25. フラグと指導教員
「『なんか疲れたし、明日学校だから帰るね! お先!』って、バイトは昼までだったってことでいいんだよな……?」
独り寂しく昼飯を食べていたところに届いた教え子からのメッセージを確認し、まさかすっぽかしたということはないだろうなと不安を覚えた。だが彼女はああ見えてきちんと常識のある女子高生だと考えなおし、手早く返信する。
→『分かった、気をつけてな』
「芽衣と一緒に帰るなんてことになってたり……するといいな」
二人でどのような話をしたのかは分からないが、仲良くなってくれていたら嬉しい。夏葉は学校に仲のいい友人はいないらしいし、年の近い同性の友人というのは色々と相談できることも多いはずだ。その相手が芽衣というのは少々不安ではあるが、アイツが俺の知人を無下に扱うことなどありえない。
「いつまでも過去のことを気にしなくてもいいんだけどな……」
妹の行動はいつもこの不甲斐ない兄を思ってのことだと、俺自身が一番分かっているのだ。ただ、芽衣には芽衣の人生があるのだから、俺に構わず好きなように生きて欲しいというのが兄の本音である。本人にも伝えてはいるが、それが聞き入れられたことがないのは現状を考えればわかってもらえるだろう。
「さて、仕事に戻るとするか」
午後の仕事内容は、先ほどのナンパ撃退の件もあってか見回りしつつ客の案内というなかなかアバウトなものになっていた。また、キャラクターとしてのサービスも忘れずにという難題まで課せられている。
「まあでも、そんなに可愛いデザインのパンダでもないし、近づいてくるのは子どもくらいだろ……」
若い女性ファンが多い作品のキャラクターではあるが、おっさんが入っている可能性もある着ぐるみに年頃の女性が水着姿で近づくとは思えない。よほどのファンなら写真くらい撮ることになるかもしれないが、密着してくる女性などいないだろう。もっとも、そんなことをされれば俺の方が困る。
これが俗にいうフラグであると、このときの俺は当然気づいていなかった。
「あ、あの! ……一緒に写真撮ってもらって、いいですか?」
「も、もちろんオッケーですよ!」
何故だ。どうしてこんなに若い女性から度々撮影を申し込まれるんだ?しかもかなり距離が近いし、腕とか組まれると気恥しくて仕方がない。もちろん子連れのファミリー客にも呼び止められたりはしているのだが、それよりも明らかに女性が多いのである。
「ありがとうございました! 暑いですけど体調に気を付けて頑張ってくださいね!」
「えっと、はい。頑張ります。ありがとうございます……」
そして何故か皆さんに優しくされるため、ドッキリでも仕掛けられているのかと疑わしくなってくるほどだ。
「ほんと、どうなってんだ……?」
役得というか嬉しいことではあるのだが、如何せんその理由が分からない。
「あの、すみません。一緒に写真撮ってもらえませんか?」
思考に耽りながら巡回をしていると、背後からまた若い女性に声をかけられた。ただその声には聞き覚えがあり、まさかと思いつつ振り向く。
(……やっぱりそうか。って、どうしてこんなところに先生が?)
