第一章 復讐の幕開け
その①
――お姉様に復讐するまでは、死ぬ訳にはいかない。
クリスティアンの肉体は死んだ。
しかし、その魂は強い復讐の炎を燃やして闇の中をさ迷っていた。
そして、あまりにも強いその復讐心に惹かれた一人の悪魔が、転生のために天国へ運ばれようとするクリスティアンの魂を引き止めた。
「そんなに復讐がしたいなら、俺が力になってやる。その代わり、お前の魂を俺に捧げろ」
このまま天国へ行けば、前世での苦しみをすべて忘れて新しい命を生きることができる。クリスティアンでは経験できなかった幸せな未来を切り開くこともできるかもしれない。
それでも、クリスティアンは悪魔の言葉に頷いた。
この魂を悪魔に売ってもいい。姉シェリーロッドに復讐ができるのならば。
「いい暇つぶしになりそうだ」
悪魔はにやりと笑ってクリスティアンの魂に口づけた。
◇ ◇ ◇
「お嬢様! ティアお嬢様!」
バートロム公爵家の使用人たちが、広い屋敷内を走り回っていた。
「もう、お嬢様はどうして歴史の授業の時だけ隠れてしまわれるのかしら……」
メイド頭であるキャシーの呟きは、捜索している使用人皆の心の声だった。バートロム公爵家に仕えて三十年のキャシーは、もう今年で五十代後半になるが、まだまだ現役で体は丈夫だ。しかし、お嬢様の捜索に体力を消耗するため、メイド仕事もろくにできない。その顔には疲れが浮かんでいる。
教育熱心なバートロム公爵は、娘のティアレシアに優秀な家庭教師を何人もつけていた。しかし、ティアレシアは家庭教師など必要ないほどの秀才だった。それでも、公爵の意向や家庭教師の体裁のためにも、しっかりと授業を受けてもらわねばならない。
「お嬢様は、わたしの授業がつまらなくなったのかもしれませんね……」
歴史を担当する家庭教師のリチャードが困ったように笑った。
リチャードは、茶髪の頭が飛び出たようにひょろっとしていて頼りない風貌だが、その茶色の瞳には教育者としての熱意がたしかにある。
しかし、ティアレシアがあまりに授業に出てこないので、その瞳の奥にある炎はかなり小さくなってしまっていた。
そんな彼を見て、キャシーは慌てて首を横に振る。
「そんなことはございません! お嬢様は勉強が好きですし、先生の授業も好きですわ。ただ、歴史が苦手なだけかと」
「そうでしょうか……」
「何か気にかかることでもあるのですか?」
「現代史に入った頃から授業に出てこなくなったので、お嬢様には何か思うところがあるのかもしれません……」
「お嬢様は賢い方ですからね……でも、先生なら、きっとティアお嬢様を歴史好きに変えられますわ!」
自信を失いかけているリチャードを、キャシーが強引に励ます。
どんなことをしても、ティアレシアが歴史を好きになることはない、とこの屋敷の人間は誰も知らないのだ。
(歴史書なんて、事実とは違うことしか書かれていないもの)
キャシーとリチャードの会話を冷めた暖炉の中で聞きながら、ティアレシアは思う。
二人が応接間を出て行ったのを確認して、ティアレシアは窓から外に出た。
ブロッキア王国王都の西に隣接する、バートロム公爵家領であるジェロンブルク。
王都から少し離れている、というだけでこのジェロンブルクの土地は静かで、優しい感じがする。
それはきっとジェロンブルクの地に住む者皆があたたかいからだろう。
小さな街トレザに行っても、田畑を耕している者に会っても、皆が優しく笑いかけてくれる。
だから、ティアレシアは授業を抜け出すと、街に出る。
「お嬢様、また抜け出したのですか? そのうちキャシーが倒れますよ」
「……う、うるさいわね!」
いつの間にか隣を歩く背の高い男に、ティアレシアは口を尖らせる。
