暁の雫(お休み中)

えすかるご

澄の部





































※この小説は、明治から大正、昭和にかけての時代背景を参考にしていますが、史実とは異なる場合がありますので、ご注意下さい。






































暗い廊下に、便所を流す音だけが響く。雨戸の虫食いからは雨が吹き込み、いくつか水たまりが出来ていたが、ろうそくの一本もない廊下でそれが見えるわけもなく、ただただ真っ直ぐ歩きながら、図太い足で水たまりを広げていく。滑るかとも思ったが、欅の皮のように固くなった足裏が床板に食い込みそれを許さない。もっとも、足の裏が濡れているということは気持ちのいいものでは無く、ぺちゃぺちゃという音も気に入らない。できるだけ濡れないようにかかとを上げながら、あどけない足踏みで前に進んだ。安定しない身体に、いつも以上に足元を見る。少し大きな穴から、光が漏れている。月光だろうか。一瞬もやのようにも見えたそれは、目をこすれば井戸水のように澄んでいた。この先に何か、神とも仏とも取れないような力を感じ、穴に目を当てる。雨が吹き込んでくるため目は瞬いたあとすぐぼやける。見えているのは壁に煙突、竹竿に黄ばんだ下着。そして月。丸い月が見えていた。輪郭もろくに見えないほどぼやけていたが、むしろこの方がいい気もした。白光に揺れる視界の先に吸い込まれそうだった。吸い込まれ、もう戻ってこなくてもいいような気さえした。







「おい、寄り道が長いな。何か美味いものでもあったのか」


襖をあけるとおさむがあぐらをかいていた。工場から拾ってきたベニヤ板に釘で何か彫っている。どうせいつもの革命計画だかなんかだろう。


「ああ、とびきり美味いもんがあったぞ」


「なんだ。しけた煙草はいらんぞ」


「そんな安いもんじゃない」


「煙草より美味いものか」


「月だよ」


狐につままれたような顔をした修はポケットから釘を抜き取って俺の前にほおり投げる。


「食えないもんに用はない。さっさとここのベタに協力してくれ」


そういうとまたベニヤに文字を彫り出す。あの月の良さが分からないなんて可哀想なやつだとも思ったが、顔色を変えない修を見ていると、本当に可哀想なのはじつは自分なのかもしれないと思った。抜け出せない日々の繰り返しに飽きていたのか、それとも腹が減って月が饅頭に見えたのか。数分前の記憶は昨日の夢のように薄れていた。ただ、自分でも分からないのは、あの月は空に浮いていたのか。それとも空にぽっかり空いた穴から、この世のものでない光が漏れていたのか。ふつうは前者が当たり前と考えるのだが、今の俺は後者が事実にしか思えなかった。いや、事実だと思いたかった。どうやってもいい。いつか空を飛べたら、自分で月に触って確かめてやろうと思った。そしてもし、月の向こう側に世界があるのなら、その世界に行ってみたいと思った。腹がぐぅとなる。ずっと月のことを考えていたからか、ウサギがもちをついているのが頭に浮かんだ。もちなんてここ十年食ってない。だめだ腹が減った。空腹を紛らわすために床に就く。なんと大した男だろうか。人に仕事を頼んだ修は先に寝付いていた。これほどの図太さがあったらどれほどたくましいだろうか。こいつには革命家ではなく実業家になって、俺に腹一杯の牛鍋を食わせて欲しいと思った。







小間使いの子供が足ドタバタさせて走っていく。変かもしれないが、ここではこれが朝の合図だ。足音は一瞬で遠ざかっていくが、その振動で誰も起きない部屋はない。この部屋もそのひとつだ。目を覚ました俺は体を起こす前に親友の頭を蹴りあげる。大きなあくびをかいた親友が立ち上がり顔を洗いに行った。外を見るとまだ雨が降っていた。太陽暦というものがまだ染まりきっていない今、これを五月雨さみだれと呼ぶ人は少なくない。そんな五月雨を見て少し心が踊る。晴れは嫌いじゃないが、つまらない。光を浴びたいならろうそくの光で構わない。雨は違う。こんな1粒1粒の水滴が雲から薄く漏れた光に照らし出されきらめき、一瞬命がやどったかと思うと、地面にたたきつけられて消えてしまう。消えてしまうというのはおかしいかもしれない。地に染み込んで、こんこんと沸き起こって来るものもあれば、流れをなし、大海の一滴となるものもあれば、乾いて再び天に昇り、母雲に帰っていくものもある。毎日同じ鉄板を打ち付けている俺よりよっぽど楽しいだろう。雨戸をあけて手を差し出し、平が薄く隠れるだけの雨が溜まったあと、それを思いのきり顔にたたきつけた。生ぬるい、しかし、この生ぬるさが、生命の証なのだろう。親友が呼ぶ声が聞こえたので、手で顔をぬぐいながら足を急いだ。









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