56 きびだんごの魅力には抗えない

「好きだああああああ!」


 オオカミが桃太郎に抱き付いた。

 先程彼女から上がった大声には獰猛な不満と明らかな怒気がこもっていたが、いまのオオカミから発せられる声音は子猫と紛う甘いもので、上気した彼女は桃太郎を力一杯押し倒した。

 子供が理解してはいけない単語を鼻息荒く大空に響かせながらオオカミは桃太郎へと頬擦りをし、懇々と溢れる唾液を彼の顔面に滴らせる。興奮した獣に三月兎の姿を重ねながらアリスはオオカミの時間を止めた。

 氷のように固まったオオカミ。

 すかさず獣の下から這い出してきた桃太郎は青白い顔で乱れた衣服を整えつつ「も、申し訳ないでござる」と眉を下げた。落とした刀をそのままに肩で息をする。

 アリスは頭のリボンを解く。


「鉢巻きが見つかるまで。どうぞ」

「……忝ない」


 桃太郎は縮こまりながらリボンで甘いお菓子以上に蠱惑的な桃色の瞳を隠した。

 桃の双眼が白いリボンの奥に消えるのを確認した後、アリスはオオカミの時間を動かす。

「は?」素っ頓狂な声を洩らすオオカミ。

 四つん這いのまま訳が分からないと言わんばかりに辺りを見渡し、それから恐る恐る唾液で湿った唇に触れる。


「きびだんごですわ」


 混乱するオオカミにアリスは肩紐を直しながら言った。

 困惑に揺れる流砂色の瞳がゆっくりとアリスを振り返る。


「桃太郎お兄さまの目は魔眼なのです。目があった者を虜にするのです」


 アリスは「わたし達には効きませんけれど」と大事な説明を追加した。

 桃太郎の両眼は、目があった者を有無を言わさず魅了する。

 女も男も、動物も、老いも若いも性別も関係なしに、己の感情を、想いを無視して魅了する。

 それはまるで美味しい美味しいきびだんご。

 たったひとつで命を懸けて鬼を退治する仲間になっても良いと思えるほどに美味なきびだんご。

 桃太郎の丸い眼球はきびだんごのように強制的に目があった者を虜にしてしまう。

 この力を使って、先程桃太郎は悪魔憑きの意識を奪った。

 攻撃体勢に入っていた悪魔憑きが攻撃をやめたのは、桃太郎の瞳に魅入ったから。


「嘘でも……ないな」


 実際に経験すれば納得せざるを得ない。

 オオカミは自分の意思を固めるように深呼吸を数回。静かに立ち上がり、リボンで包まれた桃太郎の目元を直視。大丈夫だと判断したのか表情を緩め――――次の瞬間には険しく眉間に皺を寄せる。

 オオカミが荒々しく、今度こそ自分の意思で桃太郎の胸倉に掴み掛かった。

 今度はアリスが訳が分からなくなって困惑した。

 まさか強制的に魅了されたのがそんなに嫌だったのかとアリスは思ったが、オオカミの口から飛び出したのは意図せぬ言葉。


「桃の兄さんは、死が救いになると思ってるのか?」


 アリスにはオオカミが何を問うているのか分からない。



 牙を剥く獣の問いに桃太郎は即答した。「だが」と嫌に静かな声が続く。


「時にはそうなっても……きっと、許されるでござろう」


 慈悲深く零される音の意味を、子供のアリスには咀嚼できない。


「正しくなくとも、逃げることであろうとも……それでも、時には許されて欲しいと某は願うでござる」


 ただ、彼から発されるそれが彼なりの誠意を込めた強い想いであるというのは、強い祈りであるというのは、なんとなく感じ取れた。

 オオカミが桃太郎の手を離す。踵を返し、大股で数歩離れてから大きく息を吸い「ありがとよ」と礼を口にした。


「嘘でもなく、許される側のオレ様にはできないことだ……」


 震えるか細い声に含まれている感情は自己嫌悪。悔しさと、悲憤。

 アリスはなにもかもに気付かないふりをして、子供らしく飽きた態度でオオカミから意識を逸らした。


「否」


 桃太郎が落とした刀を拾い上げる。


「某は聖人君子ではござらん。修行が足りぬでござる」


 嘆息を落とす桃太郎。手の中で太刀を構え直し、真上を薙いだ。空が裂ける。

 上空に放たれた剣圧。「ンニャア!」とそれを喰らった相手の甲高い悲鳴。

 落下してきた巨大な毛玉。

 呻く毛玉が体勢を整える前に、踏み込んだ桃太郎の愛刀から斬撃が放たれた。

 巨体に見合わぬ軽やかさで領主は半端な姿勢を即座に正し、凄まじい速度の刀を避ける。が、桃太郎は間合いを詰め振り抜いた勢いを殺さずに二撃目に移行。さらに速度が乗った斬撃。

