melody

桃kan

第1話 きっとそれは、いつまでも


 多分……いやきっと僕は、飽きることなくその光景を見つめ続けることが出来る。


夏は暑いものだ。そんなことを口にすると、当然のことじゃないかと笑われてしまうかもしれない。でも口にしなければ気が済まない時って誰にでもあるはずだ。実際、今の僕自身のの心境がまさにそれだった。

昇り始めた陽の光があまりに強いせいだろうか。普段なら喧しいほどに鳴いているはずの蝉たちも疲れ果て、今はその声を潜めてしまっている。

そんな炎天下の中だ。言うまでもなく街を往く人の姿はどこか疲れているように見え、僕が居るこの公園にも子どもたちの遊ぶ姿を見とめることは出来ない。日陰に身を潜めている僕ですらこんなことを考えてしまうのだから、それは仕方のないことなのだろうけれど。

「それにしても、元気だよな」

 静かに言葉を吐き出す。

心からの感嘆を言葉にしようと試みたが、僕のおかれている状況では声高にそんなことを言うことは出来ない。

でも、それでも心底思ってしまうのだ。

「凄く……綺麗だ」

 それだけ口にして、その美しさを表現できる言葉を探す。

 しかしどう頭を捻っても何も出てくることはなかった。

 そう。どれだけ僕が語彙を尽くそうとも、その美しさを語り尽くすことが出来ないと実感してしまっているから。

 それと同時に、僕が少し考えて紡ぎ出した簡単な言葉でそれを語ろうなんて、あまりにおこがましいことじゃないかと心のどこかで思ってしまっているせいでもあるのだろう。

だからもう一度、僕は口にする。

「本当に、綺麗だよ」

 僕が目にしていたモノ。

それは白のワンピースを翻しながら、クルクルと踊り続ける一人の少女の姿。

 陽の光の遮る物のない公園の中心で彼女の姿はあった。

風に揺れる黒髪は陽の光を受け、眩いばかりに光を放っている。

あまり身長は高くない。寧ろ小柄な部類であろうその体躯からは想像も出来ないほどの大きな動き。軽快に奏でられるステップに、見ているこちらも身体が動き出してしまうのではないかと感じられるほどだ。

確かにそのダイナミックな動きは素人目から見ても称賛に値するものであったが、一番目を引いたのは、彼女の表情だった。

瞳を閉じ、ただ一心不乱に踊り続ける彼女からは、疲れなど全く感じることは出来ない。そればかりか日差しを諸共せず、至福に満ちた表情すら浮かべていた。

どんなに好きなことであっても、どれだけそれを楽しんでいたとしても、人であるならば飽きることも疲れることもあるだろう。投げ出したくなる時だってあるはずなのだ。

しかし彼女にとって、『踊る』という行為はそれには当てはまることはないようだ。

以前、彼女に聞いたことがある。

踊り続けることを嫌に思ったことはないのかと。

だが、彼女から返ってきたのは一言、「何でそんなことを聞くの」という言葉だけ。

踊るという行為は、彼女の中で“生きる”ということと同義であり、それに感謝するために踊り続けている。難しい言葉では飾るようには言わないが、彼女はきっとそう考えているのだろう。

そんな彼女を見ているからかもしれない。

陽の光すら平等に地面を照らすのではなく、彼女にスポットを当てるためだけに存在しているかのようにすら思えてしまう。

そんなこと、あり得るはずのないバカみたいな妄想だと笑われるかもしれないけれど。

どれほどの時間見惚れていたのだろう。気が付くと額にじっとりと浮かんでいた汗は雫となって点々と地面を濡らしていた。とにかくこの不快感を拭おうと彼女から目線を逸らした瞬間、一人の男が視界の隅に映った。

 男の姿は街中でもよく目にするものだ。彼はスーツに身を包み、いかにも仕事の最中なのだろうと見て取ることも出来る。

「見付けた……見付けたぞ!」

 刹那、男の発した蛮声が公園内に響き渡る。

 そして遠目から見ても分かるほどに嬉々として身体を揺らしながら、彼女の方にゆっくりと歩を進めていく。

僕はその声にびくりと身体を震わせる。いくら覚悟をしていたこととはいえ、いきなりの大声というモノは慣れたものではない。自分の気弱さに悪態をつきながら日向へと自らの姿を晒す。

