葉月の小学・中学校編
第142話 葉月の嫉妬
目が回るほど忙しい。
高木春道は、新しい子供が産まれたあとの生活をそのように予想していた。仕事をしているとはいえ、自宅にいる以上、可能な限り子育てを手伝うつもりだったからだ。
ところが、現実は想像とまったく違った。
赤ちゃんを産んだのは初めてでも、妻の高木和葉はすでに子育てを経験済みだった。愛娘で長女の葉月を立派に育ててきた母親でもあるだけに、かなり慣れた感じで赤ん坊に対応する。逆に春道が慌てたりするケースの方が多いくらいだった。
そのたびに、愛妻に笑われる。嫌味も悪意も含まれてないので不愉快になったりはしないが、父親としての威厳が早くも崩壊してないかが気になったりする。
そんな春道を尻目に日々は過ぎていく。
長女の葉月も妹の世話を手伝おうとするが、和葉ひとりで大丈夫みたいだった。
当初はわざわざ早く帰宅したりもしていたが、次第に次女の菜月が誕生する前までの生活に戻りつつある。
春道も普通に仕事ができているので、赤ちゃんの世話による作業の遅れなどは一度も発生していない。妻であり、母でもある和葉のおかげなのだが、ほんの少しだけ寂しいような気もする。
極めて複雑かつ身勝手な感想を抱き、今日も春道は自身の仕事部屋でPCとにらめっこをする。
赤ちゃんの世話をしながらも、和葉は食事の用意などもきちんとしてくれる。
いつ休んでいるのかと心配になって尋ねるも、葉月を育てながらひとりで仕事をしていた時に比べれば楽だなどと、事もなげに言ったりする。
母は強しではないが、春道であればとても口にできそうもない台詞だと思った。
「ふう……」
仕事が一段落したところで、椅子に座りながら上半身を伸ばす。気をつけているつもりなのだが、どうしても作業中は猫背になってしまう。こまめに休憩して姿勢を直すのも、健康を保つ秘訣みたいなものだ。いい気分転換にもなる。
もう一度大きく息を吐いたところで、一階から物音が聞こえてきたような気がした。何かあったのかと、春道は椅子から立ち上がる。
階段を下りる途中で、葉月の声がした。どうやら、元気いっぱいの長女が帰宅しているようだ。つい先ほど昼食をとったばかりだと認識していたが、いつの間にやら数時間が経過していたらしい。
時間を忘れるほど集中できるのは他者へ誇れる特技だが、度が過ぎるのも困りものだ。
夏も本格的に近づきつつあり、家の中を歩いているだけでも暑い。本来なら梅雨時期なはずなのだが、今年はじめじめした感じがあまりしない。雨の日の数は例年どおりなので、不思議な感じもする。
仕事終わりでボーっとする頭でそんなことを考えながら、一階へ下りた春道は廊下からリビングへ入る。
「葉月、帰ってたの――か?」
室内の光景を見た途端、春道が発していた台詞の語尾が疑問形に変化した。
和葉と葉月は、普段から仲が良い。周囲が羨むくらいの関係を築けてるはずなのに、現在に限っては事情が違った。
リビングのど真ん中でソファにも座らず、仁王立ちのような恰好で二人向かい合っている。平和な日常のひとコマでないのは明らかだ。
「おいおい、一体何があったんだ」
最初に言葉を返してくれたのは和葉だった。
「何でもありません。葉月が我儘を言っただけです」
和葉の口調に冷たさが感じられる。明らかに怒っている証拠だ。普段は優しいが、その代わり怒ると手がつけられなくなる。
葉月も理解しているはずなのだが、さすがにまだ子供。感情的になっては、時々このような事態を発生させる。
子供なのだから我儘は当然と思うが、内容をよく知らないので余計な発言は控える。まずはどうしてこうなったのかを聞くのが先だ。
事態を解決させるために、今度は愛娘の葉月に声をかける。
「和葉は、ああ言ってるけど、葉月はどうなんだ?」
問いかけた直後、葉月は涙を滲ませた瞳を勢いよく父親の春道へ向けた。
聞き分けがよくて、普段からニコニコしている少女とは思えない表情だった。
「だって、ママが……!
