29. 過去の記憶とお願い


 忘れられない過去の記憶。好きだった人に告白して普通に振られたときの……あの光景。



 夕日に照らされた教室にいたはずなのに、気づいた時には足元が崩れ去っていた。そのまま暗転した視界の先にあるのは、周囲から視線を浴びせられ何も言えなくなった自分の姿。


 いつの間にか心が闇に覆いつくされ、そのまま意識することなく己の道を絶とうとしたものの、どのような因果が働いたのか逃げることは叶わなかった。


 何故だ? 俺には何もないというのに……。


 耐えきれないからと、戦うこともせず逃げようとしたというのに……。



 言い訳を重ね、みて見ぬふりをして向き合わず、大切な人を傷つけるかもしれないというのに……。




 「はぁ、久しぶりに夢に出てきたな……。ということは、風邪ひいたってことか」


 いつも通りの時間に起床した月曜日の朝。あのときから体調が悪い時に必ず夢に見る消し去りたい過去の記憶と、夢の中で囁くもう一人の俺。時間が経っても色あせるどころかより鮮明に、くっきりと視覚化される己への戒め。


 お決まりのパターンと、いつもとは違う体感覚で俺は自身の状態を察した。だるい、重い、暑い、寒い、クラクラしてボーっとする。


 「……久しぶりに体調崩したな」


 枕元に置いていた眼鏡をかけ、近くのスマホを手に取る。体調の悪さに逆らってよくこの時間に起きられたなと、我ながら感心した。寝覚めの悪い夢ではあったが、覚醒した今となっては肉体の異常が優先されたようで、思ったよりも頭はすっきりしている。これまでは悪い精神状態を引きずって体調を悪化させたりもしたが、今回はそうならないような気がした。


 「先生に連絡しとかないとな」


 そのままスマホを操作してメッセージアプリを起動。体調不良で休む旨を簡潔に送信する。まだ起きていないと思われるが、そこは気にしない。まあただ、体調を崩したのが今日であることは不幸中の幸いだった。


 「今日バイトなくてよかった、マジで……。迷惑かけないよう今日中に治そう」


 明日は夏葉の家庭教師、明後日は星宮書店でのアルバイトがある。感覚的にはそれほど重症でもなく、咳も出ていないので誰かにうつす類のものではなさそうだ。一日寝ていれば治るだろうと、根拠もなくそう思うことにした。


 「とはいっても、身体動かすのもしんどいんだよな。誰かに助けを求めるべきか……?」


 寝るだけでもエネルギーは使うため栄養補給はしなければならない。食欲は普段より減衰しているが、食べたくないということもなく空腹感もある。問題なのは我が部屋の食糧事情であり、土日が忙しかったこともあって買い出しをしていないため食べられるものはほぼない。それどころか命を支える水分すらほぼ尽きている状態だ。


 「……とはいっても、看病に来てくれるような友達なんかいないんだが」


 悲しい事実に気が付いて涙がこぼれそうになる。身体がしんどいときって涙もろくなるよな。


 「芽衣は学校だし、両親も仕事。唯一の幼馴染は海外……。うーん、詰んでるな。もしかしたら……いやいや、迷惑はかけられないし、男の部屋に呼びつけるのはマズいだろ……」


 交友関係の狭い俺が頼れる人はいなさそうだが、ふと今の生活で関わっている人たちの顔が思い浮かんだ。ただ、それはあまり好ましくないという理性が働き、首を横に振って脳内から考えを追い出す。


 「……でも早く治さないともっと迷惑をかけることになるし」


 一人暮らしで体調を崩すと、何もできないまま孤独でいるせいか酷く不安になってしまうものだ。以前はタイミングよく妹の芽衣を頼ることができたのだが、今は残念ながら状況が違う。重たい頭で考えたところ、一人くらいしか来てくれる可能性のある人がいない。


 「……仕方ない、か。二人で来てくれれば気まずさも薄れる……はずだ」


 いつ起きるか分からない指導教員はダメだ。教え子も学校を休ませるわけにはいかない。となれば、まだ長期休暇の期間にある大学生を頼るしかないだろう。


 「研究室とかゼミみたいなものは後期に入ってからって言ってたし、今日の午前はシフトも入ってなかったはず」


 断られたら本気で泣いてしまう自信があるものの、今は天に祈ってお願いするしかない。天使のような彼女が来てくれれば、俺の体調も全快すると思う。


 『おはよう

  いきなりゴメン

  少し体調崩したんだけど、今家に何も食べる物なくて……

  もし時間があればうちに来て助けてくれませんか?』


 スマホで入力した文章を見て、送信するかどうかを悩む。


 文章固いか? 変なところないか? 失礼じゃないか? 気持ち悪くないか?


 いろいろ考えていると躊躇してしまう。冷静なつもりでも、発熱で正常とはいえない思考状態になっているかもしれないのだ。


 さっきからずっと身体が熱くなっている気がして、熱が上がっているような感覚もある。


 「……男は度胸!」


 何もしなければいずれ限界がくるのは必然であり、それならば小さくても可能性を掴みに行くべきだ。


 送信してすぐにメッセージアプリを閉じ、スマホを枕元に置く。


 「ホント、世の中のモテ男たちはすげえよな。俺なんてメッセージ一つ送るのにも一喜一憂するってのに……」


 常にサイレントモードのスマホは己で確認しない限り通知の有無を教えてはくれない。数分おきに画面のロックを解除し液晶の上部に視線を向ける様は、他人から見るとさぞ滑稽だろう。


