31. 幸福な空間

 「ん、ううぅ……」


 目を覚ますと、よく知った天井が眼前に広がっていた。例のごとくトラウマの夢を見ていた気もするが、不思議と寝覚めは悪くない。身体も少し楽で、意識もはっきりしている。周囲の音も聞こえるし、鼻孔をくすぐる良い匂いも感じ取れた。


 「起きたのね。体調はどう?」


 「……さ、笹川さん? えっと……それなりに良いかな」


 すぐ横から声をかけられ、その方向を向くと見知った女性がいた。何故か手を握られていて、けっこう近い距離にきれいな顔があるのでドキッとしてしまう。熱のおかげで顔が赤くなっていることは不幸中の幸いと言えた。


 「それならよかった。食欲はある?」


 「あるけど……その、どうして手を?」


 女性らしく柔らかい感触に包まれた手からは優しさが感じられ、おそらくこうやってくれていたから寝覚めが悪くなかったのだろうと、勝手に思う。だから嫌なわけではなく、むしろ嬉しかったのだが、笹川さんは自分の手に視線を移してハッとした表情になり、サッと手を放して背中の後ろに隠す。


 「あっ、ごめん。その、うなされてるの見て、つい……」


 「やっぱりそういうことか、ありがとう」


 あまり二人で話したことはないのだが、笹川さんは俺みたいなやつ優しい。ふみちゃんの同僚というだけの怪しい男の看病に付き合ってくれているのだから。


 「そ、それより、まふまふがおかゆ作ってるから、ちょっと待ってて!」


 「……逃げなくても。というかこの良い匂いはそのせいか」


 照れ臭かったのか笹川さんはキッチンの方に行ってしまい、俺は一人ベッドの上で呟いた。そこで改めて室内に広がる料理の香りを意識する。普段料理をしないことはないが、一人暮らしの部屋で誰かに調理してもらうのは新鮮なことだ。芽衣が上がりこんで勝手にいろいろ作ってくれたことはあったが、同じご飯を食べてきた家族なので作る味も似たものになった記憶がある。


 つまり何が言いたいかというと、初めての経験なのだ。


 「なんか緊張してきたな……」


 可愛い女子からの手料理を独り暮らしの部屋で食べるというシチュエーション。体調が悪いのは少々残念だが、そのおかげで成り立った状況でもあるので仕方ない。


 キッチンの方を落ち着かない様子でちらちら見ていると、俺が普段使っている深めの食器を持ったふみちゃんが現れた。俺と目が合うとホッとしたかのような表情になって小さく微笑んでくれる。普段から可愛いのに、今日は一段と輝いて見えるのは気のせいだろうか。


 (……天使が迎えに来てくれたのか)


 「おはよう、結人くん」


 「お、おはよう。朝から来てくれてありがとう」


 ぼーっとした様子で天に召されようとしている俺は、琴の音色のように美しい声で呼ばれてなんとか地上に留まる。


 「うん、私も頼ってくれて嬉しかったよ。それで、あの、おかゆ作ったんだけど、体調はどう?」


 「今はけっこう落ち着いてるし、腹も減ってるからありがたく頂こうかな。ベッドまで運んでいろいろやってくれたおかげだよ。ありがとう。笹川さんも手を―――」


 照れた様子も可愛いふみちゃんが差し出すおかゆを食べないという選択肢はない。俺の空腹感もそうだが、たとえ腹が減ってなくても絶対に食べる。食べなきゃ男じゃない!


 内心で思いのたけを叫びつつ、感謝の気持ちを言葉にする。だがその途中で口がふさがれた。水の入ったペットボトルによって。


 「の、喉渇いたよね、ほら水!」


 「ゴフッ」


 「れ、麗華ちゃんなにやってるのっ!?」


 「い、いや、なんか声が掠れてたから水分足りてないなって、思って……」


 確かに喉は渇いていた。そこに気付いてくれたのは助かる。しかしいきなり開けたばかりのペットボトルを口元に持ってこられると零しても仕方ないと思うんだ。それに、冷たい水に触れて少しすっきりした気分になったのも事実である。


 「確かに喉は渇いてたからありがとう」


 「……ゴメン。あ、そうだ! アタシはちょっと近くのドラッグストアで薬買ってくるね。四条くんはさっさとおかゆ食べといて!」


 しおらしく謝ったかと思うと、何かに気付いた様子で有難い提案をしてくれる笹川さん。俺たちの返事も聞かずに部屋を出て行ってしまった。


 「……なんか様子おかしくない?」


 「うーん、確かにそうかも。でも周りを見ていろいろ気づいてくれて、自分から行動する優しいところはいつもの麗華ちゃんだよ」


 「ふみちゃんがそう言うなら大丈夫か」


 誰よりも一緒にいた幼馴染なのだ。友人の優しさをよく知っているふみちゃんが嬉しそうなら、俺が気にすることではないのだろう。


 「えっと、あ、あの、その……」


 「?」


 下を向いて何か迷っている様子のふみちゃん。手には俺のためにつくってくれたおかゆがある。熱によって鈍くなった頭でどうしたのかと考えるものの、今の俺では答えに辿り着けなかった。


 疑問符を頭に浮かべていると、ベッドの横で椅子に座っているふみちゃんが意を決したかのように顔を上げて俺の顔を見た。視線がばっちり合い、少々気恥ずかしい。そしてその瞳の奥に燃える覚悟を綺麗だと思った。