葉月は悪くないもんっ!」
叫ぶように言うと、葉月はいきなり走り出した。春道の制止も聞かず横を通り抜けると、あっという間にリビングから出て行った。
強くドアを締められる音が響く中、春道は視線をまだこの場に残っている愛妻へ戻した。
「……葉月はどうしたんだ?」
和葉が不機嫌なのは見ればわかるが、だからといってこのまま放置もできない。
問いかけた春道に対し、愛妻は手のひらに肘を乗せるように、胸の下で両手を組んだ。
「こちらが聞きたいくらいです。最近、妙に甘えるというか、我儘を言う回数が増えまして……」
言い終えたあとで、和葉はひとつため息をついた。
妻の態度だけで、葉月の我儘とやらが頻繁になっているのがわかった。
仕事が忙しくなると、食事時くらいしか接点がないせいで、今日までそのような事態に陥っているのに気がつけなかった。父親失格だなと心の中で自嘲する。
「度を超えた我儘なのか?」
春道が尋ねると、和葉は首をゆっくりと左右に振った。
「それほどではありません」
なら、いいじゃないかと言いそうになったが、春道は堪えて妻の次の言葉を待った。こういう場面では、とりあえず相手の話を聞くのがベターだと、送ってきた結婚生活の中で理解していた。
案の定、少しの沈黙のあとに、再び和葉が口を開いた。
「ですが……事あるごとに甘えてくるのです。今日もおやつを用意してあったのですが、急に食べさせてほしいと言ってきまして、それであの有様です」
甘えてきた葉月の我儘を突っぱねたところ、以前にはなかったレベルの駄々をこねだした。
和葉が叱責すると、葉月は目に涙を溜めて怒った。その際に食卓を叩き、発生した音を春道が仕事部屋で聞いた。妻から聞いた話を整理すると、
そのような流れになる。
「大人びてる面も多い子でしたからね。最初は子供らしいと好印象を抱いて、わりと応じていたのです。ところが、だんだんと要求も過剰になってきたので、拒絶したのですが……」
右手の親指と人差し指を額に当てて、和葉が顔を俯かせた。
リビングが若干の重苦しい空気に包まれる。ここで春道が逃げ出したら、妻がひとりになる。
一緒に何が原因なのか考えてみる。
浮かんできたのは、赤ちゃん返りという言葉だった。
「なあ。もしかして葉月の奴、赤ちゃん返りをしてるんじゃないのか?」
「赤ちゃん返り……ですか? さすがにそれは……あの子はもう、小学校の高学年なのですよ?」
顔を上げた和葉が、正面から春道の目を見る。
「俺だってまさかとは思うけど、他に理由が考えられるか?」
高木葉月という少女は、もっと幼い頃から周囲の状況に配慮するような大人びた一面を見せる子供だった。
春道が父親になって年相応な感じにはなってきたが、それでも母親におやつを食べさせてほしいと言う性格ではなかった。
環境の変化が原因となっているのなら、妹が誕生したこと以外に考えられない。
「和葉が赤ちゃんにミルクなりを飲ませてるのを見て、自分もしてほしくなったんじゃないか? 可能なら俺だって……」
言いかけたところで、春道はハっとする。愛妻がジト目で、こちらを見ていたからだ。
「春道さん……大事な時に、何か不謹慎な発言をしようとしませんでしたか?」
「……滅相もない。とにかく、葉月には俺から話をしてみるよ」
生後間もない赤ちゃんには慈悲深い笑顔を見せて甘えさせてあげるが、夫の春道は放置気味だ。
家事や炊事はきちんとしてくれているので、これ以上を望んだら罰が当たる。
わかっていても、多少なりとも寂しい気持ちになる。
大人の春道でもこうなのだ。まだ子供で、和葉とより長い時間を共にしてきた葉月の孤独感はそれ以上かもしれない。
*
葉月のドアをノックする。返事はない。
春道は自分の名前を告げたあとで、入るぞと言ってドアを開けた。
すんなりと開き、室内には葉月がいた。壁に背中をつけ、体育座りをするような感じで、両膝の上に顔を預けている。