全身黒のお仕着せに身を包み、公爵令嬢であるティアレシアに無礼な口をきくこの男は、ルディという従者である――表向きは。
この田畑以外何もないのどかな田舎道には不釣合なほどに、ルディは異質な美しさを持っていた。
艶のある黒髪、深い闇を思わせる切れ長な漆黒の瞳。すっと通った鼻筋と、形のいい唇。芸術品のように完璧に整った顔は、一度見たら忘れられない美形である。その上、均整のとれた身体つきに、すらりと長い脚とくれば、女性の黄色い悲鳴がどこかから聞こえてきそうだ。
見た目は二十代後半だが、実年齢は不明。
ティアレシアも公爵令嬢としての気品と美しさはそれなりに備えていると思うが、パッと目を引くのはルディの方だ。
それが、女性としても、人間としても悔しい。
「歴史の授業、出ればいいのに……お嬢様、お得意でしょう?」
すべてを知っていて、ルディは意地の悪いことを言う。
「前女王クリスティアンは父である国王を殺し、敵国に国を売ろうとした大罪人である……そんな歴史をクリスティアンである私に学べというの?」
レミーア暦九九九年、女王クリスティアンはたしかに処刑されたが、その魂は生まれ変わった――悪魔であるルディの力によって。
クリスティアンが死んで十六年、もうすぐティアレシアはクリスティアンと同じ年齢になる。
「だが、今はバートロム公爵の愛娘ティアレシアだ……誰が、今のお前を見て処刑されたクリスティアン女王だと思う?」
正論を言いながらも、ルディの目は楽しんでいた。
クリスティアンが生まれ変わったティアレシアは、バートロム公爵家の一人娘だ。
水色がかった銀色の髪と紺色の瞳は、たしかに金髪碧眼だったクリスティアンとは似ても似つかない。
バートロム公爵家当主であるジェームス・バートロムは、先々代国王エレデルトの弟で、クリスティアンの叔父にあたる。血のつながりのためか、どことなくクリスティアンと顔立ちが似ている気もするが、自分がクリスティアンだったからそう思いたいだけかもしれない。
「ティアレシアとしてでも、女王クリスティアンが稀代の悪女として歴史に名を刻んでいることが許せないのよ。しかも、『その罪を暴いた現女王シュリーロッドのおかげでブロッキア王国に平和が訪れた』だなんて……っ!」
クリスティアンの名は、十六年前の大罪によって、悪女の代表として悪口や陰口に使われるようになった――かつては国民から慕われる名であったはずなのに。
真実など何も知らない人間が、シュリーロッドの言葉で歴史を歪めている。きっと今までも、権力を持つ者の言葉で歴史は塗り替えられてきたのだろう。
シュリーロッドの歴史など、学ぶ必要はない。
今まで学んできた歴史すべてが嘘に思えて、ティアレシアは歴史が大嫌いになった。
「……それで、俺はいつまで子どものお守りをさせられるんだ?」
耳元で囁かれた言葉に、ティアレシアの肌がゾクリと粟立つ。
この悪魔は、ティアレシアが生まれ変わった瞬間から今までずっと、従者として側にいた。
それは、クリスティアンの復讐を遂げるという望みを叶えて、この魂を奪うため。
「こんな街中で、そういう話はやめて頂戴」
「ふっ、誰もいないのにか」
到着したトレザの街に人はなく、がらんとしていた。その光景を見て思い至る。
この時期、商売をしている者は皆王都へ行ってしまうのだ。
レミーア暦一〇一五年、二月六日は女王シュリーロッドの誕生日。
今日は二月二日、女王生誕祭はもうすぐだ。
ブロッキア王国で商売をしている者は、女王シュリーロッドへ最高の贈り物をしなければ圧力をかけられる。国民は、祝い税を治めなければ罰せられる。
しかし、女王に謁見できる領主や贈り物を用意する商売人が少しでも女王を喜ばせることができれば、褒美をもらうことができる。
