第5話 ガール・ミーツ・尼さん
琳は不躾にも尼さんを上から下までまじまじと見る。服装は現代のお坊さんとそんなに変わらない、着物に袈裟をつけたスタイルだ。よほど夜目が利くのか、灯りも持たずに歩いてきたらしい。
それにしても、少し若いばあちゃんって、話しやすいようなそうでもないような。顔だけじゃなくて喋り方もどこか似ている。
「何だい、変な顔して」
琳は、口を開いたり閉じたりした後、声を絞り出した。
「あ、ああ、えーっと、あなたが、知り合いにすごくそっくりで! ちょっとびっくりしちゃいましたっ」
「ふうん」
尼さん、いや、香蓮尼は興味を失ったように、琳を押しのけて歩き出す。琳は慌てて後を追った。
「あの、永屋王さんの邸跡って、そんなに怖いところなんですか」
「あんたは何であそこに行きたいんだい」
「そこなら人が近づかないから、安全だって聞いたので」
琳がそう言うと、香蓮尼はいきなり振り返って琳の顔を覗き込んだ。あ、圧が凄い。
「誰だい、そんな馬鹿なことを言う奴は。人が近づかないのは確かだが、安全なもんかね。あそこは怨霊の住処だよ」
怨霊より、香蓮尼さんの顔の方が数倍怖いです、という言葉が喉元まで出かかったけれど、思いとどまる。琳が黙っていると、香蓮尼はまた歩き出した。琳も後に続く。
「安全な場所はいくらでもとは言わんが、他にもある。特に用事がないんなら、永屋王の邸に着いたら、外で待ってな」
琳も特に異論はないので、
「はい」
と答えた。
「でも、えっと、香蓮尼さん、は、」
何だか呼び方がたどたどしくなってしまう。
「そこに用事があるってことですよね、こんな夜更けに」
香蓮尼は前を向いたまま、立ち止まることもなく言う。
「あんた、名前は」
うっ、思いっきり話逸らされた。
「坪倉琳です」
「ツボクラ? 何だ、異国人じゃないのかい」
「え、あ、はい」
琳は香蓮尼の反応の薄さを、少し残念に思った。もしかしたら、この人が坪倉家の先祖とかだったりするんだろうか、と期待していたから。彼女はもう、ここが令和時代だと信じるのを放棄しかけていた。
「妙なもん着てるから……紛らわしいねえ」
香蓮尼からすれば妙なもんらしいけれど、琳の服装はTシャツにジーンズという、ごくありふれた令和の夏スタイルだ。
「あ、これは、そう、異国の方のところで働いてた時から着てたもので……」
琳はとっさに女の勘違いに乗っかって言ってみた。
「……そこは、もう解雇されてしまって」
へえ、と香蓮尼は嬉しげな声を上げる。
「身寄りのない餓鬼なら悲田院に連れていくしかないか、と思ったけど、働ける年齢なら働いてもらおうか。ちょうど手伝いが欲しかったとこだ」
うう。働かざる者食うべからず、ってやつか。お気楽な学生の身分が恋しい。
「私は
「施薬院……?」
聞き覚えのある言葉だ。奈良の大仏を造った
「あの、施薬院って、病気の、えっと、病の治療をするところですよね?」
「そうだよ」
令和の薬学生、寧楽時代の病院で働く。
何か、ラノベのタイトルみたい。俯瞰で見ると、ちょっと面白さすら感じてしまう。自分のことなのに。
「お前はそうやって自分を俯瞰で見る癖があるね」
と、ばあちゃんが言っていたのを思い出す。
「自分のことも、他人事みたいだ。お前、人を好きになったことあるかい? 人を信じたことは?」
あーあー、耳が痛い。でも、この性格のおかげで、大体何が起きても冷静でいられるんだから悪くないし、ばあちゃんのことは好きだし、信じてる。何の問題もないでしょうよ。
っていうか、こんなことならもっと真面目に勉強すればよかった。一夜漬けばっかりでろくに覚えていない。異世界転移じゃなくて、どうもタイムスリップのようだけど、現代の知識チートで成り上がるストーリーではなさそうだ。と、がっかりした瞬間、急に右肩の重さを自覚する。
「あ、私……」
レポート用の参考文献持ったままタイムスリップしてる。
そんなご都合主義な設定でいいのだろうか。読者に怒られやしないだろうか。
「まあ、無理にとは言わないけどね――」
「働いてみたいです!」
医療チート(持ち込み可)、やってやろうじゃないの。
「へえ?」
香蓮尼は不思議そうだ。
「あんたみたいな若い女は、大抵病人に近づくのも嫌がるってのに」
「実は、前働いてたとこでも、高齢の方のお世話とかしてたので……」
まあ、自分のばあちゃんの世話しかしたことないけど。病院実習もまだ行ってないし。
「そうかい、じゃあ即戦力だね」
ご期待に添えるかはわかりかねます。
「夏は食べ物が悪くなるのが早いだろう? 腹を下して死ぬやつが増えるんだよ」
それ、絶対感染症じゃん。あ、でも感染って概念がないのか。え、これはまさか感染症と闘うストーリーのフラグなのか? 寧楽時代に抗菌薬なんかないだろうし……あ、青カビからペニシリン作ればいいの? 何か、どっかで聞いたことある話だけどさあ。
「さて、着いたよ」
香蓮尼がついに立ち止まった。さっきの門から真っ直ぐ進んだ先が、邸跡の四隅の内の一つに突き当たるようだ。
「何せ、この邸は四町もの広さがあるからね」
「はあ」
ヨンチョウが広いのか狭いのか全くわからない琳は、適当に相槌を打つ。
「ここで待ってるんだよ。すぐ戻るから」
香蓮尼はそう言うと、邸の門の方へ向かっていった。
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