魔獣に囲まれた世界

和泉茉樹

魔獣に囲まれた世界

 荷馬車に積まれた穀物の袋の隣で、俺は車椅子ごと揺られていた。

 すぐそばに黒髪の少女が座り込んでいるが無反応。彼女も俺と同じリズムで揺れている。

「お客さん方、どういうご関係ですか?」

 同じように荷台に乗っている、運送会社の荷夫が声をかけてくる。

 運送会社と言っても御者をしている男と目の前の男の二人きりらしい。

「友人です」

 俺は愛想よく答えつつ、笑ってみせる。

「どうして手足を?」

 彼はジロジロとこちらを見てくる。

 俺の服の袖の中身、裾の中身がなくなっているように見えるからだ。

「先天的なものです。義肢がありますから、いざという時は車椅子も必要ありません」

 世界は科学時代、魔法時代を経て、すでに何者にも再生不可能な黄昏を迎えている。

 科学は魔法によって弾圧され、魔法は普通人によって弾圧された。愚かしいことだが、人間の愚かさは人間が誰より知っている。

 そのすでに消え去った二つの文明の遺物が今、人類の最大の障害だった。

 すでに崩壊しつつある人間という種は、まだ最後のあがきを諦めていない。

 馬が嘶き、荷馬車がゆっくりと停車する。

「おい、荷物を捨てろ!」業者が怒鳴る。「魔獣の眷属だ! 逃げるぞ!」

 バタバタと荷夫が荷物を軽くするため、穀物の袋を捨てようとした。

「必要ありません」

 俺はそっと声をかけたが、荷夫も業者も必死の動き、手を止めない。

「必要ありませんよ。ローラ」

 こちらも見ず、頷きも返事もせず、少女ローラが荷台を降りた。やっと二人が、こちらを見た。

 荷馬車に向かって真っ白い体毛の狼が走ってくる。遠目には狼でも三倍は大きい。

 運送業者の二人は狼に向かうローラと、生きた車椅子の足により荷台を降りた俺を見比べている。

「お、おい、あんたたち、何を……」

 業者を無視して、ローラが止めることなく、魔獣の眷属たる狼へ向かってゆっくりと歩を進めた。

 俺たちが見ている前で、眷属がローラの前で伺うように足を緩め、右へ行ったり左へ行ったりして、彼女をうかがう。

 眷属が吠える。ものすごい迫力だが、ローラは微動だにしない。

 すっと彼女の右腕が持ち上げられる。

 その手のひらを向けられた眷属が、じっと動きを止め、ピタリとも視線を動かさなくなった。

 すぐそばで、御者と荷夫が唾を飲む音が良く聞こえた。

 小さく、眷属が鳴く。すっとローラが手を振ると、それに従うように、眷属が落ち着いた様子で身を翻し、元来た方へ帰って行った。ゆっくりとだ。

 笑いかけるつもりで業者と荷夫を見ると、ぽかんとしている。

「お客さん、あの娘は、いったい……?」

「今時、珍しくなってしまった魔法使いですよ」

 俺は車椅子に指示を出し、伸ばした複数の腕で、地面に投げ捨てられた荷物の袋をさっさと荷台に戻していく。

 業者の二人も、慌てて取り掛かるが、俺から目が離せないようだ。

 それもそうか。両手足のない男が超ハイスペックな車椅子に乗っていて、それに付き添っている少女が魔法使いときている。

 ローラが帰ってきて、しかし何もせずに、俺のすぐそばに立ち尽くす。恐々と、業者の二人が彼女を見ては、視線を外す。

 荷物を全部積み直し、再び馬が荷車を運び始めた。