今の生活を守るため、女王の喜ぶものは何か、貴族や国民は皆必死で考えるのだ。
田舎であるこのジェロンブルクも例外ではない。しかし、領主が王弟であったバートロム公爵ということもあり、税率が大きく跳ね上がることは一度もなかった。
バートロム公爵は、女王の手から土地と領民の生活を守っている。
だからこそ、公爵家への領民からの信頼は厚い。
他の領地では、女王の圧力に耐えきれず生活困窮者が続出していると聞く。普段から厳しい税の取り立てに苦しみ、様々な規制に縛られて生きているのに、女王の機嫌次第でそれらはもっとひどくなるのだ。
寂しく冷たい風が、ティアレシアの銀の髪をすくう。
「あなたには、きっちり私の復讐に付き合ってもらうわ」
そう言って、ティアレシアはにっこりとルディに微笑みかけた。
二月六日の女王生誕祭で、ティアレシアは社交界デビューを果たす。ようやく女王の目の前に立つことができるのだ。
この日をどれだけ待ち望んでいたか……。
クリスティアンが生きられなかった十六年目から、復讐の幕が上がるのだ。
◆ ◆ ◆
華やかな世界が、クリスティアンの目の前には広がっていた。
きらきらと輝くシャンデリア、華やかな装飾、ぴかぴかに磨き上げられた食器、そして何よりも大広間に集まった人々の姿に圧倒される。
「お父様、私、本当に大丈夫かしら?」
自分の背丈よりもはるかに大きな鏡の前に立ち、クリスティアンはもじもじと落ち着かない気持ちで父エレデルトに問いかけた。
腰まで伸ばした長い金色の髪は複雑に編み込まれており、ドレスはピンクゴールドで華やかに、年相応の可愛らしさを出すために白色のリボンが胸元や膨らんだスカートにあしらわれている。
なんだか、侍女たちの気合いの入りようがいつもとは違う。完璧に飾り立てられた自身を鏡で見て大丈夫だと言い聞かせても、何度も見返す碧の瞳には不安の色が浮かんでいた。
普段はただ広いだけの大広間が、舞踏会になるとこんなにも眩しく煌びやかな世界に変わる。
この日は、十歳になったクリスティアンの初めての公務だった。
「クリスティアン、お前なら大丈夫だよ」
と優しい父が、震える肩をぽんと叩く。
今回のクリスティアンの仕事は、招待した隣国ヘンヴェールの国王への挨拶と、ヘンヴェール王国とブロッキア王国両国の友好関係を示すことだ。
クリスティアンは、王女としてこういった場での礼儀作法は物心つく前から叩き込まれている。いくら初めて大勢の人の前に立つからといって、不安で震えるようなことはない。ヘンヴェール国王への挨拶や貴族への挨拶も、今日までに何百回と練習してきたから問題はなかった。
しかし、たったひとつだけできないものがある。
「やっぱり、私には無理です……」
父に弱音を吐いたのと同時に、柔らかなワルツの演奏が始まった。
クリスティアンは、ダンスが苦手だった。いくら練習しても、曲のテンポに合わせてステップを踏めないのだ。ダンスの先生の足を踏むことは大得意だったが。
「クリスティアン王女様、どうか僕と一曲踊っていただけませんか」
クリスティアンの前に膝をついたのは、ヘンヴェール王国第二王子セドリックだった。十二歳のセドリックは、クリスティアンが思わず目を奪われるほどにきれいな顔立ちをしていた。
白地に金色の刺繍が入ったベストとズボンは、まさに王子様のイメージそのものだ。
しかも、それが不自然ではなく、よく似合っている。さらさらの金色の髪はひとつに結ばれ、彫刻のように整った顔はにっこりとクリスティアンに笑顔を向ける。
エメラルドの瞳にじっと見つめられて、クリスティアンの胸はどきどきと脈打つ。
(こんなに素敵な人が、一番に私と踊るの?)
