第143話 赤ちゃんをあやす実希子と赤ちゃんになりたがる葉月
葉月の赤ちゃん返りの件も平穏無事に解決し、高木家は家族が増えて初めての夏へ突入した。
とはいえ、春道は普段から家で仕事をしているし、妻の和葉は専業主婦だ。ここへ夏休み中の葉月が加わるだけで、普段の生活と比べても大きな変化はなかった。
春道が自分を優先してくれると考えるようになったからなのか、葉月の我儘は目に見えて減った。菜月が誕生する前とほとんど変わらないレベルだ。
知人に聞いた話だと、普通は父親が構おうとしても、自身を母親と引き離そうとしてると判断し、赤ちゃんとまとめて嫌いになったりする場合もあるらしかった。
そうならなかったのは幸いだった。
言葉を選んで和葉に事情を説明した結果、それで葉月が落ち着くのであれば仕方ないという結論に達した。
だからといって、極端に甘えられたりはしなかった。
実際に希望した状況になるかどうかではなく、親から大事にされてるという安心感が欲しかったのかもしれない。
とにもかくにも小学校が夏休みへ入った。
和葉の負担を減らすために、時間があれば昼食は春道と葉月で作った。メインで調理するのは、昔とは比べものにならないほど料理の腕を上達させた葉月だった。
ごく稀に例のどーんが懐かしくなったりもするが、間違っても口にしてはいけない。したら最後、葉月は笑顔で得意技を披露しまくるだろう。
昼から大惨事に見舞われなくはないので、普通に料理を終えて昼ご飯を皆で食べる。和葉は赤ちゃんが泣けばすぐに席を立ち、母乳をあげたりする。
さすがに凝視するわけにもいかないので、その間は葉月と二人で何気ない日常会話を楽しむ。
夏休み前のテストも良好だったらしく、さりげなく成績を自慢される。
会話へ丁寧に応じて昼食を終え、後片付けをしてるとインターホンが鳴った。
真っ先に反応したのは葉月だった。
「きっと好美ちゃんたちだよっ」
嬉しそうに言った。
どうやら遊ぶ約束をしていたみたいだった。後片付けを引き受けた春道は、愛娘に出迎えに行ってあげなさいと告げる。
頷いた葉月が小走りで玄関へ向かうのを見届けてから、洗い物を再開する。
そのうちに赤ちゃんへ母乳を飲ませ終えた和葉が食卓へ戻ってくる。
「あら、葉月はどうしたのですか?」
「好美ちゃんたちが来たらしい。今は玄関にいるよ」
「なるほど。先ほどのインターホンは、好美ちゃんたちだったのですね」
頷いてから椅子に座り、自分の分の昼ご飯を食べる。
冷めてそうだったので、温めるかと聞いた。
「大丈夫です。すぐに食べ終わりますから。配慮してくださって、ありがとうございます」
子供たちに丁寧な言葉遣いを覚えさせたいという理由で、和葉は今も砕けた口調はあまり使わない。一時期寂しく思ったりもしたが、最近では魅力のひとつとして捉えられるようになった。
そんな妻の愛らしい笑顔を見られれば、後片付けもはかどる。
ひと通り終えそうなところで、昼食を終えた和葉の食器も追加で洗う。妻は自分で洗うと言ってくれたが、せっかくだからと春道は食器を半ば強引に受け取った。
そこまでされれば、さすがの和葉も好意に甘えるしかなくなる。
「では、申し訳ありませんがお願いします。その間に私は、洗濯物を干してきます」
庭に洗濯物を干すためのポールを設置しており、天気が良い日は日光に当てて洗濯物を乾かす。結構な田舎だからかはわからないが、有害そうなガスも外を漂ってないのはありがたかった。
和葉が洗濯物を抱えて庭へ向かうと、入れ替わりでリビングへ葉月たちがやってきた。葉月の友人の今井好美が、丁寧に頭を下げて挨拶する。
「お邪魔します」
背後には同じく葉月の友達の佐々木実希子と、室戸柚の二人もいた。
普段からよく一緒にいる仲良し四人組の面々だった。
「あれ、ママはー?」
リビング内を見回しながら、葉月が聞いてきた。