「お客さん、レントでは大歓迎ですぜ」

 少し親しみを持ったらしい荷夫の言葉に、俺は少し首を捻っておく。

「レントは今、魔獣と戦っているんですよ。本物の魔獣です」

「ええ、それは、知ってます」

「え? 何故です?」

「魔獣を追い求めて旅をしています」

 敵わないな、と荷夫が苦笑する。

「魔獣に何の用がおありで?」

「義肢を作るのです」

「義肢? 魔獣でですか?」

 頷くと、荷夫が顔をしかめる。それが可笑しかったので、今度は俺が思わず笑ってしまった。

「笑い事じゃないですよ、お客さん。魔獣を義肢にする? 聞いたこともない」

「失われた技術ですよ」

「ええ、ええ、それは、お二人は今時、珍しくなった魔法使いの二人、ってことですか」

 そうですね、と答えると、荷夫は頷いて、ちょっと声を潜めた。

「お嬢さんの方は、レントの防衛部隊は欲しがるでしょう。毎日、人が死んでいる、という噂もあるくらいです」

 それはまた、激戦のようだな。

 見渡す限りの荒野を進む。荷夫が水の入ったボトルを差し出してくれたので、それを車椅子の腕が受け取り、口元へ運んだ。

「どうしてこんな世界になっちゃったんでしょうねぇ」

 荷夫が俺の視線を追ってそんなことを言ったが、俺もローラも答えなかった。

「人間の愚かさっていうのは、最後の一人が滅びるまで、続くんでしょうけど」

 荷夫には荷夫なり世界観、人間観があるらしい。

 前方に小高い山が見えてきて、その上に建物が密集している。

「あそこがレントですぜ、しかし、あれは……」

 そう荷夫が言うより早く、俺は気づいていた。

 煙が無数に立ち上っている。街が燃えているのではないようだ。魔獣とその眷属と戦っているんだろう。

 みるみる山が近くなる。山といっても、古い枯れ木に覆われているだけで、気候に反して緑が豊かではない。人のようなものが右往左往しているのがちらちらと見えてくる。

 斜面に作られた道を走っていく荷馬車だが、煙の匂いが濃くなるのに従い、荷夫は見るから緊張している。御者も馬に激しくムチをくれている。

 すぐそばで獣の吠え声がした。

「止めてもらえますか?」

 御者に声をかけると、真っ青な顔がこちらを振り向いた。

「少しでいいのです。降ります。俺が下りれば、もっと早く走れるでしょう」

 迷ったようだが、御者は荷馬車を止めた。俺の車椅子の腕が車椅子の背面に固定されているトランクを抑えつつ、車輪がばらけるように変形した脚で、俺を乗せたままそっと荷車から飛び降りた。

 ローラも付いてくる。

 荷夫が悲壮な表情でこちらを見るのに、俺は頷いて、走り出した荷馬車が道の先へ消えていくのを眺めた。

 車椅子の脚を車輪に戻し、自動で進み始める。ローラもすぐ横をついてくる。

 斜面の道なき道を進み、喧騒の方へ向かっていく。声は怒声や悲鳴、掛け声と聞き分けられるようになる。そこに獣の咆哮や、銃声も混ざり始めた。

 前方が開けた。

 人間大の杭がいくつも斜面に突き立てられ、枯れても残っていた木々は切り倒されている。

 その開けた空間で、三段に人間たちが隊形を組み、合図とともに銃を撃っている。魔法式銃で、弾丸は通常弾よりも超高速、高貫通力があるのと同時に、魔獣を倒す毒素を放出する。