この舞踏会は、ヘンヴェールとの友好を深めるためのもの。互いの国の王子と王女が仲良く踊る姿を見せて、関係が良好であると示さなければならない。
これははじめから決められていたこと。
そう頭では分かっていても、クリスティアンは自分がどれだけダンスが下手かを知っている。
不安から、その手をすぐには取れないでいた。しかしセドリックは、なかなか頷かないクリスティアンに優しく笑いかけてくれる。
「お父上にお聞きました。ダンスが少し苦手だとか。どうか、可愛らしい王女様にこれを贈らせてください」
そう言って、美しい王子様はクリスティアンの左手首に美しい緑色のブレスレットをはめた。
「貴国で採れたエメラルドをヘンヴェール王国の職人が加工したものです。両国の友好の証として、そして可愛い王女様の緊張が和らぎますように。僕がしっかりとリードしますから大丈夫ですよ」
その言葉通り、セドリックはクリスティアンのダンスを自然にフォローしてみせた。
ブロッキア王国は、鉱山を多く持ち、栄えている。
だから、その宝石の持つ意味もクリスティアンにはちゃんと分かっていた。
エメラルドは、叡智を象徴する石といわれており、心身のバランスを整えてくれるヒーリング効果の高い石だ。
そして、愛の力が強い石でもある。
セドリックの瞳によく似た色のブレスレットに、クリスティアンの頬は赤らむ。
彼にそんなつもりはないと分かっていても、贈られた宝石の意味を考えずにはいられない。
(セドリック様は、エメラルドのようなお方だわ)
クリスティアンは、ただセドリックに身体を預けているだけでよかった。
初めて、ダンスを楽しいと思えた。
あっという間に曲が終わり、パートナー交代の時がきた。
「もしよければ、クリスティアン様のお相手は僕が続けても?」
セドリックが耳元で囁いたその言葉は、クリスティアンの望んでいた言葉だった。
上手に踊ることができたのはセドリックのおかげだ。
他の人と同じように踊れるはずがない。
それに、セドリックともう少し一緒にいたかった。
「私でよければ、お願いしますわ……」
「もう一曲、可愛い王女様を独り占めできるなんて、僕は幸せ者です」
セドリックの優しい笑顔とその言葉に、クリスティアンの頬は赤く染まる。
これが、クリスティアンの初恋だった。
◇ ◇ ◇
小鳥のさえずりすら聞こえない、静かな朝。
誰に起こされるでもなく目が覚めたのは、この日がティアレシアにとって特別な日になるからだろう。
「もう起きてたのか」
平然とした顔で、従者であるルディがノックもなく入室してきた。
「ノックぐらいしなさいよ」
「まぁまぁ、そう言うな」
主人の機嫌など気にせず、嘘くさい笑みを浮かべてルディは給仕を始めた。
ティアレシアには、公爵令嬢に本来いるはずの侍女がいない。
代わりに、ルディがすべての身の回りの世話をしている。
「どうぞ、お嬢様」
本日はジェロンブルクの林檎を使ったアップルティーのようだ。
鼻孔をくすぐる甘い香りに、ティアレシアの心も和らいでいく。悪魔のくせに、給仕は完璧で、ルディが淹れる紅茶は文句なしに美味しいのだ。
アップルティーを飲み終えて、ティアレシアは気持ちを切り替える。
「そろそろ、ドレスに着替えるわ。支度をお願い」
社交界デビューを迎える若い娘のために仕立てられたのは、穢れを知らない白のドレス。
「こうして見ると、純真無垢な少女のようだな」
下着の上からコルセットを締めながら、ルディがにっこりと微笑んだ。
人を疑うことを知らなかったクリスティアンは“純真無垢”だったかもしれないが、復讐者であるティアレシアは違う。
それを分かっていて、ルディは意地悪く言うのだ。
「純粋な少女が悪魔と契約なんてするかしら? それに、この刻印がある限り、私はそんなきれいな存在にはなり得ないわ」
露わになっているティアレシアの右肩には、悪魔との契約の証が刻まれている。黒い花のようにも見えるそれは、古代文字で形成されている。あまりに小さいため、その文字を読み取ることはできないが、クリスティアンと悪魔ルディとの契約が成ったという証だ。
