第二章
旦那様からのお誘い その①
「モーガン先生、あの……
旦那様が
モーガン先生はこの六日間、ずっと
幸い旦那様は記憶
ゆっくり休んで頂きたいので、私は午前中に少しだけお顔を見に行きお話をするだけでしたが、旦那様はみるみるうちに回復して、ご飯もよく食べて、よく
モーガン先生は、エルサの
「旦那様の経過は順調ですよ。もともと、子どもの
「そう、ですか……お元気なら良かったです」
私はほっと胸を
「ただ記憶のほうはまだ戻る気配がありませんが……この数日間、観察した結果を
そう告げるモーガン先生に私は姿勢を正します。
「奥様、記憶とは家で例えると柱のようなものです。この屋敷にも立派な柱がありますが、柱がしっかりしているからこそ
モーガン先生は、できるだけ分かりやすい言葉を選んでゆっくりと話して下さいます。
「旦那様の場合は、その大事な柱が
「……記憶は、戻らないのですか?」
「こればかりは誰にも分かりません。記憶喪失というものは薬では治りませんからな。今夜戻るかもしれないし十年後かもしれないし、
「忘れすぎ、ですか?」
言葉の真意が分からず、私は首を
「記憶の
モーガン先生が困ったように
モーガン先生の言葉から察するに旦那様は、何かとても辛いことか哀しいことがあったということなのでしょうか。
いつも温和な先生の困った顔はあまり見たことがなくて、なんだか不安になってしまいスカートをぎゅうと
「大丈夫ですよ、奥様。何があろうとこのエルサがお
「ありがとうございます、エルサ。……申し訳ありません、先生、続きをお願いします」
モーガン先生は、エルサと同じように心配そうに私の顔を見た後、一度、紅茶で
「ここから先の話は、私の推測でしかないことを最初に申し上げておきます。……旦那様は頭を打った際にもしかしたら、全てを忘れてしまいたいと願ったのかもしれません」
予想外の言葉に私はエルサを振り返りました。けれど、エルサはどこかもどかしげな表情を
「
「……申し訳ありません。私は旦那様のことは何も、本当に何も知らないのです。エルサ、何か心当たりはありませんか?」
エルサは、
「最近の旦那様はほとんどこちらには戻られませんでしたのでフレデリック、或いは副師団長様か師団長専属の事務官の方々や
「そうですか。
エルサの答えに何かを考え込むようにしていたモーガン先生が不意に顔を上げました。そこにはいつもの
「この機会に、少しだけでも旦那様と向き合ってみませんか?」
思いがけない提案に私は暫く言葉を見つけられず、ただ
「奥様、奥様、お気を確かに」
とんとんとエルサの手が私の手に
「向き合う、の、ですか」
なんとも情けない声が出てしまいました。けれど、モーガン先生は
「無論、
「チャンス……」
「ええ。……もちろん、私は奥様が
「で、ですが……」
思い出すのは、あの夜の冷たくて
ここ数日は毎日お会いして、短い時間ですがお話もしておりますし、元より旦那様はこんな私を妻として
人の
「奥様、すみません。少し私が
「いえ、先生は何も悪くありません。私が
「そんなことはありません。臆病なことは決して悪いことではありませんよ。……向き合えとはもう言いません。その代わり、少しだけお
「……お話ですか?」
「ええ。こうやって私やエルサと話すように、ほんの少しだけでも旦那様の本来の人となりを知ってみたら、怖くなくなりますよ」
「奥様、私もフレデリックも必ずお傍におりますから。もし、旦那様が何か
「旦那様、私とお話なんてして下さるでしょうか……」
「ゆっくりでいいのですよ。奥様の心が思うようにすればいいのです」
けれど物事というものは予想できないことのほうが多いと知ったのは翌日のことでした。
旦那様が、一週間ぶりにベッドから出る許可が出た
今朝の旦那様は、今日こそはベッドから出る許可を
旦那様は、慌てる私に刺繍を続けるように言うと向かいのソファに腰掛けて、それから何を言うわけでもないのですが、視線を感じるのです。エルサが部屋の
私は、来月の一日に行われる夏のバザーに向けてクッションカバーや小物入れ、ヘッドドレスやリボンに刺繍を入れていますが、見ていても
「……旦那様、あの……お部屋で休んでいらしたほうが……」
「リリアーナは、刺繡が好きなのか?」
私の言葉はさらっと受け流されてしまい、逆に質問が返されました。
旦那様は、じっと私を見つめて答えを待っています。
「……刺繍をすると、誰かが喜んでくれるので好きなのです」
とはいっても刺繡を
「確かに見事な
テーブルの上にあったクッションカバーを手に取り、旦那様がしげしげと
そこではたと、旦那様に
「あ、あのっ、旦那様」
「ん?」
「裁縫箱と刺繡糸、とても嬉しかったです。妻として何の役目も果たせていないのにこんなに
ぺこりと頭を下げて一気に言いきりました。
ですが、達成感に
「裁縫箱と刺繍糸くらい、お礼を言われるようなことじゃない」
旦那様が
「そんなことありません」
私は
「実家にいた頃は、姉様やお
隣に置いた裁縫箱を振り返り繊細な花の
「私、この綺麗な糸を眺めているだけで幸せなのです」
ずらりと並ぶ糸を撫でながら、自然と
赤色一つとっても少しずつ
私はもう一度、心を込めて
「旦那様、本当にありがとうございます」
「あ、ああ、いや、喜んで、もらえたのなら何よりだ」
旦那様は心なしか顔を赤くしてそっぽを向いてしまいました。
もしや無理をして熱でも出てきてしまったのでしょうか。やはり、たったの一週間では回復しきれなかったに違いありません。
「旦那様、お顔が赤いです。もしやお熱が出たのではありませんか? すぐにお部屋に戻って休みましょう」
「これは違うから大丈夫だ。まだ部屋には帰らない、もう少し君と話がしたいんだ」
もしかしたらモーガン先生が、旦那様にも私と話をするようにと助言して下さったのかもしれません。旦那様は誠実な方なので先生の言葉を守ろうとしているのでしょう。
「大丈夫ですよ、奥様」
いつのまに近くに来ていたのか顔を上げればエルサがいました。
「あまりにお綺麗だったのでちょっと
エルサがにっこりと笑って言いました。
「確かに、この糸はとても綺麗ですものね……でも、本当に大丈夫かしら」
無理が一番いけないとモーガン先生は言っていましたので私は心配でなりません。
「旦那様は殺しても死にやしませんから大丈夫ですよ。でも、奥様のお心に
「エルサの言う通り、私は大丈夫だ」
エルサの言葉を
旦那様は、ごほんと
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