記憶喪失の侯爵様に溺愛されています これは偽りの幸福ですか？

旦那様からのお誘い その②

「……その、リリアーナ」

「はい」

　旦那様はなんだかとても言い辛（づら）そうなご様子で、鮮やかな青い瞳（ひとみ）は何かを探すようにうろうろしています。薄（うす）い唇（くちびる）も何かを言おうとしては閉じて、また開いて、でも何も言わずに閉じてを繰（く）り返（かえ）します。

　もしや私は自分でも気付かぬ内に何か無作法なことをしてしまったのでしょうか。心優しい旦那様は、それを正そうとして下さっているのかもしれません。

「旦那様、申し訳ありません」

　私は立ち上がり深々と頭を下げました。旦那様が少し驚いたように身構えます。

「私、旦那様が不（ふ）愉（ゆ）快（かい）に思われるようなことをしてしまったのですね……」

「は？　え？　ち、違う、断じて違う！」

「ですが、何やら言い辛そうにしていらっしゃいますし、難しいお顔をなさっていますし、やはり何か私が……」

「だから違う、ええっとあの、そうだ、これ！　これは何に使うものか聞きたかったんだ！」

　旦那様が手に取ったのはヘッドドレスです。旦那様は男性ですのでこれが何かご存じなくても無理はありません。きっと年下の私に聞くのが恥（は）ずかしかったのでしょう。

「ほらな、君は何も悪いことはしていないから、座（すわ）ってくれ」

　そのお言葉にほっと胸を撫で下ろして、私はソファに座り直しました。

「これはヘッドドレスと申します。エルサが使っているものはお仕事用なのでシンプルですけど、これはちょっとしたお出かけ用やおめかし用にと思って作ってみました」

　このヘッドドレスはレースと布で作ったお花をあしらっていますが、それだけではなく楕（だ）円（えん）形（けい）の紺（こん）色（いろ）の下地には白の糸で菱（ひし）形（がた）の模様を刺繡で表現し、菱形模様の角にはガラス製のビーズをあしらっています。エルサたちがとても素（す）敵（てき）だと褒（ほ）めてくれた品です。

「そうか……この布の花も君が？」

「はい。エルサが幾（いく）つか布をくれたので……クッションカバーはいらなくなったシーツで作りました。リボンはメイドさんたちが子どもたちのためにと寄付してくれたので、私は刺繍をしただけです」

「子ども？」

「旦那様はお忘れかもしれませんが……奥様がこれらを作っているのは全て、当家が運営している孤（こ）児（じ）院（いん）のバザーに出すためです」

　エルサが私の足りない言葉を補って旦那様に説明してくれました。

「旦那様は孤児院の子どもたちのことは昔からとても気にかけていらっしゃって、学生の頃も戦（いくさ）が終わって落ち着いてからも定期的に訪（おとず）れていたそうです」

「子どもが、好きだったんだろうか」

「精神年（ねん）齢（れい）が同じくらいですから気安いのかもしれません。お庭で子どもたちと楽しそうにはしゃいでおられたそうですよ」

　旦那様が頬を引（ひ）き攣（つ）らせていますが、エルサはふふっと笑って楽しそうです。

　今の話を聞いて私が立ち上がろうとすると、すぐにエルサが私の気持ちを汲（く）み取（と）って寝（しん）室（しつ）からお菓（か）子（し）の箱を持ってきてくれました。

「それは？」

「孤児院の子どもたちがお礼にとくれたのです。寄付で貰ったというお菓子の箱の中に私へのプレゼントをたくさん詰（つ）め込んでくれたのですよ。お手紙も頂きました」

　王都で評判のお菓子屋さんの箱は、捨てるのがもったいないくらいに綺麗です。蓋を開けると、押し花や子どもたちが描（か）いてくれた絵、毛糸で作ったコースターと何通かのお手紙が入っています。子どもたち手作りのクッキーやマフィンも入っていたのですが、エルサと一（いつ）緒（しよ）に美（お）味（い）しく頂いてしまいました。

「アーサーさんがルーサーフォード家の孤児院は、他の孤児院よりもずっと子どもたちが豊かに暮らせていると教えて下さいました。このお手紙やお花を見る度にその通りなのだなぁと思います。きっと心根の優しい子どもたちなのでしょうね。旦那様のことも、時折一緒に遊んで下さったとか、剣（けん）術（じゆつ）を教えてもらったと書いてあるのですよ」

　エルサたちの話以外で唯一、ほとんど知らない旦那様のことを子どもたちからのお手紙が教えてくれました。

　拙（つたな）い文字で一（いつ）生（しよう）懸（けん）命（めい）綴（つづ）られた便（びん）箋（せん）の中に、旦那様の話題が出る度にやはり優しい人なのだと実感したものです。

　一度、慰（い）問（もん）に行かれてはとアーサーさんが提案して下さいましたが、旦那様の許可が下りなかったので行ったことはありません。

　ですが旦那様のお立場を考えれば仕方ないことです。有力貴族の若き当主で見（み）目（め）麗（うるわ）しく、スタイルも抜（ばつ）群（ぐん）。その上、隣（りん）国（ごく）との戦争で偉（い）大（だい）な功績を残した旦那様は騎士団の出（しゆつ）世（せ）頭（がしら）で、王太子殿（でん）下（か）からの信（しん）頼（らい）も厚いとくればますます人気に拍（はく）車（しや）がかかるのも頷けます。