これを誰にも見せないために、侍女はつけていない。
ティアレシアに触れられる従者はルディのみだ。
「いや、お嬢様はとても美しい……」
肩の刻印にそっと触れて、ルディが耳元で囁いた。
そして、ルディは慣れた手つきでドレスを着つけ、化粧を施していく。
「さすがですわ、ティアお嬢様! 白磁のようなこのつややかな肌、まるでダイヤモンドのような輝きを放つ銀色の髪、そして長い睫毛に縁どられた大きな目……!」
キャシーの大袈裟な褒め言葉が耳に痛い。
後ろに控える使用人たちも、キャシーのわざとらしい泣き真似を見てくすくす笑っている。
「キャシー、ありがとう。分かったから……もうやめて頂戴。かえって馬鹿にされている気分になるわ」
ティアレシアは半ば呆れながらも、努めて優しくキャシーに声をかけた。後半は心の声が前面に出てしまったが。
「ですが、これが感激せずにいられますか! ティアお嬢様のお美しい姿をようやく皆様のお目にかけられるのですから! あぁ、きっとパーティに参加した皆様の目はお嬢様に釘付けですわね」
キャシーの言葉に、皆が大きく頷いた。キャシーのように大袈裟に表さずとも、皆がティアレシアを自慢に思ってくれていることは知っていた。
それが嬉しくもあり、悲しくもあった。
何故なら、ティアレシアはこれから皆の期待を裏切ることになるかもしれない。
ティアレシアの本当の心を知る者は、誰もいないのだ。
部屋の隅でにやりと笑っているルディ以外は。
キャシーの褒め言葉が一区切りついた時、屋敷に父ジェームスを乗せた馬車が到着した。
「きれいになったな、ティアレシア」
新品の黒のフロックコートに身を包んだ父が、ティアレシアを見るなり笑顔でそう言った。
その目には、たしかな愛情があった。
その愛情をティアレシアは複雑な思いで受け止める。そして、罪悪感を押し込めて顔に笑みを作り、ドレスの裾を持ち上げて礼をした。
「ありがとうございます、お父様」
純白のドレスの胸元や袖口、スカート部分には華やかなフリルが贅沢にあしらわれ、精緻なレースが上品さを演出する。大粒の真珠のネックレスはデコルテの美しさを際立たせ、揃いの真珠の髪飾りは水色がかった銀の髪によく映えていた。
すべて、ルディの見立てである。
娘がどこに出しても恥ずかしくない令嬢であることを改めて実感したジェームスは、思わず涙ぐむ。
そんな公爵を見て、屋敷の使用人たちまでもが感極まって目を押さえた。
「お父様も、みんなも、涙を拭いて頂戴。まだ生誕祭は始まってもいないのよ?」
ティアレシアは、チェストからハンカチを取り出して父に手渡す。
「お嬢様、旦那様、そろそろ出発しませんと……」
頃合を見て、ルディが口を挟んだ。
その声で掛け時計を見ると、もう針は午後四時を指していた。
生誕祭の始まりは午後六時。
ここジェロンブルクから王都までは、近いとはいえ馬車で一時間ほどかかる。
「そうだな。そろそろ行こうか」
父にエスコートされ、ティアレシアは公爵家の紋章が入った馬車に乗り込む。
馬車が走りだすと、表情が、知らず硬くなった。
「お嬢様、いかがなさいました?」
ルディが心配している風を装って聞いてくる。
「何でもないわ。女王生誕祭、楽しみね」
これから、クリスティアンを死に追いやった者たちに会いに行く。
ティアレシアは気持ちを切り替えて、王都へ向かう馬車に揺られていた。
ジェロンブルクの田舎道を抜け、王都入口の門をくぐると、そこはもう別世界だった。
ブロッキア王国の王都ローゼクロス。
王都全体は石畳の道で整備されており、赤い屋根が連なる市街が広がる。そして、テーリャ河にかかる大きな橋を越えれば、王侯貴族たちの豪華な屋敷が点在する。
テーリャ河によって、市民と貴族の生活区域は分けられているのだ。
もちろん、その貴族の住む区域の中心にはバートロム公爵家の屋敷もある。