「洗濯物を干しに行ったよ。それより、今日は家で遊ぶのか?」
春道の問いかけに答えたのは、葉月ではなく友人の実希子だった。
「実は……赤ちゃんを見せてほしくて」
「そうなのか。じゃあ、きちんと手洗いをしてからな」
実希子らは揃って返事をすると、何故か葉月まで加わってキッチンで手洗いをした。すでに洗い物は終わっているので、春道は子供たちに場所を明け渡した。
代わりにソファへ座り、少しだけ休憩する。
そのうちに葉月たちの準備が終わる。洗濯物を干している和葉にひと声かけてから、子供たちを和葉の部屋へ案内する。
そこでは赤ちゃんが幸せそうに微笑んでいた。
「可愛いわね……」
菜月の顔を見るなり、柚が率直な感想を口にした。
まだ多少複雑な心境を抱いてはいるだろうが、菜月への明らかな嫉妬から解放された葉月は、お姉さんらしく自慢げに胸を張る。
「本当、実希子ちゃんとは大違いよね」
「なあ、好美。どうしてアタシと比べるんだ?」
好美のジト目を難なくやり過ごし、好美はにこやかな笑顔でベビーベッドの中にいる赤ちゃんを見つめる。
騒ぐと菜月が泣きだしてしまうかもしれないので、実希子もそれ以上は強くツッコめないみたいだった。
普通なら残念でしたで終わる話だが、今井好美という少女はすべて計算した上でやってる可能性もあるのが怖い。標的が決まったひとりだけなのが幸いだった。
「ほっぺとかも、ぷにぷにだよねー」
葉月が菜月の頬を、人差し指でツンツンとつつく。和葉の話では普段からよくやる行為みたいなので、さして問題に考えず春道は見守っていた。
しかし、与えられた刺激が嫌だったのか、突然に菜月が泣きだしてしまった。
どうすればいいのかと、葉月が慌てて春道を見る。
「パ、パパーっ」
「えっ? いや、俺に言われても……。
そ、そうだ。和葉を呼んでこよう」
慌て気味に言ってると、さも当然のように実希子が近くにあった赤ちゃんの用の玩具を手に取った。ガラガラと音が鳴るタイプのものだ。
慣れた手つきで、瞬く間に赤ん坊をあやした。見事な振る舞いに、ずいぶんと年上なはずの春道でさえも軽い尊敬の気持ちを抱く。
「オムツじゃなさそうだし、お乳でもないみたいだな。きっと人が大勢来たんで、驚いたんじゃないか」
さらりと言ってのけた実希子に、葉月が「凄い」を連発する。柚も、見直したわと褒める。
「やめてくれよ。前に家で親戚の赤ちゃんを預かったことがあってさ、その時に世話した経験があるんだよ」
「実希子ちゃんたら……謙遜しなくていいのよ」
好美の発言に、わけがわからないとばかりに実希子が「は?」と口を半開きにした。葉月も柚もポカンとする中、満面の笑みを浮かべた好美が言葉を続ける。
「精神年齢が低いのを隠す必要はないわ。もっと誇ればいいのよ。赤ちゃんには、赤ちゃんの気持ちがわかるんだよってね」
「ハハハ……さすがに言いすぎだろ……」
不穏な空気になったところで、タイミングよく部屋の主である和葉が洗濯物を干し終えて戻ってきた。
「先ほど、泣き声が聞こえたと思ったのですが……」
不思議そうにする和葉に、玩具を片手に持ったままの実希子が事情を説明した。
「そうだったのですか。
実希子ちゃん、ありがとう。助かったわ」
和葉が笑顔でお礼を言った。
それからしばらく皆で赤ちゃんを見物したあと、葉月たちは勉強するために図書館へ行くと部屋を出て行った。
*
春道も午後は仕事をしていたが、予定より早く一日分のノルマを終えられた。
急に暇ができたものの、ゲームをしようという気にはならない。
赤ちゃんの世話をと思っても、妻の邪魔となる可能性が高い。
どうしようか悩んでいると、葉月たちが図書館に出かけているのを思い出した。
閉じていたカーテンを開けて窓から外を見れば、すでに夕暮れが迫っている。迎えに行きがてら、様子を見るのも悪くはない。
春道はジーンズと袖の長いTシャツに着替えて一階へ下りる。