　けれど、旦那様は同時に女（おんな）嫌（ぎら）いでも有名でダンスは踊（おど）らず、ご令（れい）嬢（じよう）との交流も必要最低限だったらしいのです。なんでも英（えい）雄（ゆう）となった旦那様の妻の座を狙（ねら）い、大勢のご令嬢が醜（みにく）い争いを始め、それに辟（へき）易（えき）した旦那様は女嫌いになってしまったのだそうです。ですから、その旦那様がいきなり伯（はく）爵（しやく）家（け）にいたのかどうかも怪（あや）しい娘（むすめ）と結（けつ）婚（こん）したので、社交界は騒（そう）然（ぜん）とし、多くのご令嬢が涙（なみだ）したそうです。

　故（ゆえ）に夜会にも茶会にも一度も出たこともない侯（こう）爵（しやく）夫（ふ）人（じん）を多くの貴族の皆様が──特に女性が知りたがっているのです。私は実家にいた頃から外の世界に触れたことはありませんので、家族と使用人さん以外は誰も私を知らないため余計に噂（うわさ）になっているのです。私が美しく完（かん）璧（ぺき）な淑女であれば良かったのですが、噂の侯爵夫人が不器量で何もできないただの小（こ）娘（むすめ）では皆様をがっかりさせてしまう上、旦那様の評判に傷が付いてしまうのは明らかです。なので、私は侯爵家に嫁いでからも敷（しき）地（ち）の外へは出たことがありません。とはいっても実家にいた頃に比べれば、ずっとずっと自由で幸せなので困ったことは一度もありませんが。

「リリアーナ。私と君は、教会の戸（こ）籍（せき）上は夫（ふう）婦（ふ）だ」

　徐（おもむろ）に旦那様が切り出しました。確かにその通りなので、はい、とその言葉を肯（こう）定（てい）します。

「しかし、お互いのことは全くと言っていいほど知らない。その上、私は自分のことも分からなくなってしまった」

　旦那様の端（たん）正（せい）なお顔に悔（くや）しさが滲（にじ）んでいるのを見つけてしまいました。旦那様が記憶を失ってまだ一週間、でも旦那様にとってはもう一週間なのかもしれません。

「焦らないで下さいませ、旦那様。モーガン先生が無理は禁物だと言っていました」

「……ありがとう。君は優しいな」

「いえ、お優しいのは旦那様です。旦那様のお蔭で私は何不自由ない暮らしができているのですから」

　旦那様は、そうか、と小さく呟（つぶや）いて顔を俯けました。けれど、数（すう）拍（はく）の間を置いてすぐに顔を上げ、徐に立ち上がりこちらにやって来るとなんと私の足元に膝（ひざ）をついたのです。

「だ、旦那様っ？」

　慌てる私を他（よ）所（そ）に旦那様は私の手を取ると、その大きな両手で包（つつ）み込むようにして握り締めました。顔を上げた旦那様の鮮やかな青い瞳に囚（とら）われて私は固まってしまいます。

「だが、私は夫としては失格だっただろう。君を顧（かえり）みることもなく、寧（むし）ろ、自分勝手な理由で疎（うと）んでいたとアーサーに教えられた。挙句の果てに君のことを綺麗さっぱり忘れて、どれだけ頑（がん）張（ば）っても思い出すこともできない。これまでの私は君を傷付けるばかりだった」

　まるでそのことを心から後（こう）悔（かい）しているかのように旦那様は言葉を紡ぎました。

　旦那様は本当にお優しい方です。私は、握られている旦那様の手にもう片方の手を重ねて、旦那様の心が少しでも軽くなればと願いました。

「旦那様、そんなにご自分を責めないで下さいませ。私が旦那様に傷付けられたことはこれまで一度だってありません。それに、思い出せなくても仕方がないことです。たった三回しか顔を合わせなかった人間のことなど、もともと記憶になくても不思議はございませんもの。ですからどうか、ご自分を責めないで下さいませ」

　握り締められた手に力が込められたかと思うと旦那様は、どうしてか今にも泣き出しそうな顔になってしまいました。旦那様、とお声を掛けるとその顔を隠すように私の膝に顔を埋（うず）めてしまいました。それでも握った手を離（はな）してくれる様子はありません。

　どうしたらいいのか分からず、私はエルサを見上げました。一（いつ）瞬（しゆん）エルサはとても冷たい目をして旦那様を見ているような気がしましたが、優しいエルサがあんな冷たい目をするなんて私の見（み）間（ま）違（ちが）いでしょう。

「そのすっからかんの頭を撫でて差し上げれば、その内復活すると思いますよ」

「でも具合が悪くなったのならモーガン先生をお呼びしたほうが……」

「いいえ、旦那様は懺（ざん）悔（げ）しようにもその資格すらもないという想定外の事態に耐（た）えられなかったただの腑（ふ）抜（ぬ）けでございますので。奥様が御心を痛める必要は一（いつ）切（さい）ございません。それに奥様が頭を撫でて差し上げればそれで充（じゆう）分（ぶん）、いえ寧ろ、贅（ぜい）沢（たく）です」

