微かな気配

 彦作が母親と二人で暮らす家は、集落から大分離れた場所にある林の窪地にぽつりと寂しく建っていた。「おっかあが驚くから」と、青桐アオギリの大きな葉で股間を隠すよう命じられた斬喰郎が連れられるまま進んで行けば、すえた臭いが徐々に増して鼻腔を刺激する。


「おっかぁけえったど!」


 引き戸を開けた彦作に続いて中へ入ると、より強烈な腐敗臭に出迎えられる。それをき回すように現れたのは、薄明かりに飛び交うハエの群れ。ここは、とても人が住める環境ではなかった。


『ねえ、おまえさん』

「わかってる……」


 囁き声で何かを伝えようとする魑獲紗丸チェシャマルを制した斬喰郎は、鋭い視線で周囲を探る。

 これだけの強い腐肉の臭気に、魔物が引き寄せられない訳がない。実際、微量ながらも妖気に近いものが、囲炉裏の奥にある閉じられた障子の向こうから感じられていた。


 斬喰郎は、土間から囲炉裏端の横座を見据える。その奥の障子に、うっすらと人影が映った。


「彦作……そちらのおふた方は?」か細い女の声が聞こえてくる。


 不思議そうな様子で辺りを見渡した彦作は、その場に腰を落とし、履いている草鞋わらじのこま結びを解きはじめた。


「おっかぁ、このあんちゃんはオイラの恩人なんだ。今夜泊めてあげるけんど、いいよな?」


 なんの返事もしないまま、障子の向こう側にいるはずの母親が気配を消す。と、辺りに漂っていた微かな妖気も消え失せた。


「斬喰郎も上がってけろ。おっとうの長襦袢、持ってくっから待っててな」


 傷痕がまだ痛々しい顔で笑ってみせた彦作は、それから障子の奥座敷へ足を少し引きずりながら入っていく。

 ドタバタと騒がしい物音が聞こえる中、斬喰郎は青桐の葉を足もとの土間に捨て、片手に持ち替えた魑獲紗丸を静かに抜いた。


『アァン……この瞬間、いつもゾクゾクしちゃう』

「ああ、オレもだよ」


 薄明かりであろうと、そのやいばは妖しくも実に美しく、闇に映えて際立っていた。


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