第166話 高木家と戸高家

 この日、戸高祐子が息子を幼稚園へ預けたついでに高木家へ遊びに来た。

 最近はあまり菜月にも手がかからなくなってきただけに、妻の和葉は快く彼女を受け入れた。食卓でお互い向かい合って座り、コーヒーを飲む。お茶請けは祐子が持ってきてくれたケーキだった。いつか話していた駅前の店で買ったらしかった。


「それにしても、葉月ちゃんがソフトボール部だなんて意外ですね」


 高木家の長女である葉月が中学校へ入学してから、すでに一週間以上が経過した。順調に友達も増えてるみたいで、毎日楽しそうに好美らと通っている。そんな愛娘が、情熱を注ぐために選んだ部活が、祐子が口にしたソフトボール部だった。


 春道や和葉も、話を聞いた時にはずいぶんと驚いた。理由を聞いたら、もっと驚いた。

 春道の影響で野球好きになった葉月は、最初に野球部へ入ろうとしたらしい。けれど女性では野球部はとても無理と、好美らに説得されて諦めた。じゃあ何にしようかと悩んでいたところに、タイミング良くソフトボールが転がってきた。

 同部に所属する女性の先輩との会話を経て、最終的に決断したのだという。


 運動が大好きな実希子はもちろん、好美までもがソフトボール部に入った。

 葉月に強引に入れられたのではないかと心配したが、この間遊びに来た当人は苦笑しながらも否定した。実希子と葉月だけでは心配なので、保護者代わりに入部してみたと言ったのを覚えている。

 多少の怪我をしても、愛娘が楽しく元気に活動できるのなら、春道は何部でも構わなかった。妻もその意見に同意してくれた。


 学校が終わればへとへとになって帰ってくる。すぐにでも眠りそうなくらい疲れ果ててるが、充実感を漂わせる。そんな娘の姿が微笑ましかった。


「私も意外でした。春道さんの野球好きが影響したみたいです」


 そう説明した和葉だが、責められてる感じはなかった。仕方ないですねと苦笑してるような感じだ。

 この場に留まり続けると、二人の標的になりかねない。そう判断した春道は、リビングでの用事を済ませて足早に退出する。


「ごゆっくり」


 二階に戻り、仕事部屋へ引きこもる。カーテンを閉じて集中力を高める。昼食は先ほど終えたばかりなので、時間を気にする必要もない。

 春道は一心不乱に両手を動かし続けた。カタカタと、キーボードを打つ音だけが室内に響く。寂しさも切なさも感じない。目の前の作業だけに集中する。


 本日のノルマ分を終えて、カーテンを開ける。数時間ぶりに日の光を浴びて、部屋自体が喜んでるみたいだった。室内にある時計で現在時刻を確認する。すでに午後五時を過ぎていた。


 この時間であれば、和葉が夕食の準備をしているはずだ。食事の手伝いはあまりできそうもないが、菜月の遊び相手なら可能だ。両手を上に伸ばして、凝り固まった身体をほぐしながら部屋を出て階段を下りる。

 リビングへ入ると、そこにはまだ祐子の姿があった。どうやら、時間を忘れて話に熱中しているみたいだ。


「泰宏さんはそうでもないけど、最近は話を聞いてくれない夫が多いですよね」


 そう切り出したのは祐子だ。


「そうみたいですね。大切な家庭や育児のことなどは、できるなら話を聞いてもらいたいものなのですが……」


 和葉がふうとため息をついた。リビングにいればなるべく話を聞くが、夜も遅くなれば春道は私室にこもる。たまに葉月が遊びに来たりするが、そこで夫婦の大事な話をする機会はあまりなかった。

 仕事をしている日中は気を遣って、気軽には声をかけられないだろう。そうした点を考えれば、春道にも無関係とは思えなかった。


「なるほど、会話か。今後は意識をするよ」


 春道が声をかけたことで、食卓に座っている二人の女性が、ようやくこちらの存在に気づいてくれた。リビングのソファの上では、菜月が膝の上に乗せたスケッチブックへ楽しそうにお絵描きをしている最中だった。


「あら、春道さん。仕事は終わったのですか?