 事実、杭の向こうで魔獣の眷属、真っ白い狼が累々と倒れている。

 それでもまだ眷属は押し寄せてくる。

 車椅子の腕が双眼鏡を俺の目元に固定する。

 覗くと、麓にうずくまる巨大な狼が見えた。銀色にキラキラ輝く体毛が美しいが、巨大すぎる。十メートルを超える巨体だ。

 見ている前で、その体からふっつりと一人でに落ちる体毛が、瞬時に白い狼に変わっていく。

 あれが突っ込んでくれば、人間の部隊はあっという間に蹂躙されるだろう。

「行くか」

 誰にともなく口にして、俺は車椅子を先へ進ませた。

 と、眷属の大攻勢が始まり、たまらず防衛部隊が敗走を始める。

 俺は車椅子を走らせ、強引に眷属の追撃を防ぐ位置に、無理やりに飛び込んだ。

 ローラがすぐそばで、両手を前に突き出す。

 ビクリ、と眷属の群れが同時に体を震わせ、停止する。

 十体、二十体が、そこでこちらを敵意の目で睨めつけながら、しかし動こうとしない。

 まさに眷属に食い殺される寸前だった兵士が、悲鳴をあげ、涙を流して後ずさりする。

「今のうちに撤退しなさい。早く」

 眷属はどんどん増えていく。

 厄介なことだ。

 俺は一瞬、目を閉じて、それから眷属たちに背を向けた。

 振り向いた途端。

 俺に無数の銃口が向けられていた。

「何者だ?」

 兵士の指揮官らしい男が誰何してくる。銃口を向けておいて、ちぐはぐなことだ。

「魔獣に用があるだけです」

「答えになっていない」

「それ以外に答えがない」

 指揮官は少しも譲らず、部下の銃口も下げさせようとしない。

「奴らを解き放ってもいいのか?」

 まるで脅迫するような言葉だったが、指揮官は難しい顔になり、頷いた。

「話を聞こう。奴らはどうして攻撃を止めた?」

「これから話します」

 俺はゆっくりと車椅子を前進させた。


 部隊を立て直す間に、防衛部隊長が俺のところへ来た。

「私はタツオン。君は?」

「ヴァイオラ」

「よろしく、ヴァイオラ。なんでも、奇妙な魔法を使うと聞くが?」

 ええ、と頷き返しつつ、彼の様子を観察する。

 まだ若いが、瞳にはカミソリのような鋭さがある。俺は意見を口にした。

「魔獣を調伏したい」

「調伏? どういうことだ?」

「俺の義肢にするのです」

 じっとタツオンの視線が俺の両手足を見る。

「魔法で魔獣を義肢にする、ということでよろしいか?」

「そうです」

「私は魔獣の義肢というものを知らない。普通の義肢とは違うのだろうが」

 実際に見せます、と俺は車椅子を操り、腕で、車椅子に固定されているトランクを外す。

 目の前でそれを開くと、中には色とりどりの義肢が入っている。

 その中から真っ赤な義手を選ぶ。

 車椅子の腕が器用に俺の服の袖をめくり、腕の断面が露出する。

 そこに別の腕がぐっと赤い義肢を押し付けた。

 ぶるぶるっと義手が震えたかと思うと、俺の意識にそれは接続されていた。

 タツオンの前でまるで作り物が生き物になったように、俺の右腕の義手が動き出す。

「信じられん……」

 タツオンは真っ青な顔で自分の口元を撫でた。

「まだ終わりではありません」

 ぐっと腕に力を込め、そこに含まれている強力な魔法を顕現させる。

 赤い義手の周囲に赤い炎が唐突に生まれ、渦巻き、盛大な火の粉を散らしていく。

 さっと上に腕を持ち上げると、炎が吹き上がり、周囲に火の粉の雨が降った。

 広げていた手のひらをぐっと閉じると、一瞬ですべての炎が消えた。

「こんな……」タツオンの声は震えている。「こんな、魔法は……、ありえない……」

 目の前のことが信じられないらしい。

「別の腕でも見せましょうか?」

「いや……、必要ない」

