24. 妹と教え子
可愛い妹が満足したようなので頭の撫でていた手を下ろし、此方を見ようとしない教え子へと身体を向け表情を窺いつつ声をかける。
「夏葉の方も大丈夫だったか?」
「……うん」
周囲の喧騒でかき消されてしまいそうなほど小さい声に暗いトーンが合わさり、俺の耳にはこれだけ近くにいるのにほとんど音が入ってこなかった。夏葉が軽く頷いていなければ、返事を解釈できなかった可能性もある。
視線は変わらず交わらないし、その様子を見て本当に大丈夫なのかと心配になってきた。しつこいかもしれないが再確認をしようとしたところで、簡単に気づくことのできる点に思い至った芽衣が俺に確認してくる。
「あれ、知り合いってことは、この娘が、お兄ちゃんが家庭教師やってる女子高生なの?」
軽く睨まれている気もするが、気のせいだと信じて返答する。誤魔化す必要もないし、せっかく同学年なら紹介しておいた方がいいと考えたのだ。
「えーっと、まあそうだな。せっかくだし紹介しとくか。彼女は水瀬夏葉。芽衣と同年年の高校二年生だ」
「へー、こんな可愛い娘だったんだ」
「な、なんだよ、その目は……」
ジト目で何かを訴えかけてくる妹。これはきっとあれだ。夏葉が美少女だから、あまり人と関わらない俺が家庭教師というマンツーマンの仕事を引き受けたのではないかと責められているのだろう。だがその心配はない。学長から依頼を受けたときは性別を男だと思っていたのだから。
そして、マンツーマン指導は確かに俺にとって難易度の高い仕事だが、そろそろ大学卒業後の進路について考える時期であり色々な経験をしておこうと思って引き受けたのであって、そこに疚しい気持ち決して、いやおそらくないはずだ。
言い訳を頭の中で考えていると、我が愛しの妹は俺から視線を外して夏葉へと挨拶を始めた。人当たりの良い笑顔で、兄を軽く馬鹿にしながら。
「あ、どうも兄がいつもお世話になっています。ワタシは四条芽衣っていいます。この寂しいボッチ大学生の妹をやっています! あ、タメなら丁寧語は変か……。よろしくねー」
ボッチ大学生であることは認めよう。夏葉も承知の事実だし。だが、俺は別に寂しさなど感じていない。大学では桜井先生という指導教員兼話し相手がいるし、アルバイトだって楽しくやっているのだから。あれ? でも気の許せる同性の友人は近くにいないな。なんでも話せる相談相手が欲しいと思わなくもないか。
口には出せない妹への文句を並べつつ現状を確認した俺は再び幼馴染の友人を思い出していた。しかし、芽衣の挨拶を聞いた夏葉がこれまで見たこともないくらい驚いたため、視線と興味はそちらへと移る。
「……えっ? い、いもうとっ!? せんせーの? そっか、通りで誰かに似てるって思ったわけだ……」
「まあ確かに雰囲気は似てるかなぁ。でもワタシは部活もやってるし、友達もたくさんいるからそこは一緒にしないでね」
妹よ。その説明は別にいらないぞ。それに俺だって、部に所属はしていなかったが唯一の親友をサポートするため、サッカー部の練習や試合を見て研究していたのだ。あれも広義では部活と言っていいはず。まあアイツ以外の部員とは話していないし、正式なマネージャーでもなかったから認知すらされていなかったかもしれないが。
「う、うん。あの、改めてだけど、アタシは水瀬夏葉。お兄さんに家庭教師やってもらってる。夏葉って呼んで」
ほら、夏葉も兄への態度が酷いと思って少し返事に困っているじゃないか。
「オッケー! なっちゃん! ワタシも芽衣でいいよ」
「……」
まったくもってオッケーではない。勝手にあだ名をつけて呼ぶなよ。まあ可愛いからいいけど、夏葉もそのノリについていけてないからな。夏葉自身が俺と同じボッチだから慣れてないんだよ……。
黙っている夏葉を見てどうしたの、と首を傾げる我が妹。ここは俺から言っておくしかない。
「スマン、こういうやつなんだ。呼び方については諦めてくれ」
「……分かった。よろしくね、芽衣」
正直言って、夏葉の芽衣に対する印象はよろしくないだろう。だが助けられたという点と、知り合いの妹という点。この二点があるため夏葉はきちんと対応しているのかもしれない。
そんな兄の考えなど露知らず、芽衣はさらに夏葉との距離を縮めようと動いた。
「うん! あ、そうだそろそろお昼だし、一緒にご飯食べない?」
「アタシはいいけど……って、友達と来てるんじゃないの?」
「うん、だからみんなで食べよっ!」
うん、これはボッチには難易度が高い。というか、俺の知る妹なら人を見極める目を持っているから夏葉のことも察しているはずだし、ここまで人の迷惑を考えない行動を取ったりもしない。つまりわざとやっているのだろう。理由は定かではないが、妹には何か考えがあるのかもしれない。
ただ、芽衣のことを知らない夏葉にとっては嫌がらせを受けているようなものであり、対応に困った教え子は俺を頼ってきた。
「……せんせー、どうにかして」
「あのな、芽衣。夏葉はその……なんだ、友達いないし人付き合いも苦手だから―――、イタッ」