 無慈悲に巨猫の首を狙って真一文字に刃が閃いた瞬間、領主が消えた。

 虚空を薙いだ刃の風圧がアリスの髪を揺らす。


「何歩下がったか分からないよ」


 普通の大きさの猫が桃太郎の足元でぼやく。

 猫らしい体格になって桃太郎の攻撃を避けた領主は、自分を仕留める気で刃を振るった桃太郎の右足に頬擦りをした。桃太郎が素早く足を引く。


「一応、言い訳を聞いてやるでござる」

「言い訳? 言い訳なんかないよ」

「なれば」

「違うよ桃太郎。勝手に五歩進んで勘違いしないでよ。桃太郎のためだよ?」


 領主は愛らしく首を傾げた。


「桃太郎の魅了の魔眼は相手に見られないと意味がないよ? 正面からだと羽根が邪魔だよ。けど、桃太郎が打ち出の小槌で小さいまま背後から接近して相手に気付かれないまま大きくなっても意味がないよ? 目を合わせたいのに気付かれなかったらこっちを向いてもらえないよ。でもでも、吾輩ちゃん思ったよ。かと言って、大きくなった時に気付かれても桃太郎に最初から注意がいっていたらあれは桃太郎にすぐ攻撃しようとしたよ? そしたら鉢巻きを取る隙がないよ? 小さい時に取って大きくなる? 十歩下がって無理だよ。桃太郎の両眼は強すぎるよ。見えないくらい小さいままでも取った瞬間に気配がもれるよ。なら、先に注意を引いておいたほうが良いよ。誰かで」


 にたりと、領主はチェシャ猫よりもべたついた笑みを浮かべた。

 上機嫌に尻尾を伸ばし、喉を鳴らす。前脚を何度か踏み締めて、領主はゆっくりと瞬きをした。

 猫のゆっくりとした瞬きは好意の表れだとアリスは知っている。


「オオカミだと身長差とか、マントがバサバサーッて桃太郎を隠しちゃうかもだよ。なら小さいし、透過するほうが最適だよ」

「もう良い」

「ジンの力が上乗せされているから、もしかしたら透過が効かない場合もあったかもだけど、桃太郎ならうまくできると信じてたよ。ほら! 実際にうまくできたよ。何歩も進めるくらい万歳だよー!」

「もう良い!」


 桃太郎が声を荒らげる。


「黙るでござる」


 冷え切った命令に領主は尻尾をゆるりと一振りしたあと「ニャア」と鳴いた。音もなく桃太郎は激昂を帯びた刃を鞘に封じ、槌で小さくすると髪に差した。そうしなければいまにも長靴を履いた猫をチェシャ猫のように首だけにしてしまいそうなのだろう。

 アリスは陣羽織を翻した桃太郎に声を掛けようとして「嘘でもなくやめておけ」

 止められた。

 オオカミの手がアリスの頭を優しく撫でる。桃太郎とは異なり力強い撫で方で髪が乱れた。それでも悪い気はしない。


「ジンを探そうぜ」


 オオカミが外套をはためかせた。


「嘘でもなく最後のでどっか吹っ飛びやがった。嘘だろあの野郎……」


 肩を落として後頭部を掻くオオカミ。

 耳のように髪を揺らしながら辺りを見渡すオオカミから顔を離しアリスは桃太郎を窺う。彼は足に絡む領主を無視してどこかへと歩き出していた。きっと鉢巻きを探しに行ったのだろう。


「…………」


 しばらくはそっとしておこうとアリスは桃太郎に背を向けた。

 肩紐を直して、オオカミと一緒にランプ探しを開始する。

 それから十分も経たず。オオカミの嗅覚のお陰で思ったよりも簡単にランプは発見された。

 真鍮製のオイルランプは水差し型をしており滑らかな曲線を描いた取っ手と細長い口がついている。色褪せ、奇妙にも常に煤に塗れたふうに汚れている。が、表面には細かな彫り込みが施されていて上等な逸品だと目利きされるだろう。


「ジン! 嘘でもなく無事か!」


 オオカミが外套でランプを擦る。

 ランプの口から薄い煙が上がり「オオカミちゃーん!」と盛大な泣き声とともに男が飛び出した。

 純金の装飾をつけた両腕を広げてオオカミへと飛び込んだ半透明の男は、オオカミの身体を霧のように通過する。豪華な純金の装飾が擦れる音。色素の薄い月光色の短髪と耳についた金のピアスが虚しく揺れる。

「ううう……!」恨めしげに振り返った彼の病的なまでに青白い顔に嵌められた左右で色の違う瞳が大粒の涙を浮かべた。

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