領地を王都外に持っている貴族がほとんどなので、王城に仕事を持っている者以外は、王都の屋敷は滅多に使わない。王城で公式行事がある時や社交期に合わせて、各地に散らばる貴族たちが集まるのだ。社交界は、情報交換の場としても重要となる。
しかし、ティアレシアは王都の屋敷には一度しか来たことがない。
王都にいれば、クリスティアンの記憶が嫌でも蘇るから。
そうして、一度で懲りてティアレシアは社交界デビューする今まで、ずっと王都を避けていた。
「何も、変わっていないのね……」
王都の中心に建つ、巨大な王城グリンベル。
山を削って建てられたために、その城は王都をすみずみまで見下ろせる。
『ここから街を見ると、すべてがわたくしたちにひれ伏しているように思えない?』
まだクリスティアンが次期女王ではなく、ただの第二王女だった頃。
そう言って笑った姉の言葉を思い出し、ティアレシアは知らず険しい顔になる。
『いいえ、お姉様。この王城から見えるものすべてが、私たちを支えてくれているのよ』
姉の言葉を否定し、真っ直ぐに見返してクリスティアンはこう答えた。
ティアレシアとしても、あの時と気持ちは変わらない。
もっと国のことを知りたかったし、もっと国民と触れ合いたかった。
そうする前にクリスティアンは処刑されたが、ティアレシアならばそれができる。
娘が目を輝かせたことを、王都への憧れからだと思ったジェームスはにっこりと笑みを浮かべて言った。
「屋敷の者には、一か月ほど滞在すると伝えてある。生誕祭が終わったら、好きなだけ王都を観光するといい」
「ありがとう、お父様」
優しい父に、ティアレシアは柔らかく微笑む。
しかし、その表情の裏には憎しみと悲しみ、そして怒りと後悔が渦巻いていた。
王城グリンベルの強固な門をくぐり、見事な庭園を進み、馬車は大広間へ続く大階段の前で止まった。女王の生誕祭ともあって、馬車も人もかなり混雑していた。
王城グリンベルには、いくつもの宮殿が存在し、そのすべてに宝石の名がつけられている。
女王生誕祭の会場は、王城内で最も広く代表的な〈
どの出席者も、女王の前で粗相がないように、身なりを完璧に整えて来ている。招待状を大広間の入口で確認されている者たちの顔には、一様に緊張の色が見られた。
ティアレシアも、父のエスコートによって階段を上っていく。後ろには口元に笑みを浮かべたルディがついている。
招待状のチェックをしていた騎士は、父の顔を見るなり笑顔になり、どうぞと中へ勧めた。
ティアレシアが礼を込めて微笑むと、何故か騎士は目をぱちくりさせて頬を赤く染めた。ぼうっとしている騎士を不思議な気持ちで見つめ、ティアレシアは大広間へ足を踏み入れた。
広い大広間には、もうすでに何百という人々が集まって談笑していた。
着飾った人々、用意された様々なご馳走、美しい大広間の光景は十六年前と変わらない。天井を飾るシャンデリアは繊細で美しく、柱に刻まれた女神レミーアの彫刻は生きているよう。磨き上げられた床には華やかな幾何学模様が、天井には信仰するレミーア教の一場面が描かれている。太陽の神レミーアと、妹である月の神ルミーアが互いに守護する昼と夜を照らし、人々がその恩恵を受けている。
クリスティアンは、この天井画を見る度に、神話にある双子神のように姉と手を取り合ってこの国のために在りたいと思っていた。
(そんなこと、シュリーロッドが望んでいるはずなかったのにね)
クリスティアンとシュリーロッドは、母親が違っていた。
王家に近い血筋の母を持つクリスティアンと、ただの貴族を母に持つシュリーロッド。
だからこそ生まれる確執もあった。
思えば、父が第一王女であるシュリーロッドでなくクリスティアンを王位継承者に指名した時から、すべては始まっていたのかもしれない。
「さっきの騎士、お嬢様に見惚れてたな」
こっそり囁くルディの言葉に、ティアレシアは眉間にしわを寄せる。
「見惚れていた、というよりも驚いただけでしょう。この髪色に」