 額の汗を服の袖で拭いつつ、タツオンがこちらを探るように見る。

「倒さずに魔獣を調伏するということは、あの魔獣も義肢にすれば、自在に魔法を行使できる、ということか?」

「そうなりますね」

「ふむ。義肢を見せてくれ」

 どうぞ、と俺は車椅子の上で、トランクを彼の方へ押しやった。

 トランクには五つの義手義足が入っている。ちなみに義足は片方しかないのが、今の課題の一つだ。早くもう一つ、手に入れたい。

 義手を手に取り、細部まで眺めてから、恍惚とした様子でため息を吐いたタツオンが、そっとトランクに全てを戻し、こちらへ差し出した。

「良いだろう、ヴァイオラさん、サポートは必要か?」

「必要ありません」

 俺はトランクに片腕の赤い義肢を切り離して戻し、トランクを丁寧に車椅子に接続した。

 少しだけタツオンと打ち合わせをして、俺は車椅子に運ばれるまま、ついさっき、撤退したばかりの戦場へ戻った。

 銀の体毛の狼は、「銀の魔獣」と呼ばれていて、特性としては不死らしい。

 タツオンが言うには、すでに何度か致命傷を与えたが、効果がなかったという。

 眷属たちは周囲をウロウロしているが、離れたところで陣形を組んでいる防衛部隊の方へ行こうとはしない。

 いつの間にか俺の横にローラが並んでいるが、無言。

「彼女は?」

 そうタツオンに聞かれて、俺は前を向いたまま応じる。

「相棒です。彼女が調伏します」

 無言で頷いたタツオンが足を止めるのも構わず、俺は眷属の群れの方へ進んでいく。

 狼たちがこちらを睨みつけ、唸り声を上げる。

 しかし、動かない。動けないのだ。

 まるで眷属の群れを割るように先へ進み、ついに銀の魔獣の前にたどり着いた。

 身を丸めていた巨大すぎる狼が、こちらに視線を向ける。

「エウレカの民」

 唐突に銀の魔獣が人語を発したが、驚くには値しない。

 タツオンが離れているのは、ありがたい。

 人語を発した割に、銀の魔獣は友好的ではない。

「何をしている? こんなところで」

 続く質問に、俺は気付かず笑って答えていた。

「この世界を終わらせようとしている間抜けを、眺めているのさ」

「小さき魔獣が気になるか」

「そういうこと。あんたは巻き込まれただけさ。しばらくの間、俺の手元にいてくれないかな。どうだろう?」

「どうせ終わる世界だ。良いだろう」

 狼が大きな吠え声を上げる。眷属が一斉にこちらに殺到してくる。

 俺の横をすり抜け、そのまま銀の魔獣にぶつかると、溶け合うように一つになっていく。

 俺はじっと意識を集中し、魔法を発動させた。

 銀の魔獣と心が繋がり、ついに完全な理解がやってくる。

 こうなれば、魔獣の形を変えるなど、容易い。

 意識に集中し、現実を、事象を全拒絶した。力を練り上げ、形とする。

 いつの間にか固く閉じていた目を開くと、目の前にポツンと、銀色の義足が落ちていた。

 銀の魔獣の巨体は、消えていた。

 車椅子で近づき、拾い上げる。車椅子の腕が角度を変え、俺はじっと義足の細部を確認した。

 悪くないじゃないか。

 さて、これでやることは一つ片付いたわけだけど。

 ゴツッと硬い何かが後頭部に当たった。

 何度も何度も経験している、お馴染みの硬さ、冷たさだ。

 つまり、銃口。

「抵抗すれば撃つ」

 タツオンの声。こいつらは、いつもこうだ。

「俺のような体の人間は抵抗できないと理解していないのですか?」

「油断はできない。自力で車椅子から降りろ」

 それはまた難しい注文をする。

 俺はそれっぽく、どさっと地面に落ちた。

 すでにタツオンの部下が複数、周囲にいて、彼らが車椅子を回収し、トランクだけを引っぺがして、それはそれで運んでいく。俺が手に入れたばかりの銀の義足も持って行かれた。