和葉はダイニングで夕食の準備をしていた。外出してきても大丈夫か尋ねると、笑顔でどうぞと言ってくれた。
お言葉に甘える形で外へ出た春道は、駐車場に移動する。
愛車に乗り込んでエンジンをかけると、アクセルを踏んで図書館へ出発する。
小学生でも徒歩で移動できる距離なので、車を使えば十分程度で到着する。
さほど大きくはない図書館だが、あまり混みあわないのもあって、葉月たちは勉強する時などによく利用してるみたいだった。
ドアを開けて館内へ入る。大盛況とはいえない状況なので、勉強に励んでいる愛娘一行をすぐに見つけられた。
視線を感じたのか、最初に葉月が顔を上げた。春道が来たとわかるなり、笑みを浮かべる。
春道を「パパー」と呼び、大きく手を振ったかと思ったら、葉月は自分の口を慌てて両手で押さえた。図書館では静かにするというルールを思い出したのだろう。
周囲の友人たちは、そんな葉月の様子を微笑ましそうに見ていた。
「よう。きちんと、勉強してたみたいだな」
軽く右手を上げて挨拶をしながら、春道は葉月たちが勉強している机の側まで移動した。空いている椅子があったので、そこに座らせてもらう。
「うんー。でも、そろそろ帰ろうと思ってたんだー」
「そうか。勉強はだいぶはかどったみたいだな」
予定していた分だけ宿題を終えたので、帰るという方針になった。
話を聞いた春道はそうだとばかり思っていたのだが、どうやら少し事情が違うみたいだった。そのへんのところを、好美が説明してくれる。
「勉強に飽きてしまった実希子ちゃんが、集中力を保てなくなったんです。毎年、ひとりだけ宿題を予定どおりに終わらせられないのに、先が思いやられます」
ジト目で見てくる好美に責められても、楽天的な実希子は右手を後頭部に当てて「アハハ」と笑うだけだ。
悪びれもしない態度に、さしもの好美も呆れ果てた様子でため息をつく。
普通なら周囲は慌てそうなものなのだが、柚なんかは苦笑いをしつつも机に広げていた教科書などをしまい始めている。
どうやら好美と実希子のやりとりは、仲良しグループの中でよくある日常のひとコマになってるみたいだった。
「夏休みの最終日に宿題を写させてほしいと頼まれても、私は断るからね」
冷たい口調で好美が言った。
「わかってるよ。確か前、葉月にもそういうのはよくないって言われてるからな」
「……そこまで理解してるのなら、どうして今のうちに可能な限り進めておこうという気にならないのよ」
執拗に文句を言ってはいるが、当の好美も図書館での宿題を続行するつもりはないみたいだった。
再び大きくため息をつき、実希子がばつの悪そうな顔をしたところで、葉月が会話に乱入する。
「でも、実希子ちゃんは凄いんだよ。泣いてる赤ちゃんを、すぐになんとかしたもん」
興奮気味の葉月のフォローになってないフォローだが、それでも実希子は「まあな」と胸を張った。
「葉月、実希子ちゃんを尊敬しちゃった。あんなふうにできたら、ママのお手伝いになるよね」
そう言ったあとで、むーっと何事かを考え出した。
春道を含めた周囲の面々がきょとんとする。
周りの視線を一身に浴びる中、机に教科書を広げたままで葉月が再び口を開く。
「そうだ。葉月、赤ちゃんになるっ」
「……はい?」
愛娘のいきなりの意味不明な宣言に、春道は首を傾げた。
「だって、好美ちゃんが言ってたよ。実希子ちゃんは赤ちゃんみたいなものだから、赤ちゃんの気持ちがわかるんだよーって。だから、葉月も見習うんだ」
瞳を爛々と輝かせる無邪気な少女に、周囲から「やめなさい」という総ツッコみが入る。それでも諦めようとしない葉月を全力で説得する。
そのうちに他には誰もいなくなった館内で、もう付き合ってられないとばかりに閉館の音楽が鳴りだした。
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