14. それぞれの土曜日-3

 「う、うーん……あたま、い、たい……」


 正午を過ぎ、朝から暑かった外の気温はさらに上がり、もはやこの9月半ばでも珍しくない真夏日の暑さとなっている。しかし、穂香はこの暑さによって起きることもなく、冷房がいい塩梅で機能している室内で眠り続け、つい先程目を覚ました。二日酔いの頭痛に苦しみながら。


 「でもなんか、あんまり気持ち悪くはない」


 幸運なことに気分の悪さはなかったが、昨晩のことを覚えていない穂香には自身がすべてを吐き出した後であることに気づけない。しかし、目が覚めてから彼女も現状を把握しようと頭痛で重たい頭を回し始めていた。


 「えっと、……そう、四条くんと飲んでて……あれ、わたしいつのまに帰ってきたんだろ? それに、なんかベッドの周りだけきれいになってる?」


 周囲を見渡し、その状況からいくつかの推測が頭に浮かぶ。情報が少なく確証は得られないものの、覚えている場面から想定できる可能性は限られているため、おそらくそういうことなのだと穂香は頭を抱えた。


 「ぁぁ、やっちゃったなぁ……。主役の学生に介抱させるなんて、指導教員としても大人としても最悪……」


 住所をどうやって知ったのか、どうやって運んだのか、酔っぱらってとんでもないことをしでかしてないか、など気になる点はいくらでもあるが、それらを簡単に後回しにできるほど自分自身のふがいなさに穂香は絶望していた。


 「そんなに強くないってわかってたからいつもセーブしてたのに、どうしてこのタイミングでやっちゃうかなぁ」


 これまでに記憶を失うほど飲んだことがない彼女にとって、アルコールで意識が曖昧になっていくあの感覚はこれまで怖いものだった。だからどうして昨晩あれだけ飲んでしまったのか、まったくその理由が分からない。しかし、やってしまったものはどうしようもなく、過去を嘆くよりも今やらねばならないことがある。


 「とにかく、まずは四条くんに謝らないと……って、えぇぇぇーーーーーー」


 謝罪しようと近くに置いてあったバッグに入っているスマホを取り出そうとした穂香は、ベッドから身を乗り出して初めて、現在の自身の服装に気づいた。いや、服装とは言えないかもしれない。彼女は今、下着しか身に着けていないのだから。


 「確かに妙に涼しかったけどっ! って、それよりもまずなんで服脱いでるのっ!?」


 冷静であれば様々な可能性を考えられたに違いない。しかし今は表面上落ち着いていても、やらかしてしまったことへの後悔、そして年下の学生でしかも異性に介抱させしまった申し訳なさと羞恥心など、穂香の精神状態は彼女史上もっともテンパっていると言っても過言ではないくらいにボロボロだった。


 「ままま、まさかね…………。あの四条くんが寝込みの女性を襲うなんて考えられないし。で、でもでも、彼も盛んな年頃の男性なんだし、もしかしたら……」


 普段であればこのように恩人を疑うような考えには至らない穂香であるが、今は状況が特殊に過ぎる。ただ、そのおかしな考えに至れば、次にすることはほぼ確実に我が身の状態のチェックである。例に漏れず、穂香も何かしらの形跡が自身の身体に見られないかを急いで確認した。それにより、彼女の中でひとまず思い浮かんだ可能性が消えることとなる。


 「……なにもされてない、みたい? はぁー、そりゃそっか。あの子、リスク管理とか得意そうだし、一時の気の迷いで人生棒に振ることなんてしなさそうだもんね。まあでも、それはそれでなんとなくむかつくというか、へこむというか。私ってやっぱ魅力ないのかなぁ……」


 乙女心とは複雑なものである。


 そんなこんなで落ち込んだり驚いたり、また落ち込んだりと感情が忙しい穂香であったが、ふとやろうとしてやっていなかった最優先事項を思い出した。


 「あ、とにかく四条くんに謝らないと」


 スマホに手を伸ばし、先日手に入れたばかりの連絡先にメッセージを送ろうと画面のロックを解除する。すると、メールやニュースなどいくつかの通知に交じって、メッセージアプリの通知も届いていた。普段はあまりこのアプリを使うことがないので珍しいなと思ってしまうことは悲しいが、おそらく相手は彼だろう。それはもちろん、この度多大なる迷惑をかけたであろう指導学生の結人である。


→『おはようございます

  体調は大丈夫ですか?