落ち込んでますと強調するような体勢に、思わず苦笑しそうになる。だが、そんな姿を見られたら、余計に怒らせてしまうだけだ。
懸命に堪えた春道は、ドアを閉めてから愛娘の隣に腰を下ろした。
妻には自分が話をすると言ったものの、何を言うべきかすぐには見当たらない。
そこで春道は、無言で隣にいる愛娘の頭を撫でた。何を言うわけでもなく、いたわるように優しく何度も繰り返した。
そのうちに葉月が、ゆっくりと顔を上げた
「……パパも、葉月を怒りに来たんでしょ」
「どうして?」
葉月の頭に左手を乗せたままで、春道は言った。
「葉月が……いけない子だから……」
愛娘が尖らせた唇を、春道は悪戯するように指で上下から挟んだ。むーっと唸るような声を出した葉月が睨む。
笑いながら手を離す。他愛もない行為のおかげかはわからないが、多少は愛娘を包む雰囲気も柔らかくなった。ま
だむくれ気味だったが、どうして自分が甘えてしまうのかを小声で教えてくれる。
「頭ではね、理解してるんだよ。ママは菜月の世話で忙しいって。でも……最近、ママの背中しか見てないような気がしてね……」
言いながら、葉月が涙ぐむ。
学校で友人たちと遊んでる時は、まだ大丈夫らしい。帰宅して、妹へかかりっきりになってる和葉を見ると、嫉妬心が強くなるみたいだった。
自分もきちんと見てほしくなって、ついつい甘えた態度をとってしまう。困らせる結果になっても、自分だけを見つめてもらえる可能性を追い求めようとする。
けれど、今日に関しては拒絶された。
瞬間的に感情の抑えがきかくなり、爆発した。
自分の弱さを直視するのは辛いだろうに、葉月は現状を隠さずに春道へ教えてくれた。
「ママがね……菜月のものになっちゃったような気がして。
……ぐすっ。駄目よだね。こんなんじゃ、お姉ちゃん失格だもんね」
「そうか? 親に甘えたくなるのは、子供として当然の感情だぞ。それを恥ずかしく思う必要はないさ。赤ちゃんだからこそ、手間がかかるのは事実だけどな」
「うん……そうだよね」
頷いてはいるが、葉月に普段の元気はない。恐らく、和葉が以前みたいに葉月を第一に考え続ければ事態は解決する。
だが、赤ん坊を放置するというのは無理な話だ。
ではどうするべきか。
悩んだ末に春道は、思いついた解決案を愛娘に提示する。
「よし。じゃあ、パパが葉月のものになってやろう」
「え!?」
葉月が驚きで目を丸くする。
「ママが菜月のものになったのが悲しいんだろ?
だったら、パパが葉月のものになれば、姉妹平等で解決じゃないか」
自信満々に頷く春道を見て、泣いていたはずの愛娘がいきなり笑い出した。
「どうして笑うんだよ。我ながら名案だと思ったのにな」
罰が悪くなった春道は、ポリポリと右手の人差し指で頬を掻いた。
そんな春道を見て、葉月は「ごめんね」と言った。
「とっても嬉しかったから、つい笑っちゃった。
えへへ。パパ、ありがとう」
見慣れた愛らしい笑顔の花が葉月の顔に咲いた。
赤ちゃん返りとまではいかなくとも、やはり愛娘は寂しかったのだと改めて認識した。
「それじゃ、今から葉月と一緒に遊ぼ。パパは葉月のだから、嫌じゃないよね?」
にぱっとしっぱなしの愛娘に、春道は肩を竦めて苦笑いする。
「やれやれ。これから大変になりそうだ」
「そうだよー。でもね。パパのおかげで、これからはママにも菜月にも……優しくできると思うー」
一瞬だけ真顔に戻ったあと、再び葉月が笑う。悲しそうな雰囲気は、いつの間にやらどこかへ消え去っていた。
だがその一方で、春道は不安を抱えるはめになった。
葉月と話をした結果を、リビングで待ってるであろう妻の和葉へ、どのように伝えればいいのかと。
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