 永遠とも思えるアホみたいな作業を繰り返しながら、何故か少しだけ楽しくなっている自分がいて、俺はわずかに頬を緩ませるのだった。



―――――――――――――――――――――――――

 

 夏休み中とはいえ、書店の営業準備がある両親や部活の朝練がある弟に合わせて規則正しい生活を送っている眞文の朝は早い。この日も一家そろって朝食を取り、店の手伝いが始まる昼頃までは趣味の読書に没頭するつもりだった。しかし、読みかけの本を手に取って集中しようとしたその瞬間に、スマホがメッセージの着信を知らせる。もし読み始めていたらしばらく気づかなかったかもしれないが、この時間帯に連絡が来ることはあまりないため気になった彼女は、本を置いてスマホに手を伸ばした。


 「っ!?」


 そしてその相手と内容を確認した眞文は、動揺したまま親友にTEL。まだ起きていないという可能性など考えもせず、無遠慮にコールを鳴らし続けた。


『……もしもし? 朝っぱらからどうしたの?』


 多少不機嫌そうな親友の声を聴いた眞文は、抑えきれない感情をとにかくぶつけることしかできない。


 「ど、どどど、どうしようっ!? 麗華ちゃんっ!」


 『……まずは落ちつきなさい。まふまふがそんなんじゃアタシには何も分かんないから。深呼吸、深呼吸』


 何事かと、麗華はこれまでほとんど見たことのない興奮状態の親友の様子に驚く。だがすぐに誰が関係するのかは分かった。恋する乙女は大変だと、彼女は至って冷静に判断する。


 いろいろと理解した上で落ち着き払っている親友の声音によって少し冷静になった眞文は、言われた通り深呼吸をしてから説明を始めた。


 「う、うん! ……スー、ハー。あ、あのね、さっき結人くんから連絡があって、うちに来てくれないかって!」


 『へぇ……それで、その前後には何って?』


 「え、えっと、体調崩したけど家に何もないから助けてほしいって」


 『まあそんなとこだと思ったよ……。でもこれはチャンスね! ちゃんと看病して女子力アピールしてきなよ』


 親友の恋路を応援する麗華からすればこれは大きなチャンスに思えた。体調を崩した人には申し訳ないが、これはアピールの絶好機である。だから彼女は、女子力も家事スキルも高レベルな眞文であれば大丈夫だとエールを送った。


 しかし、応援された側はどこか自信なさげに小さな声で何事か呟き始める。


 「あの、そ、それでね、麗華ちゃんにお願いがあるんだけど……」


 『アタシはいかないよ?』


 「な、なんでっ!?」


 どうして言う前に分かったのか、どうして一緒に来てくれないのか。二つの疑問を集約したその驚愕の声に、親友の弱気な部分が透けて見えている麗華は呆れつつもしっかり返答する。


 『はぁ、何年一緒にいると思ってるの? というか、せっかく相手の部屋で二人きりになれるのに、どうしてアタシを連れて行こうとするのかが分からない』


 「……その状況に耐えられる気がしないの」


 『いつもバイトで二人きりなのに、何をいまさら』


 「う、うちとはぜんぜん違うよ! だって、一人暮らしの部屋でふ、二人なんだよ? だから麗華ちゃん、お願いっ! 一緒に行って!」


 『……はぁ。まふまふがそこまで言うなら仕方ないか。でもアタシは特に何もしないからね』


 とはいえ、何だかんだ眞文に甘いのが麗華という幼馴染の人間性である。いつも自分の意見をあまり主張しない眞文が強くお願いしてきたため、看病に行きたいという意思は尊重したかったのだろう。一人で行けよと思ってはいても、現状では無理だと判断したのかもしれない。


 わがままを聞いてくれた親友の言葉でようやく踏み出せた眞文は、力強く感謝を述べる。


 「うん、ありがとう! 準備して麗華ちゃんの家行くね」


 一刻も早く結人の看病に向かいたいのだろう。返事も聞かずに通話を切り、スマホをベッドに放り投げる。そしてお気に入りの服を取り出し、変なところがないか確認をおこたることなく着替えを終えた。次にメイクと髪の毛のセットも、ナチュラルな感じに素早くまとめ始める。




 「これは……早く準備しないと急かされるやつね」


 いつもは自分が先に準備を終えて待つ側だが、今回ばかりは逆になりそうだと、返事の前に通話を切られたスマホへと視線を向けた麗華は苦笑いを浮かべる。しかしすぐに無邪気な表情へと移り変わった。


 「まあ、まふまふが幸せならそれでいっか。ただ、今回に関しては何かやらかしそうな気がしてならないんだよね。面白そうだからいいけど!」


 明らかにいつもとは様子の異なる親友が何をやらかしてくれるのか、それを楽しみに準備を始めた麗華。もしもの場合は手を貸すつもりだが、基本的には傍観者に徹するつもりだ。とはいえ、彼女も恋愛経験のない人間である。


 「……というか、アタシも男の子の部屋に入るのは初めてなんだけど」


 昨日のことを思い出して顔が赤くなった彼女の見つめる先には、結人が貰ってきてくれたサイン色紙があった。額縁に入れて大切に保管されたそれを複雑な心境で眺めながら、小さく呟く。


 「あれだけ活躍したんだし、サインも貰ってきてくれたんだし、看病くらいはしてあげないとね……」


 いつものように最低限身だしなみを整え、いつも通りすぐ近所から親友がやってくるのを待つ。急かされるかもしれないと眞文の勢いに圧されていた彼女の心配は、自身でも気が付かないうちに杞憂となったのだった。

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