 このまま撃ち殺される可能性もあるかな。

 そう思ったけど、タツオンはそんなことをしなかった。

 ぐっと襟首をつかんで俺を引きずり始める。

「ようこそ、レントへ。歓迎するよ」

 それはまた、素晴らしい歓迎もあったものだ。


     ◆


 レント市の役場の会議室で、市長のルーゲント、副市長のザモー、そして防衛隊長のタツオンが向かい合っていた。

 三人が囲んでいるテーブルの上には、ヴァイオラという正体不明の男から奪った義肢が並んでいる。

「こんなものは見たことがない。魔法か?」

 ルーゲントの言葉に、タツオンが頷く。

「そうです。奇跡を起こせます。これから実験しないとわかりませんが、誰かの腕か足を切り落とし、接合させる計画です」

「例の男の手足にどうやってくっついていたかも、わからないのにか?」

「実験しないことには、先へ進めませんから」

 そっけないタツオンに、ザモーが不快感を見せる。

「もし失敗すれば、腕や脚を無為に失うものが出ます。まだそこに進むには、早いのでは?」

「生産能力、技能のないものは大勢いる」ルーゲントは表情を動かしもしない。「そういうものたちを都合よく減らせるじゃないか」

 ザモーは黙り込み、ハンカチでこめかみを拭った。

「それで、例の魔法使いはどうした?」

「二人ともを確保してあります。地下牢です。男の方は両手足がありませんから、何の拘束もしていませんが、動けないでしょう」

「女の方は?」

 その一言にあるルーゲントの好色に、ザモーはやはり不快感を滲ませ、しかしタツオンは無だった。

「どのような女だ?」

「人形のような女です」タツオンがそっけなく答える。「話さない、頷きもしない、無反応です。手錠も足かせも、何の抵抗もなく、受け入れました」

 それはそれで面白そうだ、とルーゲントが笑う。

 今後のことについて話し合い、結論が出てから、ザモーは一人で地下牢へ向かった。

 彼はヴァイオラはともかく、少女の方は助けなくては、と思った。

 地下への階段を降り、ジメッとして薄暗い通路を進む。通路に面した牢を横目に、一番奥へ向かう。

 看守が、いる。

 しかし、倒れている。倒れている?

 駆け寄って牢の中を見る。

 無人だ。

 隣の牢を見る。手枷と足枷が、転がっているだけだ。

 脱獄した? どうやって?

 看守を揺すりながら、ザモーは底知れないものを感じつつ、混乱と恐怖に支配されていた。


     ◆


 ドアがノックされ、ルーゲントは返事をした。秘書だろう。

 入ってきたのは、見知らぬ男だった。小綺麗な服装に、真っ赤な髪の毛。

 そして、紫の瞳。

 誰だ?

「さっきは世話になった」

 男の言葉に、ますますルーゲントは訝しげな視線を向けるしかない。

「誰だ? 警備はどうした?」

「おめでたいな」

 男が歩み寄ってくる。

 ちょうどルーゲントは捕虜から没収した義肢を一つ一つ、眺めているところだった。テーブルの上にはそれが並んでいる。

 これを見られたからには、この男は殺さなくてはいけないかな、と無感情に考えた。

 彼自身も拳銃には自信がある。その拳銃は、引き出しの一つに入っていた。さて、どれだけ早く抜けるだろう?

 男がピタリと足を止め、すっと机の上を指差した。

「そいつが何か、知っているか?」

「何を言っている? お前は誰だ? 出て行け」

 急にルーゲントは目の前の男から発散されている気配に、恐怖を感じた。

 自分など、どうとでもできる、と、この男は思っている。

 そしてそれを実行する気迫が、部屋を満たした。

「そいつは」

 男が笑みを見せる。強気な、挑みかかるような瞳。

「魔獣だ」

 爆発が起こった。

 轟音が聴覚を奪い、強烈な閃光が視力を奪った。体が巨大な力のうねりに翻弄される。

 どれくらいが過ぎたか、何かに引っ張り起こされて、ルーゲントは意識を取り戻した。

 呻きつつ、目を開ける。

 急に視界が鮮明になった。

 半壊している役所、そのぶち抜かれた壁から見える開けた世界で、六体の魔獣が暴れ回り、レントの街を破壊していた。

 巨人が建物を叩き潰し、巨大な炎を纏う鳥の火炎が街路を焼きはらう。九つの頭を持つ大蛇が市街を蹂躙し、全てを凍結させる氷の獅子の息吹が吹き荒れ、微塵に砕く。風をまとった空飛ぶ魚が通り過ぎると、建物が、地面がえぐれる。