 「フー、フー……えっと、あ、あーん」


 「えっ!?」


 そうきたかっ! フーフー冷やしてくれてるときとかすげえ可愛い。照れながらのあーんとか、破壊力高すぎる! 恥ずかしいのか顔も赤いし、俺の熱も上がりそうな勢いだ。


 これはもうおとなしく流れに従うしかない。拒否するのは男として許されない気がするし、こんな幸せは今後の人生でもう二度とないかもしれないのだ。


 「……あ、あーん」


 差し出されたスプーンを口に含み、軟らかい米を咀嚼する。やけどしない、それでいて冷たくないちょうどいい温度。味も体調を気遣った薄味で優しい。そしてそこに、この圧倒的幸福シチュエーションが加わり、おいしさが何倍にも膨れ上がっている気がした。


 「うん! すげーおいしい」


 「……よかった。ちょっと作りすぎちゃったから、鍋に入ってる残りは保存しておくから後で食べてね」


 「ホントにありがとう。すぐ直りそうな気がする」


 「うん、どんどん食べてね。あーん」


 「……うん」


 精神が保たない気もするが、ふみちゃんが嬉しそうなので俺のことはどうでもいい。ただ少し下がっていたはずの熱が上がってきたのか身体が異常に熱く、鼓動もバクバクと尋常ではないスピードでビートを奏でていたことだけが心配になる俺であった。



――――――――――――――――――――――


 「ごちそうさまでした」


 「お粗末さまでした」


 結局最後まで食べさせてもらい、鍋から器によそわれていたおかゆを完食。追加を提案されたが、そこはリバースするといけないのできちんと断る。そうしてふみちゃんが食器を片付けに行ってくれたところで、笹川さんが買い物から戻ってきた。


 「解熱剤買ってきたわ」


 「ありがとう。そういや、いろいろ払ってもらったお金は机の上の封筒から適当に抜いといて」


 食材や飲み物、そして薬と、色々と買ってきてもらっているので、お金のことはきちんとしておきたい。ちょうど机の上のお金が置いてあるので、そこから取ってもらうのがいいと思った。だが事情を知らない人からすれば、封筒に入れたお金を投げているやつになってしまう。


 「……不用心すぎない? というかけっこう入ってるっぽいけど、どんな管理してるのよ?」


 「それ、昨日のバイト代なんだ。だからたまたま置いてあるだけで、ちゃんとお金の管理はしてるって」


 「……こんなに貰えるものなの?」


 俺も多いと思った。けど雇い主が引いてくれなかったのでそのまま有難く受け取ったのである。


 「まあ予定外の仕事もしたし、色付けてもらったんだ」


 「へぇ、まふまふのとこでもバイトして、家庭教師もやってるんだっけ? バイトし過ぎ。理系は大学の研究も大変って聞くし、もっと考えてスケジュール立てないと身体もたないわよ?」


 やはり笹川さんは優しい人だ。ふみちゃんから聞いたであろう俺の情報も把握して注意してくれるのだから。


 「心配ありがとう。でも昨日のがイレギュラーなだけで、あとは上手くやってるから」


 「それならいいけど……。あ、ところで、家庭教師ってどんな子に教えてるの? 中学生? 高校生?」


 「高校二年生だけど」


 「受験は来年か……。また大変な時期の子ね。ん? あれ、そういえば何か大切なことを忘れてるような……?」


 話の流れ的に女子高生ということは隠した方がよさそうだと頭で警報が鳴っている。それだけは嘘をついてでも隠し通そうと決意していると、笹川さんは何か引っかかるものがあったのか、綺麗な顔をしかめて考え始めた。


 「どうかした?」


 「あ、思い出した! 四条くんが教えてるのって、めちゃくちゃ可愛いJKでしょ?」


 「へ……?」


 警報は無意味だった。俺は何も言ってないのにバレてるんだから、どうしようもねえじゃん。まあ、昨日の夏葉の様子とか見てればなんとなく予想はできるけどさ。


 いや、そもそも何も後ろめたいことはやっていないのだ。隠す方が怪しいまである。だからここは堂々と認めるべきではないか?


 「まあ、そうだな」


 「ふーん、認めるんだ。まあでも安心していいよ? アタシしか気づいてないし、まふまふには内緒にしといてあげるから」


 別に誰に知られようと問題はない、はずだ。でもどうしてか、ふみちゃんにはこのことを知られたくないと思っている自分もいる。何かやましい気持ちがあるわけではない。けれど、よく分からない感情が俺にそう思わせていた。


 笹川さんの含みのある言い方も気になったが、そこは今気にする点ではない。おそらくからかってきているだけだ。問題なのは、俺自身が詳しく家庭教師のことを話していないからこそ、こんな状況になっているということだ。それならば覚悟を決めて自分から話すしかない。怖いが、これもまた向き合うべきことだという確信があった。


 「このことは俺から伝えるから、そうしてくれると助かるよ」


 「……今のまふまふなら大丈夫だと思うから頑張って」


 「ありがとう」


 どうしてこんなにも優しくしてくれるのか分からない。けどきっと、笹川さんもふみちゃんのことを第一に考えて行動しているのだろう。この友達思いの知人に、俺もかなり救われている気がする。


 今は簡単に感謝を伝えることしかできないが、体調がよくなったら何かお礼をしようと心に誓った。



 まだ全快とは言えないが、二人おかげでだいぶマシになってきた。なんか部屋も華やかになった気がするし、女性らしい良い匂いに満たされている感じがする。この空間に不安を覚えることなく、リラックスできているだけでも成長しているのかなと、そんなことを思いながら、再度襲ってきた睡魔と戦う。長くはもたず再び眠ってしまうのだろうが、そのときは悪い夢を見ないような気がして、俺は口角を小さく上げるのだった。

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