文字禍
詩舞澤 沙衣
第1話文字禍
拝啓
私だけの小説家さま
私がこの活字の世界でどれほどまでの作品を作り続け、あなたが朽ちて行くのをみるのを楽しみにしております。醜い骸を晒す日まで、貴方は小説を書き続けなければならないのです。大好きな小説家様、私は貴方の骸を永久に愛し続けるでしょう。だから、安心して死ぬために小説をお書きなさい。生きるための文学など、貴方には無縁のものですから。
敬具
私は温いものが苦手だ。いや、違う。私はコーンポタージュもアップルパイも耽溺している。触った途端に「生きている」ということを知覚されるものが嫌いなのだ。現代文明の失敗作たちは、モーター音を出す。もとより動物たちは体液の流れて行く様を、手で触れただけで諒解してしまう。脳の奥でちりちりと不快だと、訴えかけられるのに、耐えられない。何か「生き物」が呼吸をしているだけで、私は周りの空気すべてをそいつに奪われたかのように、息苦しくなるのだ。
私は本を愛する。活字を愛する。本はあくまで「物体」である。いくら小説や図鑑や伝記が現実を追求したところで、本は「物体」にすぎない。私は本を介してしか世界と繋がる術を持たない。私は、ただ活字の世界で閉じていたい。私にとっては、それが平々凡々の日常である。
つまらない嘘の為に、私は時間を浪費したくはない。そう兄は私に言ったことがあった。私が今ほど「生き物」を厭わなかった時分の話である。所詮、物語なんてものは嘘っぱちだろう。なんのためになるのだ。立身出世にはやれパソコンやれ携帯端末云々。私は、兄にはこの家に住まう資格を失ってしまった、ということを知り、少し哀しくなった。路頭に迷う男の末路など、醜悪な三文小説ではないか。よって、兄の部屋は空である。
嗚呼、我が家の説明をしよう。私の家は活字を司る名家であった、と聞く。私はそんな話はどの本にも載っていなかったし、きっと嘘っぱちであろう。ただ、本を悪く言うとこの家にはいられなくなる。小説を正当な説明を以てあれこれ言うことはかまわない。ミステリはいかん、小説は無用の長物だ、実用書に実用性などない、などと言うのがいけないらしい。我が家の長々とした家訓を拾い読みして、知ったことである。私はその禁を犯したことはなく、他の血筋の者でこの禁を破った者は、兄だけだ、と記憶している。
我が家系の者は生まれてこのかた一度も外に出たことはない。小説などを鑑みれば、我が家は大邸宅であり、中庭には出ることが出来る。日の光を浴びたことのない、というのは誤りである。日の光を浴びることは養生によいと、読んだことがあったか。
私の家系の者は、「ただ、本を、活字を、読むこと」を命じられている。幼き頃に早々に平仮名片仮名漢字、少々の外国語を学ぶと膨大な書庫に案内された。一生のうちにできるだけ多くの本を読まねばならない、父は言った。この部屋の本は次々に増えて行く。お前はただ、読むことに専念していればよい。食べ物も飲み物も使いに頼めば、すぐに用意ができるだろう。寝食を厭い、本を読め。父の口調は厳しかったが、私は幸せだった。私には後にも先にも活字しかない。
私は兄が活字から逃れられるはずもないことを、知っていた。
兄は小説家を志していた。彼にはリアリズムが重要であったらしく、コンピュータはおろかワードプロセッサーもない我が家を憂いていた。私にはそんなものが小説にとってさして重要であるとは思っていなかったのだけれど、「お兄様」と慕っていた。私は彼の信条を解さなかったが、彼の能力は高く見積もっていた。彼は外の世界に出たがっていた。小説家になるために、この家を捨てる覚悟だった。彼は活字を愛するが故に、この家から逃れたのだ。
ある時。私は書庫で、とびきりぴかぴかの本を手にとった。間違いなく、兄の本であった。筆名は本名とまるで違っていたし(名前で呼ぶ者など、家にはいなかったために、碌に覚えてなどいなかったけれど)、経歴も嘘っぱち。けれど、読み始めたときに彼の本であることは、すぐに分かった。肉親であるからか、兄に親愛の情をもって交流したからか。ただ、本を読みなれたために身に付いた能力なのか。確かめる術などないのだけれど、私はわざわざ問いただすことは、兄の思いに逆行していると思った。彼は「自己の表出」のために小説を書くような人ではない。彼は一級の芸術工芸品をつくる思いで小説を書いている。
私は、その本の筆者宛に手紙を書くこととした。この文章の頭にあったものである。
私は託した手紙にただの一度も「お兄様」とは書かなかった。もう彼は私の兄ではないのだ。ただ、一人の小説家を熱狂的に信奉する者として、最初で最後のファンレターを書いた。
私は今日も本を読む。禁を破ったことを父に知られ、この世界から追放されるまで。
翌年、私が新聞の縮小版を眺めていると、「人気小説家が餓死した」との記事をみた。一瞬、骸を手に入れて、ただ頭を撫でたいと夢想した。父は私を呼び出し、世界の外へ突き落とした。
私は骸を探しに行くことにした。
ただ私を世界でたった一人愛し第1話文字禍てくれるはずの、骸を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます