年生よりも実力は上だった。さすがに春の大会ではベンチ入りすらできなかったが、夏の大会では確実に一年生で唯一戦力に数えられそうだった。


 勉強では教えられてばかりの実希子も、部活になれば立場が一変する。練習の合間に、葉月や好美にあれこれコーチしてくれた。おかげで葉月の技術も上達した。


   *


 やがて短かった春が通り過ぎ、夏がやってくる。毎日一生懸命に過ごしてるおかげなのか、月日の流れがやけに早く感じた。


 この間、テストをしたばかりじゃないか。

 うんざりしたように愚痴る実希子らとともに、今回も初めてとなる期末テストへ挑んだ。保健体育以外は平均以下の実希子と違い、葉月や好美は学年でも上位の成績だった。


 期末テストが終われば、すぐに夏休みがやってくる。

 小学生の時よりも多いくらいの宿題量に、実希子は眩暈がすると言っていた。

 好美が宿題をこなすためのスケジュールを作ってくれたが、夏休みに入る前の時点ですでに実希子は泣きそうだった。


 夏休みに入り、まずは遊んだり宿題をするより先に、夏の大会がやってくる。葉月や好美はスタンドからの応援だった。一方で実希子はレギュラーではなかったものの、ベンチ入りできた。全県大会へ出場するためにも、初戦を勝つのは絶対条件だ。


 野球と違って7イニングまでの得点で勝敗を争う。決着がつかなかった場合は、延長戦へ突入する。無死二塁から攻撃を始めるのだ。

 ユニフォームも可愛らしいのが多い。葉月たちの学校は野球部のユニフォームと大差ないデザインなのだが、相手校はハーフパンツタイプのものだった。

 もっとも葉月は野球のに近いのがよかったので、現在ので満足していた。


 試合が開始される。

 一進一退というわけではなく、最初からリードされてしまう。コールドゲームを心配しなければいけないほど、一方的な展開だった。

 それでも反撃を諦めず、葉月たちの学校は五回表の攻撃で実希子を代打でバッターボックスへ送った。


「実希子ちゃんだよっ!」


 観客席で葉月が声を張り上げた。好美が頷く。

 二人揃って、祈るようにグラウンドへ姿を現した親友の少女を見つめる。


 その直後だった。

 投じられた初球を、実希子が鮮やかにセンター前へ弾き返した。塁上で得意げな顔をする親友が、いつになく恰好よく見えた。


 結局、見せ場はその回に一点を返したところだけだった。代打で出場した実希子は、そのままセンターの守備位置についた。

 七回表にもう一度打席は回らず、試合終了になった。

 短い間だったが、仲良くしてくれた三年生のソフトボール部員の夏が終わった。


「残念だったね……」


 一緒に応援していた部員たちと後片付けをしていると、唐突に葉月の肩が叩かれた。誰だろうと思って振り返る。

 驚きと喜びが同時にこみ上げてくる。そこにいたのは、室戸柚だった。


「葉月ちゃん、久しぶり」


「柚ちゃんだー」


 葉月の声に、好美が反応する。後片付けの手を止めて、彼女も柚と久しぶりの言葉を交わす。


「葉月ちゃんたちは、ソフトボール部に入ったんだね」


 お互いの近況を報告し、最近は休日でもなかなか会えなくなっていた友人との会話を楽しむ。本当ならずっと話していたかったが、葉月と好美は球場内のロッカーへ戻らなければならなかった。

 そろそろ行くねと言うと、柚は寂しそうな顔をした。


「うん……それじゃあ、またね。バイバイ」


「うん。また一緒に遊ぼうね」


 最後に一度だけ大きく手を振って、葉月は好美らと一緒に球場内のロッカーへ移動した。

 最後の大会を終えた三年生たちと合流する。このあとは焼肉屋で残念会になる。


 そこで実希子から、初めての打席の感想も聞けるはずだ。

 そして明日以降、二年生を中心とした新チームとしての活動がスタートする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る