「やっぱり、だよ」

 そう。こうなることは分かっていたのだ。

彼女の持つ“力”故に、そう言った者を引き寄せてしまうことを。

そして彼女が全く男のことなど全く気にも留めていないということも。

彼女にとって男の声など自らを制止させるものには成りえない。

言葉の通り、彼女は男の方に一瞥もくれることなく踊り続けていた。そしてそれはおそらく男の自尊心を深く傷つける行為だということは明白だった。

「おい、無視するなよ! 俺が、この俺が!」

 案の定、声を荒げる男。しかしそれでも彼女は頑として、踊ることをやめようとはしない。

 その光景を目にし、男に同情と当然だろうという気持ちがない交ぜに僕の心を染め上げていく。僕であっても、踊る彼女を簡単に止めることが出来ない。初めて声をかけるこの男が彼女に意識されることなどあろうはずがない。

「――さて。それじゃぁ行きますか」

 今いる位置からなら丁度彼女と男の間に割って入ることが出来る。そう確信しながら、小走りに公園の中心へ、その舞台へと足を進めていく。

 日陰に身を隠していた時よりも、噴き出す汗はその不快感をより増していた。こんな不快感、今から僕がやろうとしていることと比べれば大したものではない。

そう。僕は傷付けに行くのだ。

自らの大切なモノを守るために……人を傷付けに。

 ヒーローでもなんでもない、ただの一人の男として。


 炎天下の中、小走りになったせいだろうか。胸を打つ鼓動は速度を増し、それを落ち着けるための呼吸は荒くなっている。今、目の前に氷の浮かぶ水の入ったグラスを差し出されたら、思わず飛び付きたい衝動に駆られてしまう。

 それはおそらく目の前に立つ、この男も同様なのだろう。

 男の額には汗が滲み、それが頬を伝って自らの肩を濡らしている。どれだけ身なりを綺麗に取り繕っていても、そんな風になってしまっては恰好がつかないだろう。

「お前、一体何だ?」

 それはこっちのセリフだ。

僕からすれば、大声を上げながら女の子に近付く男の方がよっぽど不審者に見える。

 しかし僕がどれだけ言葉を尽くしても、この気持ちを理解してもらうことは出来ないだろう。だからとりあえず僕はこう返した。

「いや、お兄さんが何をしようとしているのかが凄く気になりまして」

「はぁ? そんなことお前に関係あるのかよ。あるわけないよなぁ」

 強い決めつけの言葉が頭上から投げかけられる。

 男の身長は、僕の頭二つ分ほど高い。僕が同年代の平均身長よりやや低いことも関係しているのだろうが、やはり押さえつけられるような言葉というモノは聞いていていい気分にはならない。

「オレはその子に用事があんだよ。サッサとどけよ」

「いや、退けないっていうか……」

「お前の意見は聞いてないんだよ。俺の言う通り、そこから退けば終わる話なんだよ。簡単だろ? なんだ、そんなことも分からねぇのか」

 全く、取りつくしまもない。無視されていること、そして僕が行く手を遮ってしまっているために、完全に頭に血が上ってしまっているのだろう。確かにムカつくだろうな。だから僕が出来る対応としては冷静に窘めることだけだろう。

 僕は咳払い一つ、男に諭すように語りかけた。

「とりあえず落ち着きましょう。良いですか? 今貴方があの女の子をどうこうしたいと思っている感情、それはいわゆる一時の気の迷いというヤツです。だからどうかとりあえず冷静に――」