 今日はずいぶんと……え、もうこんな時間だったのですね」


 台詞の途中で時計を見た和葉が驚きの表情を浮かべた。そのあとで、正面に座っている祐子へ声をかける。


「宏和君を迎えに行かなくてよいのですか? 幼稚園はとっくに終わってる時間でしょうに」


「心配しなくても大丈夫です。今日は、夫が迎えに行くことになっていますから」


「それならいいのですが……」


 和葉がチラリと春道を見る。祐子をそろそろ帰すべきか悩んでいるのだ。

 高木家では基本的に、葉月の帰宅を待って全員で夕食をとる。午後七時を過ぎた場合は、例外的に葉月抜きでも食べる。春道や和葉は我慢できても、菜月を空腹のままでいさせるのがかわいそうだからだ。その点は葉月も納得済みだった。


 時間を忘れるくらい会話に没頭していたのだから、もう少し祐子とお喋りをさせてあげたかった。最悪、夕食は出前でもなんとかなる。もうすぐ三歳の菜月に好き嫌いはなく、母親の手料理以外も美味しそうに食べてくれる。


「もう少し、話をしていてもいいんじゃないか? 俺は菜月と遊んでるよ」


 そう言って、春道はリビングにあるソファへ行く。側に座ると、お絵描き中の菜月が顔を上げた。


「パパー」


 クレヨンを持った右手を挙げて、菜月が歓迎してくれた。隣に座ったままスケッチブックを覗き込むと、何やら人の顔みたいなのを書いていた。


「これは誰なんだ?」


「はーたん」


「はーたん?」


 首を傾げる春道に、食卓から和葉が事情を教えてくれる。


「最近、葉月のことを、そう呼んでいるみたいです」


 最近は葉月の帰宅が部活の練習で遅い。その頃には私室へ戻ってるケースも多く、姉妹が会話をしてる様子をあまり見ていなかった。

 葉月は暇があれば春道の私室へ遊びに来たりするので、無理にリビングでの会話の時間を作る必要性は少ないとも考えていた。

 春道のそんな思考を見抜いた祐子が、こちらを見て「駄目ですよ」と注意してきた。


「娘同士がどのように呼び合ってるのかを知らないなんて、父親失格です。もっとこまめに見てあげてください」


 正論極まりない発言だったので春道は素直に謝罪し、和葉は驚愕で目を丸くした。


「あの祐子さんが、春道さんを叱責する日がくるなんて驚きです」


「私だって母親ですからね。育児の大変さと大切さは、よく知っています。それに……春道さんには、宏和のためにも立派な父親になってもらわないと困りますから」


「あら。どういう意味でしょうか」


「言葉どおりの意味ですよ。ウフフ」


 春道が場にいると、やっぱりこういった展開になるのか。ため息をついていると、タイミングよくインターホンが鳴った。

 これでとりあえずは、妻と祐子のやりとりもおとなしくなるはずだ。応対するために、春道がソファから立ち上がる。しかし、それよりも先に和葉が動いていた。立ったまま所在なさげにする春道の視界で、来訪者が誰なのかを確認する。


