僕らの匣庭は欠け落ちた

 冷たい床の感触。右頬の痛みで、目が覚める。

 ……僕は、何をしていたんだっけ。

 ジンジンと奥底から痛む頭を振りながら、僕は辺りの様子を伺う。

 真っ暗だった。

 ……次第に記憶が蘇ってきた。そう、僕は鬼に追われて、病院の倉庫までやってきて……それから。


「……」


 僕は、鬼に殺されかけた――はずだ。

 頭の痛みは続いている。ここは死後の世界というわけではなさそうだ。目が慣れていないから今は分からないけれど、僕はまだ倉庫にいるのだろう。床の埃っぽさも、それを裏付けている。

 でも、どうして生きているんだろう。


「……痛てて……」


 うつ伏せになって気絶していたせいか、身体の右半分が痛かった。特に、右頬の痛みが酷い。痕が残っているかもしれない。

 確かめようとして、僕は頬に手を伸ばす。

 ……すると、奇妙な感触があった。


「……?」


 ぬめるような、感触。

 或いは、カサカサとした、乾いた感触。

 そして、どこか生臭いような、息苦しくなる匂い。

 どうしてこんな、気持ちの悪い感触や匂いが……?

 自分の両手を眼前に広げて、じっと目を凝らして見た。

 その手のひらが。

 真っ赤に染まっていた。


「うッ……うわあッ!?」


 この赤は、一体なんだ。

 手のひら一杯に、赤色は纏わりついていた。

 べたつきと、錆びのような匂いをもった、それは。

 どう考えても、血液に違いなかった。


「な、んで……?」


 あの鬼が、僕の体のどこかを傷つけていったのか? それにしても、頭痛以外の痛みはない。血がつかないよう注意しながら体に触れて確認するけれど、怪我をしている箇所はなさそうだった。

 じゃあ、この血はどこから。誰から……。

 暗闇に、目が慣れてくる。

 だけど、目に映る光景が、奇妙に赤らんでいるような気がする。

 血を見たせいだと自分に言い聞かせ、とにかくこの場の状況を把握しようとした。

 何かが、散乱している。

 頭痛のせいで立ち上がれず、四つん這いになって、その何かに近づいていった。

 べちゃりと、嫌な感触があった。

 床に、赤い水溜まりが出来ていた。


「……!」


 いや、水溜まりなわけがない。

 これも――血だ。

 血だまりの、中央に目を向けた。

 そこに、

 貴獅さんの首が、転がっていた。


「うああああああぁぁあッ!!」


 虚ろな目がそこにあって。

 だらしなく開いた口からは、赤黒い血が垂れていて。

 切断面から、赤と白の斑模様が覗いていて。

 生臭い匂いが、一面に漂っていて。

 僕は這いつくばって、その生首から離れようとした。そこで、伸ばした手が別の物体に触れる。

 腕があった。

 色の変わった腕が、ごろりと転がっていた。


「ひっ……ひいいい……!」


 すぐ隣に、もう一つの腕が落ちている。

 飛び散った血液を辿れば、脚のようなものも見える。

 貴獅さんの身体が、その一部が、倉庫の中に散らばっている……!

 理解不能だった。

 僕が鬼に襲われて気を失ってから、この倉庫で一体何が起きたっていうんだ?

 まさか……まさか。

 貴獅さんまで、鬼の餌食になってしまった……?

 滅茶苦茶だ。

 こんなの、滅茶苦茶だ……!

 目の前で、僕の知る人が。

 バラバラに解体されて、死んでいるだなんて。

 信じられる、はずがない……!

 一段と激しい頭痛に襲われた。

 また、痛みで視界が霞む。

 そのぼやけた光景の中に、鬼の姿が見えた気がして。

 僕は両手で、額を覆った。

 酷い匂いが、鼻を突く。……顔が、血で汚れてしまった。

 そこで僕は、自分が泣いていることに気付いた。

 この耐えきれない非現実に、涙が溢れていることに、ようやく気付いた。

 そして、その涙をゆっくりと拭って。

 拭った手の甲に、視線を落として。


「あ……あ、ああ……」


 それが、ただの涙ではなく。

 真っ赤に染まった血の涙であることに、ようやく……気付いた。


「…………」


 僕は。

 鬼の祟りを、理解出来たような気がした。

 そして、もう。

 全てはきっと、手遅れで。

 止まらない血の涙が、そのことを生々しく物語っていた。

 これは……鬼の祟り。

 人々を狂気に陥れる、邪鬼の祟りで。

 その赤い目に、僕もまた冒されて。

 僕の世界は、狂ってしまったんだね。


「……はは……あは、は……」


 ポケットに、硬い感触。

 そう……それが、全てなんだ。

 世界が赤い。

 ふらふらと歩み出た外は、暗く、けれども赤い。

 頭の中が、赤一色で満たされて。

 僕は、何もかもがもうすぐ終わることを、受け入れた。





 赤い月を、見上げていた。

 それは不思議と、とても美しく思えた。

 真っ赤に染まった満月。

 藍色の空に、その満月は大きく輝いていた。


 進まなくちゃ。

 萎えかけた足を、それでも懸命に動かして。

 僕は夏の夜闇の中を、歩き続ける。


 足に感覚はなく。

 いつの間にか靴もなく。

 そして、辿り着く場所もなく。

 それでも……歩き続けていく。


 ふと、頬を冷たいものが流れていった。

 それを冷たい指で拭った。

 指の上に残った一粒の雫は、

 あの赤い月と同じように、赤く滲んでいた。


 何度も何度も、繰り返し耳にしてきた伝承。

 狂い始めた世界でもがくうち、教えられた昔話。

 赤い満月が昇る夜には、

 全てが狂い、鬼が嗤う。


 そして今――世界は確かに、狂いの中にあって。


 赤く染まった、満月。

 赤く染まった、世界。

 赤く染まった、視界。

 赤く染まった――両手。


 ねえ……。

 狂ってしまったのは、世界が先なのかな。

 それとも、僕が先なのかな。

 今になってもまだ、その答えは分からない。


 でも……皆。

 これだけは、言えるんだ。

 例えこの小さな世界が滅茶苦茶に欠け落ちてしまった後でも、

 これだけは、決して変わらないと。


 この、ちっぽけな箱庭で、

 僕たちが過ごしたささやかな時間は、

 どうしようもなく愛おしく、

 そして、満ち足りたものだったんだよ、と――


 八月二日、午後九時。

 その日、僕らの箱庭は欠け落ちた。

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