しかも競泳用の水着をまとって。美しい均整の取れたスタイルにはよく似合っている……とか言っている場合ではないな。
「大丈夫ですよ」
ここは俺だと正体がバレないようにするべきだろう。なんかすごい嬉しそうにしているし、普段の先生とは印象が違う。酔っぱらっていたときも知っているので色々な素顔を見ている気もするが、プライベートの時間を楽しんでいる人に余計なことはしない方がいいに決まっている。
「ありがとうございます! じゃあ撮りますね。はい、チーズ!」
スマホのインカメを使って撮影する姿は年相応というか、最近の若い女性らしさが全面に現れている。講師という職業柄、厳格さを求められることも多いのだろう。だからこういった素の表情はどこか新鮮で、とても魅力的だと思った。
「……あの、スタッフさんは大学生なんですよね? まさか近くの大学だったりしますか?」
写真を撮り終わり、そこで何かに気付いたかのようにハッと不安げな表情になった我が指導教員から何やら気になる情報が聞こえてきた。ここは是が非でも情報を入手しておきたいところだ。
「えっと……大学生ですけど、大学は東京です。今は地元でアルバイトしてるんですよ。ところで、どうして自分が大学生だと?」
「そうなんですね。それならよかった……。あ、ヒーローパンダのことは SNS で知ったんです。シンくんがイケメンの大学生だったって書き込んでて、友達になったとも書いてありました。それに、ナンパから女性を救う動画とかも上がってたので、優しい人なんだと思って……」
あのバカと、無責任な観衆たちのせいか……。バカには後で文句言っとこう。というか先生、SNS とかやってるんだな。競泳水着でプールに来てるくらいだし、水泳とかやっててあの作品も知っていたってところか。アイツのことシンくん呼びだし。まあ理由が分かったので良しとしよう。
「そういうことでしたか。さっきからたくさんの女性に写真撮影を求められていたので、顔も見えない相手に対してあまりに無防備だなと思っていたんですよ」
「本当にヒーローみたいなことやっておられますし、シンくんの友達なら、警戒しなくてもいいかなって……」
そうであるなら、あれだけ女性が寄ってきたことから察するに、彼はよほど信頼されているのだろう。色々あったが、実際に中身がきちんとした大人であることは確かだ。ただ、イケメンというのは間違っている。顔を見せるつもりはないが、知らないところでハードルが上がるのは気に食わない。
「それでは仕事に戻るので失礼しますね。いろいろと教えていただきありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。お仕事頑張ってくださいね」
「はい」
大学が東京だという明らかな嘘をついてしまったものの、どうにか正体を隠しきることができた。知らないことが幸せなこともあるので、此方だけ知っていることには目を瞑ってもらおう。
「きゃっ!」
内心で謝りつつ歩みを進めようとしたところで、先生が歩いて行った背後から小さな悲鳴と、人がこけたときの独特な音が聞こえてきた。
咄嗟に振り返ると、そこには水で足を滑らせた指導教員の姿が。
「あの、大丈夫ですか?」
ケガをした可能性もあるので放っておくわけにはいかず、再度声をかける。
「……えっと、その、すみません。でもちょっと膝を擦りむいただけなので……」
「すぐに医務室に行きましょう。歩けますか?」
それなりに派手に転んだのか、膝からは出血が見られる。放置して傷になるのも避けたいし、プールの水に含まれる消毒の成分が染みて痛いかもしれないため、とにかく治療するべきだと判断した。とりあえず着ぐるみ内の余分っぽい布を適当にちぎり、出血した膝に巻き付けておく。
「えっと、少し足首をひねったみたいで、痛みで歩けないかもしれません……」
立ち上がった先生は痛みに耐えるような辛そうな表情でそう答えた。となると、選べる手段は限られてくる。誰かスタッフを呼んで担架を持ってきてもらうか、俺が一人で運ぶか。
「あの、大変聞きづらいのですが、おんぶと抱っこならどちらがいいですか?」
「ふぇ?」
周囲にスタッフの姿が確認できないこと、そして医務室がそれほど遠くないことから俺は後者を選択した。だが聞き方がよろしくなかったのか、指導教員は恥ずかしそうに答えを考えている。
「……だっこで、おねがいします」