 そして、銀色の巨大な狼が、駈け回り、全てをなぎ倒した。

 ありえない。

 ルーゲントは、謎の男に腕を掴まれたまま、体から力を失った。

 街は、終わった。破滅だ。

 ここも破壊されるだろう。

 終わる。人生が終わる。ルーゲントはすぐにそれを考えた。

 街の住民のことを考える前に、自分の生死を、考えた。

 誰かの叫び声が聞こえた。それは、タツオンの声だ。

 紫の目の男が振り返り、ぐっとルーゲントも引きずられ、振り返ることになった。

 かろうじて残っていたドアが開き、そこに銃を構えたタツオンがいる。

 何かを叫び、引き金に力を込める。

 しかし、弾丸は発射されなかった。

 巨大な銀色の狼の魔獣が、建物ごとタツオンを粉砕し、衝撃でルーゲントも吹っ飛んだ。

 気づくと、地面に倒れており、すぐそばに赤い髪の男がしゃがみこんでいて、こちらの顔を覗き込んでくる。

「どうする? お前も死ぬか? それとも生きようとするか?」

 全身の痛みを無視して、ルーゲントは跳ね上がると、駆け出した。

 目的地などない。しかし今は、ここを離れなくては。

 街はもはや原型を少しも残していない。そこここで人々が倒れ、建物に押しつぶされ、もしくは焼死体になり、あるいは氷漬けにされて粉砕されていた。ひき肉にされかかったものもあれば、食いちぎられたものもある。

 死体、また死体。

 ルーゲントは走り続けた。


    ◆


「あんたもお人好しだ」

 地下牢の前で、看守を揺すぶっているザモーに、いきなりヴァイオラの声がかけられた。

 ザモーが勢いよく振り返る前で、ヴァイオラは手首を曲げ伸ばししつつ、彼に視線を向けている。

 何が起こっているのか、わからない。

 手首? 四肢がないはずでは?

 混乱から立ち直れないまま、ザモーはすぐに計算した。

「あなたは、普通じゃない。その力を、貸してくれ」

 圧力に負けて、ザモーの口はペラペラと言葉を口にした。

「ルーゲントは自分のことしか考えないし、タツオンは無能だ。私とあなたで、この街をもっとよくしよう。あなたという魔法使いがいれば、誰も歯向かわないだろう。魔獣もだ。この街は、あなたのものだ!」

「この街ね」

 首を振ったヴァイオラが手をすっと動かした。

 何かが背後で動いたと思った時にはザモーは看守に首を締め付けられていた。

 看守の顔は、眠っている。だが、眠っている人間の力ではない。全力だ。

 ザモーはヴァイオラに声を上げようとした。

 やめてくれ。助けてくれ。

 しかし言葉にはならない。

 ついにザモーの首は骨がへし折れた。

 次の瞬間、ザモーは座り込んでおり、目の前にはヴァイオラが立っている。

 い、生きている? なぜ?

 これは、夢? 現実? 何が起こったんだ?

 再び背後から首を締め上げられる。首を捻った先では、看守が眠った表情のまま、締め付けてくる。

 首が折れる。

 またしゃがみ込んでいる自分をザモーは意識した。目の前にヴァイオラ。

「た、助け……!」

 背後から手が首に掴みかかる。

 息苦しさを感じる間もなく、首が折れた。

 しゃがみこんでいるザモー。何が、起きている?