ブロッキア王国の人間は、だいたいが金髪や茶髪で、銀色の髪を持つ者は一人もいない。
両親の髪色も金髪で、ティアレシアはその特徴を受け継いでいない。もちろんティアレシアは正真正銘バートロム公爵家の娘だが、生まれたばかりの時は髪色を理由に貰い子だとか変に噂されたこともあったという。そのすべてをジェームスが一蹴し、周囲にも分かるぐらいの親バカぶりを発揮していたので今となってはそんな噂を聞くこともないが。
ルディのような黒髪も、海を越えた東方の国の人間の特徴で、この王国にもちらほら存在するから珍しいものではない。皆、一応常識として黒髪の存在を知っているのだ。
しかし、銀色の髪ともなると前例がないために奇異な目で見られてしまう。
ただ、ティアレシアが幸運だったのは、バートロム公爵家の娘であったということ。
貴族の中では最も高い身分の家柄だ。陰で何かを言うぐらいならば誰でもできるが、直接バートロム公爵家に喧嘩を売る勇気のある貴族はいない。
それに、女王に近づくため、バートロム公爵家令嬢という立場は十分すぎる。この点に関しては、ルディに感謝しなければならない。
(ルディがどこまで考えていたのかは分からないけれど……)
当の本人は、大広間に集まる令嬢たちの熱い視線を受けてまんざらでもなさそうに微笑んでいた。
その様子に何故か苛ついたが、ティアレシアは黙って父の背を追う。
そのうち、大広間いっぱいに人が集まり、あとはもう女王を待つだけとなった。
近衛騎士が女王の入場を告げると、騒がしかった大広間は一瞬で静まり返った。
そうして大広間の奥の扉から、赤いドレスに身を包んだ女王が現れた。
蜜色の髪がきれいに結い上げられた頭には、女王の象徴ともいえる真紅のルビーが埋め込まれたティアラが輝いている。深海を思わせる藍色の瞳は大広間の人間たちを映し、その形のいい唇は笑みを作っていた。憎らしいほどに、女王は美しかった。
女王は夫にエスコートされ、大広間を見渡せる玉座に座る。そして、女王の隣に夫が座った。二人の座っている椅子は真紅の生地でできていて、まるで血のようなその色にティアレシアは気分が悪くなる。
血の塊の上に座って優雅に微笑む女王は、贅沢な金と宝石が散りばめられた大広間、そしてそこに集まった人々を満足そうに見つめている。女王夫妻が玉座に座るまで、大広間に集まった者たちは
もう結婚して十五年になるが、女王夫妻に子どもはない。そのため、仮面夫婦ではと囁かれている。しかし、女王である妻を夫がエスコートし、笑顔で見つめ合う様子を見る限り、仲の悪い印象は受けない。
「皆様、今日はわたくしのために集まってくれて本当にありがとう」
皆に視線を向け、女王は優雅に微笑んで言った。
その言葉で、大広間に集まった人々は再び頭を下げた。
その様子を見て、女王は満足そうに笑う。
「どうかわたくしを楽しませてね」
女王シュリーロッドの三十四歳の誕生日、その祝いのために集められた貴族たち皆の間に、自分たちの贈り物が女王の機嫌を損ねはしないかと緊張の糸が走った。
女王の合図で王宮楽団の演奏が始まり、生誕祭が幕を開ける。
貴族たちは順番に女王への祝辞と賛辞を述べ、贈り物を渡していく。
「ティアレシア、お前は女王陛下とは初顔合わせだが、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、お前の従姉妹にあたるお人だからな」
微笑む女王の姿を目にし、知らず硬くなる娘の表情を見て、ジェームスが安心させるように笑った。
もうすぐ、ティアレシアも女王の前に立つ。
「えぇ、大丈夫よ、お父様。私は女王陛下にお会いすることをずっと楽しみにしていたのだもの」
そう言って笑ったティアレシアの目には、たしかな憎悪が浮かんでいた。
しかし、すでに前を向いていた父ジェームスは、娘の変化に気づかなかった。
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