どう説明したものかと迷って思いついたことを口に出していると、突然夏葉に足を踏まれた。着ぐるみなのでボディは多少守られているが、足元はそれほど生地も厚くなく防御力が低い。それに気づいて狙ったのなら大したものだ。
アホなことを考えつつも妹から隣の教え子へと視線を移すと、愛らしい笑顔の後ろに般若が見えた気がした。
「す、少し人見知りだから、大勢でっていうのは難しいかもしれない。それに慣れないアルバイトで疲れてるみたいだから、初対面の人に気を遣いながらっていう状況にしないでくれ」
恐怖に突き動かされ、俺は芽衣にそう説明した。横目で確認したところ般若は消えていたため、ひとまず間違わなかったことに小さく息をつく。妹の考えはさっぱり分からないが、兄の俺が介入すれば諦めてくれるだろう。
「……お兄ちゃんがそういうなら仕方ないか。じゃあワタシと二人ならいい? なっちゃん?」
「それなら、まあ……」
「よかったぁ。あ、でもお兄ちゃんは裏で一人寂しく食べてね。着ぐるみを中途半端に着てお客さんの前に立つのはダメでしょ? あと、ごはん代も置いて行ってね。それじゃ、ちょっと友達に伝えてくるからここで待ってて!」
俺を除いて二人だけという点に若干の不安はあるが、それよりもまずは俺への態度だ。確かに頭だけ外して動き回るのはマズいかもしれない。でも二人が裏まで来てくれれば一人じゃないと思うんだよ。お金は払うからそうして欲しい。しかし、芽衣が俺を遠ざけたのは明らかであり、それならこの決定が覆ることはない。
とはいえ、考えていることが分からなくても夏葉を害する真似はしないと、妹のことを俺は信じている。一応着替えてそっと様子は見守るつもりだが、バレたらどうなるかは想像したくもない。
成功を信じてこの後の行動計画を練っていた俺に、夏葉は同情を隠すこともなく哀れみの目で応援をくれた。
「……せんせー、なんというか、その、頑張ってね」
「まあ芽衣はいつもあんな感じだし、慣れてるから大丈夫だ。それよりも夏葉はよかったのか?」
「あれだけアタシに嫌がらせする真意も知りたいし、せんせーのネタも聞けそうだから大丈夫だよ?」
芽衣がわざとやっていることは察していたようで、嫌がらせを受けている自覚も鋭い教え子にはあったようだ。なんとなく女同士のそういう話、しかもおそらく自分が関わっているものは聞きたくないと思った俺は、先ほどの計画を諦めておとなしく裏で休むことに決めた。
計画変更を悟られないように返事をしようとした俺は、後半部分について何か文句でも言おうかと思った。しかし、ステージに上がる前のやり取りが脳裏をちらついてそれは言葉にならない。
「……それならよかったよ。それと、ありがとな。アイツのわがままに付き合ってくれて」
「何か言ってくるかと思ったのに……真面目に返さないでよ」
寂しさと不満の入り混じった声音でそう返され、俺は正直に理由を告げた。
「スマン。……でもまた分からずに軽口叩いて傷つけたくなかったからな」
「はぁ。やっぱりせんせーには分かってたか……。でもさっきのことは全部アタシが悪いの。だからせんせーはいつも通り接してよ。もうあんなバカなことはしないから」
そうじゃないと思っているのに、逃げ癖のついた俺はそれを言葉にできない。
「……分かった」
「まあでも、それだけ勘が鋭いならいろいろ分かってるはずだよね?」
「……分からないから間違えてるんだよ」
「それもそっか。それならアタシが分からせてあげるから、覚悟しといて」
「……お手柔らかに頼む」
もう何度目になるか分からない自己嫌悪と年下の女の子への憧憬。
どれだけ頭の中で理解していようと、簡単には変えられないものがある。
今日一日だけでどれだけ考え方を思い直し、自分の弱さに直面したか分からない。
それでもなお変われない俺を変えようとしてくれる人が近くにいることは幸運なのだろう。
そんな人たちが離れていかないようにできることからやるしかないと、俺は再び決意した。
戻ってきた芽衣に昼食代を渡して二人を見送り裏で独りになった俺は、浮き沈みの激しい自分の精神状態を嘲笑しながら午後のバイトに向けて栄養補給して休息をとっている。
馴染んできたパンダの頭部に、己の腐った性根を見透かされているような気がした。
―――――――――――――――
「そういえば、なっちゃんはお兄ちゃんの過去を知ってるの?」
「……まだ教えてもらってないけど」
「まああんなこと誰にも話せないだろうし、そうだろうね。期待してるなら悪いけど、ワタシからも詳しいことは話さないよ。でも、これだけは言わせてね」
「?」
「お兄ちゃんのことが好きなら、絶対に自分から告白はしないで。あのどうしようもない兄の方から告白させないと、誰も幸せにならないから。もしそれができないなら、お兄ちゃんのことは諦めて」
「……よく分からないけど、心配しなくていいよ。最初はどうにもならないなら自分からって思ってたけど、今はそのつもりないから」
覚悟の炎が灯った夏葉の瞳に映る芽衣の表情には、驚きと期待が見え隠れしている。しかし、そこには悲観や憐憫、あるいは嫉妬といった感情も、確かに存在していた。
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