 逃げ出す前に首に手がかかる。圧迫。衝撃。

 しゃがみこんでいる。

 ザモーは必死に逃げ出そうとしたが、できない。

 首にまた、手が……。

 ザモーは何度目かの悪夢の中で、それに気づいた。

 紫色の瞳。それは選ばれた民だけが持つ。

「エウレカの、民……!」

 首を折られる寸前に、ザモーはヴァイオラが笑ったのを見た。


     ◆


 やれやれ、とんだことになった。

 俺は両手にトランクを持って、レントの市役所を出た。

 街が魔獣に蹂躙などされていないし、ルーゲントもタツオンもザモーも生きている。

 精神は完全に破壊されたが。

 ザモーは俺のことを気にかけたから、生き残る可能性が一番高かった。

 でも結局は、支配することしか考えない愚か者だ。

 街は賑わっており、穀物の取引の拠点なので、広い通りを荷馬車が行き交う。

 適当な場所で俺はトランクの片方を地面に置いて、スイッチを押した。

 トランクが科学文明と魔法文明の合いの子である生きた車椅子に、ばらっとほぐれ、変形する。その背面にもう一つのトランクを装着し、俺はゆっくりと車椅子に腰かけた。

 車椅子が滑るように動き出す。

 世界が魔獣に支配されようとしている、現在に続く時代では、時に魔法が、時に科学が人間を支えた。その二つが魔獣を生む温床になったが、その作用は人間にも及んでいた。

 動物の中から魔獣が生まれるように、人間の中からも魔獣が生まれた。

 長い時間を経て、ほとんど全ての人間に魔獣の因子が組み込まれて行ったのに、人間たちは気づいていない。

 小さき魔獣と呼ばれる、無自覚な魔獣たち。

 はるか昔といってもいい時代、まだ魔獣が存在しなかった頃、エウレカの民と呼ばれる種族がいた。

 やがては魔法文明によって破滅することになる、科学を極めた種族だ。

 エウレカの民は科学技術の粋を自らに取り込み、それを理由に魔法文明は彼らを否定し、滅ぼした。

 正確には、滅ぼされてはいない。

 魔獣の時代になり、生き残っていたエウレカの民は、自身の特異さに気づく。

 魔獣と超高速、超高密度で情報をやり取りし、共感する力。

 これを使えば、魔獣を調伏するのは容易い。だが、それ以上に意味のある使い方が生まれた。

 小さき魔獣、人間と共感し、人間に幻を見せる。

 現実そっくりの幻だ。

 こうしてエウレカの民はほとんどの人間を騙し、欺き、生きる術を手に入れた。

 俺の四肢は残っている。だが、人間どもにはないように見える。

 人間どもにはローラという少女が見える。

 しかし実際にはローラなど、いない。

 赤い髪の毛に赤い瞳の俺もいない。実際の俺は赤い髪と、エウレカの民の特徴である紫の瞳を持つ。

 生きた車椅子に座ったまま、俺は現実には破壊されていない街を見た。

 やろうと思えば、俺はこの街を本当に破壊できる。

 そうしないのはなぜだろう?

 それは単純に、俺と彼らが無関係だからかもしれない。

 俺たちの祖先を殺し尽くした奴らの末裔でも、彼らが殺したわけではない。

 もう一つ。

 俺のことなんて、誰も気にしていない。だから俺も、彼らを気にも留めない。

 穀物の取引所へ行くと、ここまで俺を運んでくれた運送業者とばったり出くわした。

「あんた、無事だったのか?」

 荷夫が駆け寄ってくる。

 こういう人間こそが好ましい。まっすぐな瞳をした、市井の、名もない人々。

 俺はゆっくりと車椅子を進めた。

 彼にも周囲にも、俺は赤い髪と赤い瞳の、両手足がない男に見え、そしてすぐそばに、黒い髪に青い瞳の少女が見えるだろう。

 見える世界など、その程度のものだ。

 音もなく、無記名の人の間を車椅子が進んでいった。



(了)

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魔獣に囲まれた世界 和泉茉樹 @idumimaki

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