おんぶは水着だと体勢的にきわどかったりするので、まあそうなるだろうと思っていた。だがこれはこれで気を付けなければならない点が多い。
「それでは、失礼します」
ついこの間おんぶで運んだ人を、今度はお姫様抱っこで運ぶという展開は幸運なのか不運なのか。とはいえ、最優先はけが人の治療だと雑念を払う。
「あの、重くないですか?」
「軽すぎるくらいなので大丈夫ですよ。この間も思いましたけど、もっと食べた方がよろしいかと……あっ」
会話をしていると普段の感じに落ち着いてきたせいで、可愛らしい女性らしさあふれる質問に対して答えようとして、余計なことが口をついてしまった。
「え? ……このあいだも? ……なっ!? ま、まさか四条くんなの!?」
「……」
つい最近の出来事なので当然ながら先生もすぐに感づいたようである。大学の件で嘘をついていたためか驚きが大きく、表情も羞恥で紅に染まった。その様子もまたギャップがあっていいなと思いつつ、俺はただ黙っていることを選択する。
「無言は肯定ってことでいいかな? 言われてみれば声とか口調とか聞き覚えある気もするし……」
しかしまあ、当たり前だが誤魔化せるわけがない。
「すみませんでした。プライベートな時間を邪魔するのはどうかと思ったので」
「素直でよろしい。でも、隠すならもっと上手くやること!」
「……はい」
腕に抱えた女性から説教を受けながらも、医務室には数分で到着した。だがそこに医療スタッフの姿が見当たらない。白いベッドに先生を下ろし、あまり広くない室内を探したものの人の気配はなかった。
「あれ、誰もいませんね」
「お昼休みかな?」
「……どうでしょうね。とりあえず応急処置くらいならできるので、傷みせてもらえますか?」
「……いや」
「えっと、自分はどうすれば……?」
まあ水着姿で、男に間近で肌を触れられるというのは確かに嫌だろう。だが上手く歩けない女性を一人で医務室に残すことはできない。先ほどから度々ナンパ野郎たちとも出くわしているし、どんな輩がいるか分からないのだ。贔屓かもしれないが、見知った女性ならなおさら放っておけない。
俺の考えが伝わっているはずもない先生は大丈夫だと笑い、仕事に戻るよう言ってくる。
「自分でやるから四条くんは仕事に戻って。一応医者の娘だし、これくらい自分でも処置できるから」
ここで初耳の情報があったが、いつぞやの会話から可能性の一つとしては考えていたことでもあったためそれほど驚かずに済んだ。
「以前実家が裕福というのは伺ってましたが、そういうことだったんですね」
「この辺りではそれなりに大きな病院だから四条くんも知ってるかもね」
「え、まさか……あの桜井病院ですか?」
「ええ、そうよ。私の父が院長をしているの」
マジか。めちゃくちゃお世話になった病院ですわ。小中高と一回ずつ入院したし、そのとき院長先生ともけっこう会話をした。確かに言われればどこかしら似ている部分もあるような気がする。
「先生があの桜井先生の……。何度かお世話になっているので、少し驚きました」
「へぇ、そうなんだ。じゃあお父さんは四条くんのこと前から知ってるってことか。あ、それより四条くん、そこにある救急箱取ってくれる?」
「あ、はい。すみません、気が回らず……。どうぞ」
「ありがと。じゃあ四条くんは仕事に戻りなさい」
女性からすれば男と二人きりというのはそれだけで怖いのかもしれないが、そうすると俺は先生から信頼されていないということだろうか。飲み会の後だって何もしなかったというのに、今更だろうと俺は言いたい。それに、この状況で先生を一人にできるほど俺は性善説を信じてなどいない。
「動けない先生を放っていけるわけないじゃないですか」
だから力強く、俺の心配を分かってもらえるようにそう伝えた。
「……それならここのスタッフが戻ってくるまで一緒にいてくれる?」
「断られてもそのつもりですよ」
なんとか理解してくれたようだが、俺がこの格好で真面目くさったことを言ったのがおかしかったのか、先生はさっきから此方を見てくれない。まあ気長に待つとしようか。
医務室の匂いは最近馴染みがなく、室内の真っ白な景観も非日常を感じさせる。それがどうしてか心地よく、ずっとここにいたいと、何故だかそう思った。
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