　エルサの言葉の意味はよく分かりませんでしたが。

　私は、旦那様の琥（こ）珀（はく）色の髪をそっと撫でました。セドリックの子ども特有の柔らかな髪に比べると旦那様の髪はしっかりとしていて、さらさらと私の指の間を抜（ぬ）けていきます。こっそり確認しましたが、旦那様の後頭部にあった大きなたんこぶはなくなっていました。

　それから暫く頭を撫でていたのですが、今度は微（び）動（どう）だにしなくなってしまいました。

「エルサ、どうしましょう、旦那様、もしかしたら気を失っているのかもしれません。だって動かないんですもの」

　あまりにも動かない旦那様に不安になって助けを求めるようにエルサを見上げます。

「そのようなことはございませんよ。……いい加減にしないとアーサー様を呼びますよ、ヘタレ（旦那）様」

　何か言外に別の意味合いも含（ふく）まれていたような気がしますが、エルサの呼びかけに旦那様の逞（たくま）しい肩（かた）がびくりと跳（は）ねました。気を失っていたわけではないようです。

　私がほっと息を吐（は）き出したのとほぼ同時に旦那様が勢いよく顔を上げました。

「リリアーナ、今度のと言っても大分先だが、孤児院のバザーに一緒に行かないか？」

　予想外の言葉に今度は私が固まってしまいました。

「私と君は、夫婦だ。死が二人を別つまで共にある関係なのだから、お互いのことをよく知るためにその機会を設けるべきだと思うのだ。だからもっと話をして、一緒に出かけたりもしたい。これから毎日、私は君と過ごすための時間を少しでも作る。だから、今度の孤児院のバザーにも一緒に行かないか？」

　旦那様は冗談を言っているようには見えず、至（し）極（ごく）真剣な眼（まな）差（ざ）しで私を見つめています。

　一体全体、旦那様はどうしてしまったのでしょう。私の顔を見るのすらあんなに嫌（いや）がっておいででしたのに、一緒に過ごしたいだなんて驚き以外にありません。

　ですが記憶喪失になってしまって何もかもが分からない中、お飾（かざ）りでも妻という家族の肩書を持つ私に縋（すが）りたくなるほど心細いのでしょう。

「こうしてお話をするのはかまわないのですが……孤児院は……行けそうにありません」

　私は、物心ついた時には外出は禁じられておりましたので外の世界のことは何にも知らないのです。

　私は、また無意識の内に鳩尾（みぞおち）に手を当てていました。

　不安や恐（きよう）怖（ふ）といった負の感情は、この鳩尾にずしりと重く固まる気がするのです。ですから幼い頃から不安になると鳩尾を押さえる癖（くせ）が付いてしまいました。

「私と出かけるのは、嫌か？」

　旦那様がおそるおそるといった様子で私に問いかけます。私は、まさか、と慌ててその言葉を否定しました。

「その、私は……両親の言い付けで、外に出たことがないのです。部屋に引きこもりっぱなしだったもので世間知らずですから、旦那様に迷（めい）惑（わく）をかけてしまいます」

　色んな気持ちを誤（ご）魔（ま）化（か）すように私は微笑（ほほえ）みました。

　孤児院の子どもたちに会ってみたい気持ちはあります。けれど、旦那様の評判に傷を付けてしまうほうが恐ろしいことですし、ご迷惑をおかけするのも嫌なのです。

「記憶喪失の私のほうが君に迷惑をかけているだろう？」

「旦那様が迷惑だなんてそんなことはありません……っ」

　神（しん）妙（みよう）な顔で問う旦那様に私は首を横に振ります。

「そ、それに、多くの方がどんな人間かと知りたがっている侯爵夫人が私のような世間知らずのぱっとしない小娘だなんて知れたら、侯爵家の恥（はじ）になってしまいます」

「恥だなんてそんなことがあるわけないだろう？　それにぱっとしないなんて嘘だ。君はとても美しい女性だよ？」

　旦那様は心底、理解ができないというご様子で首を傾げています。

「君は体が強くないと聞いた。だからご両親も外に出さなかったのだろう？　今は充分、元気になったとモーガン医師が教えてくれた。外出禁止を言い渡（わた）した私が言うのはおこがましいが、一緒に出かけよう。ご両親だってきっと娘に外の世界を知ってほしいはずだ」

「で、ですが……私は……」

　旦那様の眼差しから逃げるように顔を俯けました。

　鳩尾に伸（の）びそうになった手が大きな手に捕（つか）まって、優しく包まれます。

「リリアーナ、こうなったら何が何でも孤児院のバザーに行こう」

　有（う）無（む）を言わせぬ口調で旦那様は私の手を強く握り締めて宣言しました。後ろでエルサまで、うんうん、と頷いています。

　それを拒否することは許してもらえそうになく、私はおずおずと頷くことしかできないのでした。