第50話 優しい微笑み
あれは、父親が蒸発して、しばらくした日の夕方。
小学校から帰ってきたら、僕の母さんが泣いていた。
夕陽が差し込む部屋の中で、洗濯物を握りしめながら、身体を震わせて啜り泣きしている母さんを見て、僕は驚いて声を掛けた。
「どうしたのママ?」
母さんは、僕の存在に気が付くと、目を拭ってにこりと笑った。
「何でもないわよ。さぁ、夕食の準備しましょ」
そう言って立ち上がり、夕食の準備を始める母さんの姿は、どこかへ消えていってしまいそうな儚さを感じた。
リビングへと目をやると、途中で畳むのをやめた洗濯物が、無造作にフローリングの床に置かれていた。
母さんの涙を見たのは、それが最後だったかもしれない。
それから母さんは、毎日のように僕を笑顔で出迎えてくれるようになった。
「おかえり、恭太!」
「ただいま!」
家に帰ると、洗濯物を畳み、夕食の準備をしつつ、笑顔で僕の帰りを出迎えてくれる母さんの姿があった。
ご飯を毎日きっちり用意してくれて、一緒に食べて、そこから一緒にお風呂に入って、同じ部屋で布団を並べて寝る生活。
「ねぇママ! これ買って!」
「これが欲しいの? 仕方ないわねぇ。ちゃんと宿題毎日やるのよ?」
「やったぁ! ありがとママ!」
僕が欲しいものをねだると、お金がないにもかかわらず、嫌な顔一つ見せずに買ってくれた。
◇
俺が中学生に上がって、部活を初めて帰りが遅くなっても、母はいつも変わらない笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり、恭太」
「……ただいま」
テーブルに並べられた食事、俺の帰りを待っていてくれた母。
反抗期も相まって、母と接するのが気恥ずかしくなっていた時でも、母は怒ることなく、ずっとその優しい微笑みを振りまいて俺に接してくれていた。母の温かみのある愛情に、反抗期だった俺も、次第に再び心を開くようになっていき、気が付けば仲良く一緒に夕食を食べて、同じ部屋で寝ていた。
「母さん、これ買っといて」
「え、ちょっと恭太!? ったくもう……」
俺がどんなに冷淡な態度を取っても、母は俺が押し付けたメモ帳に書いてあるものを買ってくれた。愚痴一つも言わずに……
◇
そんな母の様子が変わり始めたのは、俺が高校に入学したころから。
突如、夜勤の仕事を始めたかと思えば、次第に母の様子が明らかに変化していった。
「それじゃあ恭太。明日までお留守番よろしくね。学校行ってらっしゃい!」
「うん、母さんも仕事頑張って」
母は、夜間の仕事にもかかわらず、厚手のコートを羽織り、ばっちりとした化粧もして、うきうきした気分で仕事に向かっていった。
まるで、今までの温かみのある笑顔が、上っ面で嘘の笑顔だと思えてしまうほどに、母の笑顔は輝いていた。
とある日、俺は母に聞いてみた。
「母さん、何かあった?」
俺が尋ねると、母はまたあの優しい笑顔で微笑んで言うのだ。
「恭太は、自分の事だけ頑張りなさい。私は、大丈夫だから」
その笑顔が、俺にとっては逆に怪しくなっていった。
そしてまたしばらく経つと、母が家に帰ってくる頻度が減ってくる。そして、その優しい微笑みじみた笑顔の回数も減っていき、家事もおろそかになっていった。一人でご飯を食べる時間も増え、寂しい日々が続いた。
俺は、そこで培った家事スキルが、今に生きているのだが、その話は今は置いておこう。
母が帰ってこない分、俺は必死に家事をこなした。だが、それは苦ではなく、仕事を頑張っている母のためだと思って頑張った。
「ただいま」
「おかえり、母さん」
「あら……ごめんなさい。ご飯作らせちゃって」
だが、家事をする俺の姿を見た母の表情は、どこか申し訳なさそうでもあり、悲しい表情にも見えた
そして、その時は突然やってきた。
冬休み、家で籠っていると、母親が男の人を連れて帰ってきた。
そして、母が神妙な面持ちで言い放つ。
「恭太。私、再婚しようと思うの」
俺は言葉を失って、口をぽかんと開くことしか出来なかった。
詳しく事情を聞くと、夜勤の仕事先で出会った彼に、心身ともに疲労していた母が支えてもらい、手を差し伸べてくれたのがきっかけだったという。その優しさにほれ込んでしまった母は惹かれていき、再婚を決心したのだという。
夜間の仕事で大変なのに、母が嬉しそうに仕事に行く姿を見て、不思議には思っていた。自分の中にあった心の引っ掛かりが、解消された気分だった。
しかし、そんな急に再婚すると言われても、最初から納得できるはずがない。
母が何も俺に相談せずに再婚を決めたことが悲しくて、許せなかった。
だが、俺は察してしまったのだ。母が再婚相手に振りまいている笑顔を見て、今まで見たこともないくらい幸せな笑顔だということに……
結局、母の説得もあり、俺は渋々母の再婚を認めることにした。
俺の心の中に、今まで育ててくれた分、幸せになって欲しいという気持ちもあるのは事実だったから。
でも、俺の中にはやるせない気持ちと、むしゃくしゃするような気持ちがわだかまって残った。
そのたびに、母の幸せそうな笑顔が、俺の頭の中でフラッシュバックして、頭から離れない。
俺は、幸せそうな笑顔を母が見せているのが耐えられなかった。
今まで俺に見せていた笑顔が仮面を被ったものではないかと、不安に駆られてしまうから。
それ以降。俺は母と距離を置くことにした。
今まで俺に向けているその笑顔が、本物ではないと認めたくなかったから。
俺は再婚相手も好きになれなかった。
電子たばこを口にくわえて、すぱぁーっと息を吐く姿は、まるで俺に関心を寄せていないそのものだった。
二人きりになった際には、こんなことまで言われた。
「なぁ、お前は一人暮らしする気ないの?」
「へっ?」
「だから、一人暮らしだよ!」
再婚相手は、終始俺に対してはイライラとした口調で言い放ってきた。
今思えば、遠回しに『母と暮らしたいから、一人暮らししてくれない?』と暗に言われていたのだと思う。
再婚はしたものの、しばらくは俺がいることもあり、別居生活を続けながら、平穏な生活を過ごしていたのだが、その時は突然訪れた。
「恭太、あんた来週から一人暮らししなさい」
我が子を奈落の底へと落とすような非常通告。
この時、初めて母を恨みそうになったかもしれない。
母がここまで俺に冷たい態度を取ったのは、初めてだったから。
今まで自分がわがままを言っていた見返りが一気に来たのだと思った。
俺は、甘んじてこれを受け入れざるおえなかった。
そこからは、ご覧の通り、友達の家を転々としていたところを、穂波さんに助けられて、紆余曲折ありながらも、今に至る。
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