7. 指導教員との約束

 「やっぱり今日もこの時間は誰もいないか……」


 午前九時。大学の講義の一限が十分前に始まっている時間である。しかし俺の分属した研究室は入り口に鍵がかかっていた時点で察した通りの無人であった。


 「先生は夜遅くまで実験してるみたいだし、朝遅くなるのも仕方ないかもしれないけどさ……」


 俺の指導教員である桜井先生もそうだが、実験室が連結しているお隣の米内教授やその指導学生の先輩も、典型的な夜型人間のようだ。ただ、桜井先生や先輩学生は夜遅くまで研究に打ち込んでいるものの、あの教授は学生に研究を任せて事務仕事ばかりをしているため早く帰宅できている。


 「まあ、俺にはどうしようもないことか」


 昨日は研究内容についての座学しか受けていないため、まだ自分で実験はできない。昨日の感じだと一時間ほどは誰も来ないはずなので、とりあえず先生の論文でも読みながら待つことにした。



 「四条くん、おはよう!」


 午前十時半。桜井先生が研究室へと入ってきた。昨日よりも多少遅い出勤だが、その声がどこか弾んでいるように聞こえる。


 「おはようございます。昨日より元気ですね。何かいいことでもあったんですか?」


 「あ、わかった? そうなの! 昨日の夜いい結果が出たの! おかげで帰るのも遅くなったけど、そこそこ苦戦してた問題が片付いて一段落って感じね」


 これまで見てきた先生の顔には疲労感が強く出ていて、その端正な顔立ちに僅かながら影を落としていた。その影は今も完全に消え去ったわけではないが、言葉の節々からもその感情がわかるように、今朝は清々しさを感じるスッキリした表情になっている。


 「それは確かに嬉しいですね。ところで、今日はどんな感じでやりますか? 今日はバイトもないので時間は気にしませんけど」


 「んー、とりあえずは基礎的な実験操作とかルールを教えようかな。最初のうちは手を動かしてなんぼだし、いろいろやってもらおうとは思ってるよ。四条くんならすぐにできるようになると思うけど、私もしばらくは近くで見るようにするから、分からないことは何でも聞いてね」


 それほど年齢が離れているわけでもないのに、こういう話をしているときの先生はやはり頼もしく思える。その補正があるからか格好よく見えるし、その立ち振る舞いも魅力的に映ってしまうので、少々ドキドキしてしまうのは仕方ないことだろう。


 ただ、俺はそんなことを考えていると知られるような分かりやすい人間でもない。つとめて冷静に返答する。


 「はい、よろしくお願いします」


 「あ、分からないことをそのままにして進めないことは大事だからしっかり覚えておいてね。相手に気を遣いすぎる人や、プライドが高い人は分からなくても人に聞くことができなかったりするけど、それは自分にも他人にもマイナスにしかならないから」


 「分かりました。心に留めておきます」


 言葉の裏にどこか苦々しい印象を受けたのは、先生の周りにそういう人間がいたからだろうか。


 俺はある時点からあまり人と接してきていないので、それほど人に迷惑をかけられてきた経験はない。たぶんそれはこれからの人生を考えると間違いなのだろうと自覚はしているが、今の生き方を間違っているとも思わない。


 ただ、いつかは自分が思わぬ方向に変わっていく可能性もあるんだよな、とふいに考え込む癖が出てしまった俺は、何かを思い出したかのように発せられた先生の声で我に返った。


 「そういえば、さっき時間は気にしないって言ってたけど、今日じゃなくて金曜の夜はどう?」


 「金曜日もバイトは入れてないので大丈夫ですけど、何かあるんですか?」


 「四条くんの分属歓迎会でもやろうかなと思って。私の教え子第一号だし盛大に祝いたいんだよね! ということで飲みにいかない? もちろん私のおごりで」


 俺もいつの間にか 21 歳と、飲酒が可能な年齢を超えた。しかし、友達のいない俺が大学の飲み会に参加するわけがなく、家族以外の人とお酒の席についたことはない。だからこそ俺には不安なことがあった。


 「えーっと、自分としては是非行きたいんですけど、先生はいいんですか? 自分が第一号ということは先輩とかいないわけで、二人でってことになりますよね?」


 「へー、そういうこと気にするんだ。私は別に気にしないけど、四条くんは気になっちゃうのかな?」


 その発言に謎の腹立たしさのようなものが込み上げてきたが、年相応にからかってくる先生を可愛いと思ってしまいどうでもよくなる。もちろんそんな内心を表に出すことはせずに返事をする。


 「ええ、まあ。お酒が入ってどうなるか分からない人と二人というのは何が起こるか予想できませんし」


 「そうじゃなくてさ、異性と二人ってところ」


 最初からそういう意図の質問だと分かっていたが、いざ口にされると動揺してしまうものだ。思わず言わないでいいことまで口にしてしまった。


 「そっちに関しては、自分は全然気にしませんよ。俺は彼女もいませんし。先生の方こそ彼氏さんから何か言われるんじゃないですか?」


 「……彼氏なんていないもん」


 「すみません、不躾なこと言って。先生ほど綺麗で知的な女性なら恋人もいるかと」


 「そう思うでしょ? でも実際には私の恋人は研究だけなのよね……。学生時代も勉強と研究に夢中になってたら何もなく終わったわ」


 空気が重い。思いっきり地雷を踏み抜いてしまったようだ。先ほどの晴れやかな表情が一変、表情が見えないくらい闇が落ちている。


 「色々と苦労されてるんですね。よければ飲みの席でお話聞きますよ」


 「ありがとう。でも金曜日は四条くんのための会だから、暗い話はなしよ」


 「自分としては先生のこともっと知りたいと思ってるんで、気にせず何でも話してください」


 これは本心だ。まだ教員一年目で学内に愚痴を言える相手もいないだろうし、あの教授の問題もある。分属した学生が一人で、話し相手がその俺であることは今の状況で適していないのかもしれないが、俺にも誰かの力になりたいという欲求があるのだ。


 「四条くん、君ってやっぱり年上だよね?」


 どうしてそうなるっ!?