 まぁ冷静になれるわけがない。落ち着いてと心の中で呟きつつ、僕はばっちり男のことを挑発してしまっている。

 言わずもがな、顔を上げるとそこには今にも噴火寸前の男の怒りの表情。

 ここまで怒らせてしまってはどうしようもない。正直僕も男の態度には憤っているが僕の感情云々なんて今は後回しだ。

今はこの人を落ち着かせよう。

そう決意しながらゆっくり口を付いて出たのは、

「――ずっと無視されているんでしょ? お兄さんがこの子をどうにかすることなんて出来ませんよ」

 それこそ一生かかっても……なんていう皮肉の言葉だった。

男の左手は僕の胸倉を掴み上げ右の拳を今にも振り下ろさんとしていた。

 怒りのためか、それともこう言った暴力沙汰に慣れていないためか、男の手はブルブルと震え、次の行動を取れないでいる。

「お前、今すぐ謝れ」

「謝る理由、ありますか?」

 更に挑発をかける。男の怒りが増していく度、胸倉を掴む力は強くなり徐々に首元が苦しくなっていく。

 そう。そもそも男は理解していないのだ。

 『自分が彼女に固執する理由』

 『普段よりも、感情の箍が外れやすい訳』

 それらを理解できなければ、いよいよ僕が男に出来ることなんてなくなってしまう。

たった一つのことを除いては。

「なぁ。オレはあの子が欲しいだけなんだよ。ってかもうオレのモノにするって決めたんだ……」

 再度、諭すように男が言葉を投げる。

 しかし彼が用意したセリフは、その総てが僕に届く事はない。

「――違う」

「ッ……え? ちょ、なんでオレ……」

「あの子は、違う」

「お、おい! お前……触っただけなのに」

怒りに震えていたはずの男の雰囲気がガラリと変わる。

言葉の通り、僕は胸倉を掴んでいた男の左手に触れた。

「なん、でだよ? 何で……」

 強気に響いていた男の声は、自身の状態を理解するごとに弱々しいものへと変わり、それに呼応するかのように、胸倉を掴む手は僕が軽く身体を揺すっただけで振りほどけるほどになっていた。