「兄さん? もしかして、祐子さんを迎えに来たのですか?」


 和葉がドアを開けるために、ひとりで玄関へ移動する。泰宏の妻である祐子は、食卓の椅子に座ったままだった。


「迎えに来てもらう予定ではなかったんですが……」


 そう呟いた祐子と一緒に、春道はリビングへの出入口に注目する。ほどなくしてドアが開かれ、泰宏と息子の宏和が入ってきた。


「まあ、宏和。お父さんに会いに来たのね」


 意味不明な発言をしたばかりの祐子のもとへ、宏和が駆け寄る。年齢は菜月の一つ上なので、今年で四歳になる。男児だけあって、かなりわんぱくだ。

 何度か戸高の実家へ遊びに行ってるので、元気さは春道もよく知っていた。年上のお姉さんである葉月に懐いていて、戸髙の実家では終始べったりだった。


 そんな宏和を抱き寄せると、祐子は何故か春道を指差した。


「あの人は誰?」


「お父さん」


 母親の質問に即答した泰宏に、春道と和葉が唖然とする。


「じゃあ、あの人は?」


 次に祐子が指差したのは、夫の泰宏だった。しかし、質問された宏和は、またしてもとんでもない回答を口にする。


「知らないおじさん」


 よく言えましたとばかりに、祐子が息子の頭を撫でる。人前でけなされたも同然なのに、泰宏はいつもと変わらない朗らかな笑みを浮かべている。


「……悪い病気はもう治ったとばかり思っていましたが……」


 和葉が頭を抱えた。


「悪い病気なんて最初からありませんよ。私はいつも、自分に素直なだけです」


 胸を張る祐子の姿を微笑ましく見守っていた泰宏が、春道の側へ来た。女性陣の邪魔をしないようにソファへ座る。


「いいんですか、奥さんと息子さん」


 春道が尋ねると、泰宏は「ハハハ」と笑った。


「別に構わないよ。祐子がああいった発言をするのも、春道君や和葉の前だけだからね。ああやってストレス発散をしてるんだ。実際は俺を愛してるのがわかってるしね」


 自信満々な泰宏の発言に、実妹の和葉が真っ先に反応する。


「ごちそうさまでした」


「や、やめてください。私の本当の夫は春道さんなんですっ」


「ウフフ。そんなに照れなくてもいいではないですか。祐子さんが、兄さんとラブラブなのは十分にわかりました」


 唸り声みたいなのを出して悔しがるも、和葉の指摘を否定しようとはしない。祐子が、自身の夫を心から想ってる証拠みたいなものだった。


「せっかくだから、菜月ちゃんと遊んだらどうだ、宏和」


 泰宏が息子に声をかけた。

 父親の言葉にすぐ頷くかと思いきや、当人は意外にも首を左右に振った。


「俺はそんな子供に興味はない」


 普段の言動からも生意気さはわかっていたが、よもや三歳児が二歳児を子供扱いするとは思わなかった。唖然とする中、宏和が求めたのは中学生になったばかりの葉月だった。


「葉月姉ちゃんはどこだ。俺が結婚してやる」


「あら、葉月と結婚したいのですか? 残念ながら無理ですよ」


 和葉が言った。


「貴方は春道さんの子供らしいですからね」


 春道を父親だというのであれば、葉月は実姉になる。姉弟間では結婚など不可能だ。和葉がそう説明すると、宏和は実に子供らしく、泣きそうな顔になって母親の祐子を見た。


「和葉さん。宏和を虐めないでください」


「……元はといえば、祐子さんが宏和君に変な発言をさせるからでしょう」


 何やらよくわからない状況になってきたところへ、タイミングが良いのか悪いのか、葉月が中学校から帰宅した。


「ただいまーって、あれ……伯父さんたち、来てたんだ」


 リビングに入ってきた葉月を見るなり、宏和が歓喜する。


「よし、結婚しよう」


「え? 駄目だよ。だって私は将来、パパと結婚するんだもん」


「葉月、貴女……本気ではないわよね? 父と娘は結婚できないわよ」


「そうよ、葉月ちゃん。それに春道さんはもう、私と結婚してるのよ」


 三歳児からの求婚された葉月の切り返しにより、ますますカオスな状況へ突入する。全員が好き勝手な言動をする中で、泰宏だけが楽しそうに笑う。


「賑やかなのはいいね。春道君も、そう思うだろ」


「いえ、勘弁してほしいです」


 ため息をつく春道の横では、ソファの背もたれの上にスケッチブックを乗せた菜月が、言い合いを続ける人々の似顔絵を描き始めていた。

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