 疑惑の目を向けられても、真実は変わらない。


 「前も言いましたが、違います」


 「うーん、そうは思えないけど、まあいっか。とにかく約束はしたから、予定入れないでね」


 「はい。あ、すみません。連絡取りやすい方がいいかと思うんですけど、連絡先教えてくれませんか? メッセージアプリとか使ってます?」


 「……」カァ


 ん? どうして先生は顔を赤くして照れているんだ?


 「どうかしましたか?」


 「え、えっと……こういうの初めてなの」


 こういうのって、連絡先を尋ねられたことか? 初心だなぁ……。というか、海外にいたならいくらでもナンパくらいあったんじゃないのか? スキンシップだって日本より距離感近いし、彼氏がいなかったとしても免疫くらいはつくものだと思うんだが。


 「率直に聞きますけど、もしかして色恋沙汰に無縁の人生を送ってきたんですか?」


 自分でも最低な質問だとは思うが、今の先生はどこかいじめたくなる可愛さにあふれている。


 ホントダメだな、俺。何も学んでない。


 「……だって高校まで女子高だったし、大学はホントに研究しか見えてなかったからほとんど人と関わってないのよ!? こっちに返ってきて、大学の友達にアドバイスを貰って身だしなみくらいは直したけど、周りにいるのはセクハラオヤジとチャラいアホ面の学生ばっかり。おかげでそういう輩への対処はすぐに上手くなったけど、四条くんみたいに―――」


 自己嫌悪はあったが、先生が予想以上に不満をぶちまけてくれたので俺も少しだけスッキリした気分になった。その先生は途中で何かに気づいたかのように言葉を止めてしまい、手で口を押えている。


 「自分みたいに、なんですか?」


 「いえ、気にしないで。連絡先だったわね、さあスマホ出して」


 大人の余裕を取り戻したかのように振舞っているが、取り繕っていることがバレバレなので教員の威厳どころではない。ただ、先ほどから失礼な言動ばかりをしている自覚がある俺は何も言わないことにした。



 先生と連絡先を交換した後、簡単な実験操作を教わっていると先生の部屋においてある電話が鳴った。

 

 「ごめん、少し待ってて」


 そう言って急いで電話を取りに行った先生を見送り、俺は息をついた。


 「ふぅ」


 やっぱりあんな美人にマンツーマンで教えてもらうのは気疲れする。良い匂いするし、軽く接触するのも心臓によろしくない。何より、まだ暑いこの頃、先生はフォーマルな白シャツとスカート姿なのだ。実験室はそれなりに涼しくしてあるが、それでも外に出たり動いたりすると汗はかく。そもそも透けやすい服なのに、そうなってしまうと目のやり場に困る状態になってしまう。


 「ある程度免疫があって助かったな」


 これもアルバイトのおかげである。書店では眞文さんの私服を二年半もの間見てきたのだ。当然夏の涼しげな格好も目に焼き付けて……いや、普通に見てきている。そして最近始めた家庭教師先の夏葉についても、部屋の中だからかラフな格好でいることが多いため、ときどき集中できなくて困ることがある。


 気づけば周りにきれいな異性ばかりいるような気もするが、人生とは何があるか分からないものである。まあ地味で乙女心の分からない、過去から逃れられない俺にはそもそも恋愛なんて不可能だ。どれだけ周りに魅力的な異性がいようと、今の俺にはそう断言できる。


 「四条くん、水瀬学長から呼び出しよ。君、何やったの?」


 また悪い癖で考え事をしていた俺は、再び先生の声で我に返った。


 「え、学長から? 何もやってないと思うんですけど……」


 「君がそういうなら大丈夫なんでしょうけど、とにかく早く行ってきたら?」


 「はい」


 十中八九、というか間違いなくあのことだろう。先生に知られても困ることはないが、ここは心当たりがないことにしておく。


 研究室を出て、あまり遠くはないが見つけにくい場所にある学長室へと向かう。


 「何を言われるんだろうな……。夏葉は相変わらずだし、はぁ」


 先生も言っていたが、俺を呼び出した学長の苗字は水瀬。夏葉の祖父で、俺に家庭教師を頼んできた張本人である。


 偉い人間と話すのは誰だって気が重くなるだろう。あらかじめ良い話だと分かって入れば別だが、今回はどういう内容か分からない。重い足取りで夏の暑い太陽のもと、歩みを進める。思えば最初に呼び出されたのは今年の初夏だった。


 「まあ、なるようになるか」


 あまり良い予感はしなかったが、どのみち呼び出しを断る度胸などない。今を精一杯楽しもうとポジティブに考えた俺を、まだまだ元気なセミたちが応援してくれていた。

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