 僕の手が触れた部分。男の左手は何かに刺し貫かれたように抉れ、そこからは僕の手に付着するモノと同じ、赤々とした液体がこびり付いていた。

しかし僕の手には鋭利なナイフや、誰でも手に入れることの出来るカッターナイフの類が握られているわけではない。

 ただ、ただ僕は男の手に触れただけなのだ。

「オレの手……血、出てる……」

 そう。血だ。赤々と僕の首元に赤々と痕跡を残すモノ。

 ビシャ、ビシャリ。

 男の手から伝う液体が落ち、纏わりつくように地面を侵食していく。その音はお世辞にも心地よいものとは呼べず、思わず顔を顰めてしまう。

「何でだお前、何にも持ってなかったじゃないか? ホント、ただ触っただけ……」

「そうです、確かに“触りました”ね」

「だから……なんで!」

 ここまで言っても理解できないのだろうか。

 嘆息しながら、必死に手から溢れる血を圧し留めようとする男に近付く。

 先程まで強気であった彼の表情は見る影もなく、後ずさりしようとするが力が入らないのだろう。思ったようには身体を動かせてはいない。

「――触った。だからこの結果が生まれた。ただそれだけのことです」

 『触れる』

 そう。僕は触れたことによって男の手を穿ち貫いたのだ。

触れたという事実。

そして『穿つ』という明確な意志。

それら全てを行使し、僕はその結果を今目の前に導き出した。

きっと、男がそれらを理解することはないだろう。

それがどれだけ幸福なことなのか、きっと今この人に語って聞かせても無駄なんだろう。

「そん、な……! 何で……だよ」

三度目。三度目の何故という言葉。

さすがに男の疑問に答えることにも飽き飽きしていた。

これ以上時間をかけてしまっていては、ここから先のスケジュールにも影響してしまう。それに何より、この汗と男の血に穢されたこの服をサッサと脱ぎ捨ててしまいたい。

が、その前にとりあえず訂正したければならないことを思い出し、僕は男の肩に手をのせ言葉を発する。

「お兄さん。一つだけ、言っておかなきゃいけなかったんです」

 身体の委縮が触れた手から伝わる。

「――あの子は、真白ちゃんは誰のモノにもなりませんよ」

 言葉を紡ぐ。誰かに触れさせはしない。冒すことは絶対に許さない。

この子を誰にも譲るつもりはない。

 それらの決意。そして今から自分が為そうとすることを明確な意志を持ち、力を少し籠める。

 刹那、ジワリと生温い熱が指先、そして手の平を穢していく。

「なんだ……ってんだ。ばけ、もんじゃない……か」

 もう先までの強気な態度はどこにもない。ただ男は目の前の僕に、化け物と呟くだけ。

 あぁ。何てこの男は幸せなのだろうか。

「そうですね。でも化け物が出てくるのなんて、夢の中だけで十分じゃないですか?」

 だから僕も呟くのだ。

 彼が幸せのまま、自身の生活に戻ることが出来るように。

 ありふれた、誰にだって口にすることの出来る言葉を。

「――ゆ、め?」

「そうです。だから次に目を覚ます時は、今日の事は悪い夢だったと思えるはずです。すぐに忘れることが出来るはずですから」

「わすれ……て」

 そう言った瞬間、男は膝をつき目を閉じながら前のめりに倒れこんだ。

 二か所とはいえ、身体に穴を穿たれてしまったのだ。普通なら起こりえないこのような状況に、精神的に耐えることが出来ないのだろうということは想像に容易かった。

「全部忘れて……幸せな夢、見て下さいね」

 そっと男に呟く。深く瞼を閉じ、男の意識は完全にこの時間から切り離されてしまったのだ。決して男の耳に僕の声が聞こえてはいないだろう。

それでも自分がこの男にしてしまったことに対しての罪悪感を払拭するためには偽善と分かりながらもそう言わずにはいられなかった。

 何とも、身勝手な話ではあるけれど。

「さて……終わりましたよ。真白ちゃん」

 手に付着した男の血をポケットに収めていたハンカチで拭いつつ、僕は振り向きながらその名を呼ぶ。

ハンカチは少し拭っただけでもう使い物にならないほどに赤々と汚れ、妙に苛立ちを覚えてしまった。きっと、これも暑さのせいだ。

 声を投げた先には、先程からずっと休まず身体を動かし続けている少女の姿。男が半狂乱になりながらも手に触れようとしていた人物である。

「おーい。聞いてます? 真白ちゃーん、マーちゃん?」

 溜息をつきながら少女に近付き、先程より少し大きめの声で呼びかける。

あだ名みたいに呼びかけてみたが、反応してくれないとすごく恥ずかしいんだよな。

 とにかく声は出すが決して触れることはしない。男の痕跡が彼女に付着してしまうことがどうしても嫌だったからだ。

それにしても男の、覚悟していた僕でもビクつくほどの大声に一切反応を示さなかったのだ。優しく呼びかけたところで簡単に彼女が気付く事はないだろう。僕は徐々にではあるが発する声を大きくしながら数歩彼女に近付いていく。

「――ん? あぁカナタくん」

 そう言いながらようやく動きを止め、彼女はこちらに振り向く。

相当の運動量だったのだろう。にこやかな表情を見せながらも、肩を上下に動かしながら少し辛そうにも見えた。

「おりょ。お仕事終了ですか? 終わったならすぐ声かけてくれればよかったのにぃ」

 スカートの裾を払いながら、彼女は少し頬を膨らませる。

「いやいや。何度も、なんどーも声かけましたよ」

 彼女の言葉に、皮肉を籠めながら返答する。

こっちは一仕事終えた後なのだ。少しくらいからかうくらい、多めに見てもらえるだろう。

でもまぁ彼女の、『真白ちゃんの力』がなければ、今日男がこの公園に現れることはきっとなかったんだろうけど。

「真白ちゃん、ダンスに没頭しすぎ。もうちょっとで危なかったんだから」

「ん~まぁこれが私と言いますか……」

 パンと手を叩き、彼女はクルリと軽やかに回転する。

 些細な動きが絵になるなと思ってしまう。その動き一つ一つに見惚れてしまう。

そして彼女は息を落ち着け、ニコリと笑顔を見せてくれる。

今日一番の、目にすると誰もが眼で追ってしまう、そんな笑顔を。

「これ意外に取り柄がないって思ったり、思わなかったり?」

 そう。この娘が真白。

 榊真白(さかきましろ)。

 踊ることが大好きで、没頭してしまうと周りが見えなくなる。

 言葉尻がどうしても優柔不断で、好きなモノは絶対に譲らない。

 僕、東奏多(あずまかなた)が本当に守りたいと思う女の子。

そして、大事な相棒だ。

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