  いろいろと言いたいことはありますが、とりあえず昨晩のことだけ

  簡単に伝えておきます』

 

→『先生の住所は酔っぱらった先生自身が教えてくれましたが、仕方ないとはいえ

  無断で部屋に上がったことはすみませんでした


  次に、それなりに近かったので背負って運ばせてもらいました

  勝手に身体に触れてしまい申し訳ありませんでした


  最後に、一応キーは外から鍵かけて扉の郵便受けから投げ入れておいたので

  回収してください


  朝から長文ですみませんが、とにかく変な誤解だけはしないで頂けると

  助かります』


 まだそれほど親しい間柄ではないが、結人らしい文章だなぁと穂香は思った。正直、最初は長くて読む気が起こらなかった彼女だが、本当に事務連絡のような状況説明と謝罪文であったため、お酒の力で記憶を失っている穂香にとっては重要なものだ。ようやく冷静になってきた頭でゆっくりと文章を読み、彼女はそこから相手の人間性を感じ取った。


 「ほんと、大人びてるというか、気を遣いすぎというか……。こっちはかなり助けられたんだからそんなに謝られても困るし、全面的に悪い私はどうすればいいのよ。それに、荷物くらい漁られても怒らないし気にしないのに、こんな嘘までついて」


 どこか嬉し気に微笑む穂香は、気遣いから生まれた結人の嘘に気づいた。しかし、だからといって事実を察したというわけでもない。結人はおかしなところで気を遣い結局バッグの中身を漁っていないため、彼女の推測は的外れということになる。


 「恥ずかしながら、住所うろ覚えなのよね……。酔った状態だろうと、そうでなかろうと、何も見ずに教えられるわけない……」


 彼女が今の住所になってからまだ半年くらいしか経っていないこと、そして最初はたくさん書いたり打ち込んだりしていたものの、ここしばらく使う機会がなかったこと。これらによって彼女は自身の住所を記憶していなかった。これは結人としても予想外である。無論、そのような背景を知らない彼女は誤解したまま指導学生に返事を送ろうとしていた。


 「とにかく返信しないと…………うーん、なんか難しい」


 だが、文章を考え始めて間もなく彼女の指は停止した。


 「謝ることも多いけど、酔っぱらってる間に何かしてないかとか、気になるとこもかなりあるし、どこまで謝ったり聞いたりするべきなの?」


 なにせ彼女にとっては人生初の経験である。対処法など分かるはずもなく、悶々とした気持ちで、あーでもないこーでもないと悩み続けている。無意味に時間が過ぎ、結局穂香が返事を送ったのは、実に3時間後のことであった。


 「……やっと送れた。でもこんな感じでよかったのかな? うーん、こういうのやっぱり難しいわね」


 メッセージアプリの難しさに一言呟き、一応目先の悩みが解決した穂香は、慣れてきた自身の部屋を見渡してふと思った。


 「あれ、ベッドの周りってこんなに何もなかったっけ?」


 物が積み重なり圧迫感のあったベッド周りも今はどこかすっきりしていて、何かが降ってくる危険はなさそうである。


 「というか、結局服は自分で脱いだってことになるの? もしかしてけっこう寝相悪いのかな、私……」


 もしかしたらではなくお酒が入ると実際にそうなのだが、本人には全く自覚がないようである。もっとも、結人は彼女を背負っている間にこれによって多大な迷惑を被ったことから掃除をして帰ったと言ってもいい。そのことになんとなく気が付いた穂香は、また軽くため息をついた。


 「はぁ、どんな顔で四条くんに会えばいいの? うーん、こういうときは身体動かしてリフレッシュしたいなぁ」


 女子高育ちながら部活動で運動経験のある穂香は、研究が上手く進まないときにも運動で気持ちを切り替えたりするくらいには身体を動かすのが好きだ。


 「あ、そういえばちょっと前にプールの招待券貰ってたような……」


 夏の暑さを感じ始めた頃、水瀬学長に知り合いが経営する施設の招待券が少し余っているからと言われて偶然手に入れたのだが、正直研究室の環境のせいで遊びに行く余裕がなく使えていなかったようだ。


 「有効期間は9月末までだし、まだいける! よし、明日はプールで泳ぐぞー」


 今日は時間的にもう夕方近くなので泳ぎに行く気になれなかった穂香は、運動を明日行うことに決めて再び寝転がった。


 「この時期だし、あんまり人もいないでしょ、きっと」


 イベントのことを何も知らない穂香はそう呟いて、この時間から眠ろうとした。しかし、何もしたくないといってもお風呂には入っておくべきだと、彼女も女性らしく思い直した。


 「うん、流石にさっぱりしときたい……」


 ゆっくりと立ちあがり、バスルームへと足を向けて歩き出す。


 「今頃四条くんはなにやってるんだろ。バイト忙しいみたいだし、今日もそうだったらホントに申し訳ないなぁ」


 どういうわけか結人の状況が気になり思考していたことに、穂香は特に何も疑問を覚えなかった。そのまま歩みを進める中で下着を外し、バスルームへ入る。シャワーを浴びている最中も、考えることは月曜日の大学のことだった。これまで大学のことを考えると憂鬱になるため休みには考えないようにしていた彼女にとって、それは大きな進歩であった。だが、本人はそのことにも気づいていない。


 ある意味でそれは幸せなことなのかもしれなかった。

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